名付け、呪いとの戦い
宣誓を終えたあとも、刀は不安定だった。
呼べば応える。
だが、常に輪郭が揺らいでいる。
霊力が満ちていても、
顕在化に一拍の“間”が生まれる。
「……まだ足りないか」
玄弥が呟くと、九尾が静かに応じた。
「当然だ」
⸻
九尾は、顕在化しかけの刀を見つめる。
剥き身の刃。
鍔はない。
形は定まっているが、存在が定着していない。
「宣誓は“在り方”を示したに過ぎぬ」
「だがな、玄弥。霊装は――名を持って初めて、世界に根を下ろす」
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「……名?」
玄弥が眉をひそめる。
八岐大蛇が、低く笑った。
「刀に名をくれてやれって話だ」
「生き物じゃねぇ。だが、霊装は“概念”だ」
「名がなけりゃ、世界はそれを覚えちゃくれねぇ」
⸻
九尾が頷く。
「名とは、存在の座標だ」
「呼ばれることで応え、
記されることで、揺らがなくなる」
「名を与えれば、霊装はお前の霊力により深く結びつく」
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玄弥は、黙って刀を見る。
条件で縛らない。
命令もしない。
宣誓で“在り方”を示した。
なら――
名は、願いでも理想でもない。
もっと現実的なもの。
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「……重いな」
ぽつりと漏れる。
名を与えるということは、
それを最後まで背負うということだ。
九尾は何も言わない。
八岐大蛇も、茶化さない。
待っている。
⸻
玄弥は、ゆっくりと息を吐いた。
「俺は、守るための力を持ってるわけじゃない」
「正義でも、救済でもない」
刀が、微かに震えた。
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「それでも」
玄弥は、はっきりと言う。
「何にも染まらず、意思を貫く」
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刀に、霊力が流れ込む。
今度は揺らがない。
「だから――」
玄弥は、名を告げた。
「この刀の名は、《無垢》だ」
⸻
空気が、変わった。
霊装が“固定”される感覚。
霊力の流れが、一本の線になる。
呼ばずとも、刀はそこに在る。
⸻
九尾が、わずかに笑う。
「良い名だ」
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八岐大蛇は、肩を鳴らす。
「覚悟の重さで振るう刀か、折れねぇといいがな」
玄弥は、《無垢》を握った。
以前より、軽い。
だが、誤魔化しは一切きかない。
この刀は、
向き合う意思を失った瞬間、応えなくなる気がした。
それでいい。
玄弥は、そう思った。
無垢――
名を与えられた刀は、玄弥の手の中で静かに存在を主張していた。
振り回さずとも、力を込めずとも、そこに「在る」とはっきり分かる。
これまでの霊装とは、決定的に違う感覚だった。
だが次の瞬間、膝がわずかに揺れた。
「……っ」
踏みとどまろうとして、足に力が入らない。
限界が近いことを、身体が正直に訴えていた。
「今日はもう休め」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り返るまでもない。葛葉――九尾だ。
「……まだやれる」
玄弥はそう言いながらも、刀を鞘へと戻す。
無垢は素直に霧散し、霊力だけが微かに空気に残った。
「“やれる”と“やるべき”は違う」
「今のお前は、壊れる寸前だ」
葛葉は隣に立ち、開けた草原の向こうを見つめた。
ここに来てから、どれほどの時間が流れたのか。
数える意味は、もうない。
「……どうだ」
唐突に、葛葉が言う。
「何がだ」
「霊装を“使えた”感触は」
玄弥は少し考え、正直に答えた。
「初めてだ。借り物じゃないって思えたのは」
「九尾の力でも、制約でもない。……俺の意思だった」
葛葉は小さく息を吐いた。
笑っているようにも、懐かしんでいるようにも見える表情で。
「ようやくだな」
その一言は、やけに重かった。
「お前はやっと――」
「スタートラインに立った」
玄弥は苦笑する。
「随分、遠回りさせられた気がするけどな」
「当然だ」
「呪いに削られ、霊力を壊され、それでも立ち上がった」
