帰宅、そして学園は
玄弥は駅から家まで、ほとんど走っていた。
呼吸が乱れる。
だが、足は止めなかった。
――時間は、深夜。
街灯の下、見慣れた住宅街がやけに遠く感じる。
門をくぐり、玄関の前に立った時、ようやく息を整えた。
「……」
鍵を回す音が、夜には大きすぎた。
――ガチャ。
玄関の灯りは、点いていた。
静かに靴を脱ぎ、扉を閉める。
その瞬間、分かってしまう。
まだ、起きている。
居間の方から、微かに人の気配。
テレビの音はない。
話し声もない。
ただ、いる。
「……帰った」
低く、短く告げる。
返事はない。
だが、足音がひとつ。
それだけで十分だった。
玄弥は居間へと足を運んだ。
明かりの下。
家族は、揃っていた。
誰も怒っていない。
誰も責めない。
ただ、黙って、玄弥を見る。
「……遅くなった」
そう言うと、視線が一瞬だけ動いた。
それだけ。
しばらくして、父が立ち上がる。
「風呂、もう冷めてる」
それだけ言って、キッチンの方へ向かった。
「……」
玄弥は、その背中を見送る。
母は何も言わず、湯呑みを置いた。
その音が、やけに響く。
「……飯」
ぽつりと、言われる。
「後でいい」
「そう」
会話は、それで終わりだった。
怒鳴られない。
詰め寄られない。
だからこそ、胸の奥が重い。
玄弥は、頭を下げた。
「……心配、かけた」
一瞬、沈黙。
それから、母が短く言った。
「分かってるならいい」
それ以上、何もなかった。
部屋に戻る途中、居間の灯りが消えた。
それだけで、今日が終わったと分かる。
自室に入り、扉を閉める。
ベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。
異界で何百年過ごしても、
この空気だけは、慣れない。
「……ちゃんと、生きて戻ったんだ」
誰に言うでもなく呟く。
夜は、静かだった。
風呂場の湯気が、ゆっくりと天井に溜まっていく。
玄弥は湯船に肩まで沈み、長く息を吐いた。
「……はぁ……」
身体の奥に残っていた軋みが、ようやくほどけていく。
異界で受けた無数の傷、その感覚はもうない。
だが、記憶だけが、まだ抜けきらない。
湯の中で指を握る。
霊力は、確かにある。前とは比べ物にならないほどに。
「……三十日、か」
こっちの世界では、たったそれだけ。
風呂から上がり、タオルで髪を拭きながら居間へ向かう。
家族はもう部屋に戻っていた。
静まり返った居間で、何となくテレビの電源を入れる。
『——次のニュースです』
キャスターの落ち着いた声。
画面に視線を向けた瞬間、玄弥の動きが止まった。
『二週間前、都内にある霊術学院が妖怪による襲撃を受けました』
「……は?」
画面には、見覚えのある校舎。
結界の痕跡、崩れた訓練場の一部。
『この襲撃により、学院関係者数名が負傷——』
背筋に、冷たいものが走る。
「二週間……前?」
『現在、原因となった妖怪は討伐されたと発表されていますが——』
映像が切り替わり、封鎖線と報道陣、伏せられた詳細が映る。
『学園側は「外部への影響はない」としていますが——』
玄弥は無言でテレビを見つめていた。
二週間前。
その頃、玄弥は異界で何度目かの死を迎えていた。
「……遅すぎた、か」
リモコンを握る手に力が入る。
胸の奥で、嫌な音がした。
世界は、待ってくれない。
修行がどれほど過酷でも、時間をどれほど費やしても。
画面には学園の正門が映っている。
そこにあるはずのない欠けを、玄弥だけが感じ取った。
「……行くしかないな」
風呂上がりの身体に、再び緊張が戻る。
静かな夜は、もう終わっていた。
翌朝。
玄弥はいつもより早く目を覚ました。
家の中は、昨夜と同じように静かだった。
家族は何も言わない。
けれど、その沈黙が「行くんだな」と言っている気がした。
「行ってくる」
短く告げて、玄関を出る。
返事はなかったが、背中に視線を感じた。
――霊術学院。
電車を降り、坂道を上る。
見慣れたはずの通学路は、どこか違って見えた。
学園の正門は、閉じられてはいなかった。
だが、以前のような結界の張りつめた気配が薄い。
「……」
敷地に足を踏み入れた瞬間、玄弥は理解した。
――やられている。
校舎の一部は、明らかに崩れていた。
外壁には、修復途中の術式痕。
訓練場は半分ほど抉れ、地面には霊力焼けの跡が残っている。
それでも、血の匂いはない。
死の気配も、もう感じない。
「夏休みで助かった、か……」
通りすがりの職員の会話が耳に入る。
「学生はほとんど帰省中だったそうだ」
「実習組も被害は軽微。奇跡的だな」
奇跡。
その言葉が、妙に軽く聞こえた。
学園は、確かに立っている。
授業が再開すれば、きっと皆、笑って戻ってくるだろう。
だが。
玄弥の目には、分かる。
ここは一度、“壊された”。
見えない部分が。
守られているはずだったものが。
「……二週間」
自分がいなかった時間。
その間に起きた現実。
玄弥は、崩れた訓練場の前で立ち止まり、拳を握った。
もう、修行のために世界を置き去りにはできない。
強さは、間に合わなければ意味がない。
風が吹き抜け、瓦礫の間で小さな音を立てた。




