水の底で踠く少女
――怖かった。
学院の医務室で目を閉じても、
森の暗さと、あの歪んだ顔が、何度も浮かんでくる。
指先が、わずかに震えた。
「……また、か」
私は布団の中で、ぎゅっと手を握りしめる。
霊に襲われた経験は、これが初めてじゃない。
それでも――
あれほど明確な殺意を向けられたのは、初めてだった。
あの時。
足が動かなくなった自分が、情けなくて、怖くて。
逃げることも、術を使うこともできず、
ただ立ち尽くして――
そこに、彼がいた。
西園寺玄弥。
学院では、少し変わった人として知られている。
霊が使えない、という噂。
正直に言えば、
最初は、少しだけ安心していた。
――自分より下の人がいる、なんて。
最低な考えだと分かっているのに。
でも。
あの時、私の前に立った彼の背中は、
そんな噂とはまるで違って見えた。
「……怖くなかったのかな」
呟いて、すぐに首を振る。
怖くなかったはずがない。
声も、手も、少し震えていた。
それでも彼は、逃げなかった。
私のために。
――その事実が、胸の奥に沈んで離れない。
◆
水瀬家は、古い。
とても、古い。
陰陽師の名門として名を連ね、
水霊を扱う家系として、代々続いてきた。
幼い頃から、私は言われ続けてきた。
「あなたは水瀬の娘なのだから」
その言葉は、いつも正しい。
正しくて、重かった。
水瀬家の霊術は、防御と制御に長けている。
攻撃的ではないが、支える力。
だからこそ、
「安定している」「優秀だ」と言われる。
けれど私は――
その“安定”に、何度も救われなかった。
あの日も、そうだった。
初めての実地訓練。
制御が乱れ、霊が暴走しかけた。
水は、柔らかい。
でも、制御を失えば――溺れる。
「落ち着いて!水瀬!」
教官の声。
仲間の叫び。
でも、私の体は動かなかった。
恐怖で、頭が真っ白になった。
結果、私は助けられた。
誰かが、止めてくれた。
それ以来。
私は、戦う場面になると、体が言うことを聞かなくなる。
それを、家族はこう言った。
「向いていないなら、後方支援に回ればいい」
優しい言葉。
でも――逃げ道でもあった。
◆
医務室の窓から、夕暮れが見える。
水面のような色の空。
「……また、逃げるの?」
小さく、自分に問いかける。
今日も、私は何もできなかった。
彼に守られて、震えていただけ。
それでも。
彼は、私を責めなかった。
「逃げるだけでいい」
そう言ってくれた。
――でも。
それは、“今は”という意味だったんじゃないか。
「……」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
私は、水瀬家の娘だ。
怖がりで、弱くて、それでも――
霊を扱える。
彼は、霊を扱えなかった。
それでも、立ち向かった。
「……ずるい」
思わず、笑ってしまう。
自分よりずっと怖い状況なのに、
彼は前に出た。
それが、どうしようもなく胸に刺さった。
◆
夜。
私は、一人で訓練場に立っていた。
誰もいない時間帯。
灯りも最低限。
手が、まだ少し震えている。
「……水よ」
小さく、呼びかける。
掌の上に、淡い水の霊が集まる。
不安定で、頼りない。
それでも――
逃げなかった。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
水は、流れる。
止まらなくていい。
形を保てなくても、
進むことはできる。
掌の水が、ゆっくりと回り始めた。
完璧じゃない。
でも、消えてもいない。
その時、胸の奥で、小さな決意が生まれる。
――次は。
次に、彼が戦う時。
私は、後ろで震えているだけの存在でいたくない。
「……少しでいい」
彼の背中を、支えられるくらいでいい。
水瀬家の娘としてじゃなく、
水瀬マトリとして。
私は、深く息を吸った。
水の霊が、静かに応える。
恐怖は、消えない。
でも――
沈みきらなければ、溺れはしない。
そう、初めて思えた。