「最初から走れるほど、世界は優しくない」
風が草を揺らし、遠くで何かが鳴いた。
「……でも」
葛葉は、玄弥の方を見る。
「今のお前なら、前に進める」
「無垢は、その証だ」
玄弥は何も言わず、空を仰いだ。
ここから先に待つものが、地獄であることは分かっている。
それでも――逃げる理由は、もうどこにもなかった。
「今日は休め」
「続きは、また明日だ」
玄弥は短く頷く。
「ああ」
こうして、修行の日は一度、静かに幕を下ろした。
――
翌朝。朝日はまだ柔らかい。
玄弥は、無垢を握り締める。
刀の感触は、昨日よりも確かだ。
だが、相手は八岐大蛇。容赦はない。
「……始めるぞ」
八岐大蛇が低く笑う。
今日もまた、無理難題の組み手だ。
⸻
霊装を構え、斬りかかる。
刀は意思を映す。
剣先は正確に、だがまだ力不足。
八岐大蛇の攻撃は速く、豪快で、何度も寸でのところでかわされる。
斬りつけるも、届かない。
刃は霊力に従うが、相手の動きを追い切れない。
殺される回数は減ったとはいえ、勝利には程遠い。
⸻
午後。八岐大蛇との戦闘の合間、玄弥は地面に膝をつく。
九尾が、静かに告げる。
「次は、霊力を枯渇させる訓練だ」
玄弥は、顔を上げる。
「……またか」
「底を知らなければ、力は伸びん」
八岐大蛇も、腕組みしたまま口元を吊り上げる。
「死ぬほどやれ。死んでも問題ねぇ」
⸻
訓練開始。
全力で霊力を押し出す。
身体中の血が熱を帯び、霊気が肌を突き抜ける感覚。
心臓が止まりそうになるたび、さらに霊力を送り込む。
膝をつき、刀を握り直す。
限界を超えるたび、霊力は枯渇していく。
それでも、まだ体は動く。
⸻
そして――
霊力が完全に底をつく瞬間。
世界の色が変わる。
意識が溶ける。
身体が霧のように軽くなる。
その度に、呪いが現れる。
鬼の姿の自分に成りすました、あの恐ろしい存在。
戦う。
だが、今回も勝てない。
⸻
倒れ、また立ち上がる。
何度も繰り返す。
攻撃は少しずつ通るようになるが、呪いもまた進化する。
気づけば、この訓練だけで異界で更に百年を過ごしていた。
⸻
それでも、玄弥は止まらない。
刀《無垢》を握り、心の奥で宣誓を繰り返す。
「逃げない。向き合う」
霊力が枯渇しても、意識が溶けても、
この意思だけは、揺るがない。
⸻
次の瞬間、八岐大蛇が声をかける。
「……よし、今日はここまでだ」
膝をつく玄弥に、九尾は静かに頷く。
「少しずつだが、進んでいる」
その言葉に、わずかに安堵が混じる。
霊力は以前の数倍に膨れ上がり、刀《無垢》の扱いも格段に安定してきた。
組み手の動きは、八岐大蛇との戦いで鍛え上げられた。
攻撃は正確、受けも無駄がなく、動きに無駄がない。
膝をつき、深く息を吸う。
刀を握る手に力を込めるたび、意思と霊力が一体になる感覚が生まれる。
⸻
九尾が、静かに声を落とした。
「……ここまで来たか」
八岐大蛇も、腕を組んだまま少し顔を上げる。
「次は呪いと真正面だな。遊んでる暇はねぇ」
玄弥は、刀《無垢》を構える。
決意が刀に宿る。
⸻
意識を内へと集中させると、世界が変わった。
世界がわずかに揺れる。
呪いが、玄弥を探り始めているのがわかる。
鬼の姿を取る呪いが、影のように現れた。
――これまでの戦いで、手も足も出なかった存在。
だが今、玄弥には以前とは比べ物にならない力がある。
⸻
刀《無垢》を振る。
霊力が、意思のままに流れる。
斬撃の軌跡は正確で、影の中の呪いにも届く。
呪いもまた応戦する。
鬼の力を増幅させ、攻撃は容赦なく襲いかかる。
だが、玄弥は冷静だ。
体が覚え、霊力が増大した今、何度倒されても立ち上がれる。
⸻
刀を振るたび、霊気が呪いを貫く。
刃が命中すると、呪いは一瞬ひるむ。
「……来い!」
叫ぶたびに、刀と霊力が一体化する。
動きは滑らかで、無駄がない。
それでも、呪いはただ一撃で消える存在ではない。
幾度倒しても、再び立ち上がり、形を変え、さらに強くなる。
⸻
刀《無垢》を握る手に、熱い感覚が走る。
霊力が枯渇する寸前まで出力しても、以前のような恐怖はない。
意思と力が、ようやく同期している。
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玄弥は、刀を構え直した。
刀《無垢》が、意思を宿したまま刃先を揺るがさず、
彼を見上げる鬼のような呪いへ向かって立ち向かう。




