呪いと向き合う時間
意識が、叩き落とされる。
灰色の世界が砕け、
玄弥は現実へと引き戻された。
「……っ」
喉が、焼けるように痛む。
全身が、鉛のように重い。
視界が定まった時、
見えたのは――天井ではなく、空だった。
異界の空。
「起きたか」
低く、無骨な声。
八岐大蛇が、腕を組んで立っている。
玄弥は、身体を起こそうとして――失敗する。
「……今のはなんだったんだ」
九尾が、短く息を吐く。
「どうした、玄弥?」
玄弥は、歯を噛みしめた。
「……俺の姿をしている奴にあった」
その一言で、空気が変わる。
八岐大蛇の表情が、わずかに険しくなる。
「ほう」
九尾は、目を細めた。
玄弥は、視線を逸らさず続ける。
「俺の考え方も、癖も、全部知ってる」
「反論しようとした瞬間を、狙って殴ってきた」
沈黙。
しばらくして、九尾が言った。
「……それは呪いだ」
「しかも、妖怪の王が残した類の中でも、最悪の部類だ」
玄弥は、息を整えながら聞く。
「消せないのか」
九尾は、首を横に振る。
「消せる、しかし失敗すればお前も壊れる」
「呪いは今や、
お前の霊力の流れと癒着している」
八岐大蛇が、低く笑った。
「要するにだ」
「殺せねぇ相手と、一生殴り合えってことだ」
玄弥は、目を閉じた。
「……最悪だな」
「今さらだ」
九尾は冷たく言い放つ。
「呪いは、お前を育てるつもりなどない」
「隙を見せれば、即座に喉を噛み切る」
その言葉を、証明するように。
次の瞬間――
玄弥の視界が、再び反転した。
⸻
灰色の世界。
もう一人の玄弥が、そこに立っている。
無表情。
感情の欠片もない。
「……」
呪いは、答えない。
踏み込みも、予兆もなく、殺意だけで距離を詰めてくる。
玄弥は、咄嗟に防御するが――間に合わない。
腹に、衝撃。
視界が白く弾ける。
倒れる前に、呪いの声が落ちてきた。
「甘い」
地面に、叩きつけられる。
息が、続かない。
呪いは、容赦なく踏みつけた。
「勝ちたい?」
「もしオレに勝った消えてやるよ――まぁ、無理だろうがな!」
意識が、沈む。
⸻
これが、日常になった。
目覚める。
共有する。
再び引きずり込まれる。
呪いは、教えない。
導かない。
ただ、殺しに来る。
だが――
負けるたび、
玄弥の霊力は、ほんの僅かずつ“整っていった”。
気づけば。
ここで過ごした時間は、
百年に達していた。
それでも、呪いは言わない。
勝てるようになった、などとは。
ただ一言。
「――まだだ」
灰色の世界に立つことにも、
もはや違和感はなかった。
空気の重さ。
地面の感触。
呪いが現れる間合い。
すべて――身体が覚えている。
⸻
対峙するのは、
もう一人の玄弥。
無表情。
殺意だけが、そこにある。
玄弥は、静かに息を吐いた。
(来る)
呪いが踏み込む。
以前なら、反応が遅れていた距離。
だが今は違う。
腕を払う。
体を捻る。
拳を流す。
攻撃が、当たらない。
呪いの動きが、ほんの僅かに鈍った。
玄弥は、間合いに踏み込む。
拳が――
呪いの顎を捉えた。
衝撃。
呪いの身体が、後方へ弾ける。
初めて。
完全に、打ち抜いた。
⸻
「……ふむ、では本気を出すか」
呪いが、ゆっくりと立ち上がる。
だが、先ほどまでとは違う。
足運びが、乱れている。
呼吸が、わずかに重い。
玄弥は、間合いを詰める。
次で、終わらせる。
全身の霊力を、拳に集める。
――今なら、届く。
踏み込む。
拳を振り抜く。
急所。
これで――
⸻
その瞬間。
呪いの影が、膨れ上がった。
「……あ?」
違和感。
いや――
悪寒。
呪いの身体から、
黒く濁った霊力が噴き出す。
骨が軋み、
筋肉が盛り上がる。
額から、角。
背中から、異形の影。
「……なっ、」
玄弥の動きが、一瞬遅れた。
致命的な、一瞬。
⸻
鬼。
呪いは、鬼の姿へと変貌していた。
「遅い」
声が、低く歪む。
次の瞬間――
視界が、消えた。
拳。
否、殴打という概念そのもの。
身体が宙を舞い、
地面を何度も跳ねる。
骨が、鳴った。
「がっ……!」
立ち上がろうとするが、
脚が言うことをきかない。
鬼の呪いが、ゆっくりと近づく。
「覚えておけ、これからが本番だと」
鬼の拳が、振り下ろされる。
衝撃。
世界が、白く弾けた。
⸻
次に目を覚ました時、
玄弥は地面に伏していた。
意識世界が、遠ざかっていく。
最後に見えたのは――
鬼の姿のまま、立つ“自分”。
冷たい声が、残された。
「次は、その力をもっと引きずり出してから来い」
闇。
⸻
目覚めると、
九尾が、静かに告げた。
「……どうした、玄弥」
「ハアハア‥呪いを倒したと思ったら鬼化した」
「なっ、それは本当か。
であるならお前は初めて呪いを“恐れさせた”」
八岐大蛇が、低く笑う。
「呪いは1割も力だしてなさそうだな、
地獄は、ここからだな」
玄弥は立ち上がる。
「……今度は必ず倒す」
その日を境に――
呪いは、現れなくなった。
意識世界へ引きずり込まれることもない。
殺意に晒されることもない。
あるのは、
ただ――自分自身と向き合う修行だけだった。
⸻
霊力を引き摺り出す。
九尾に言われた通り、
外から借りる力を一切断つ。
霊装も、尾も。
純粋な、自分の霊力だけ。
最初は、何も起きなかった。
身体は空っぽで、力を求めても、応えはない。
「……こんなもんかよ」
だが、そこで止まらない。
八岐大蛇の理不尽な組み手。
九尾の容赦ない指摘。
倒れても、立たされる。
壊れても、整えられる。
眠る時間は、ほぼない。
⸻
ある日。
踏み込みの瞬間、
身体の奥で何かが鳴った。
熱でも、怒りでもない。
静かな、確信。
霊力が、
無理やり引き出されるのではなく――
自分から湧き上がった。
九尾が、目を細める。
「……ようやくだ」
⸻
そこからは、早かった。
霊力の流れが、安定する。
身体が、耐えられる。
出力を上げても、
血は噴き出さない。
八岐大蛇の攻撃に、耐えられる。
そして――
「止めだ」
初めて、
八岐大蛇が修行を止めた。
⸻
時間が、示される。
「ここで、五十年だ」
玄弥は、驚かなかった。
体感では、もっと短い。
だが、確かに積み重なっている。
九尾が、静かに言う。
「今のお前は自分の霊力だけで、
修行前の“全力のお前”を超えている」
玄弥は、拳を握る。
霊力が、自然に巡る。
無理がない。
暴走もしない。
「……まだだ」
ぽつりと、そう言った。
九尾が、口角を上げる。
「そう思えるなら、上出来だ」
⸻
だが。
玄弥は、分かっていた。
呪いが出てこないのは、
消えたからではない。
――待っている。
次に会う時は、
今までとは違う。
その予感だけが、
胸の奥に、静かに沈んでいた。




