妖怪に魅入られた者
翌日。
教室の扉を開けた瞬間、肌を刺すような重い空気が満ちていた。
ざわつきはあるが、それはいつもの好奇心ではない。 ――明確な、警戒と恐怖。
「……日下部、今日ヤバくない?」
「近寄らない方がいい。昨日から目つきが人間じゃない」
視線の先。日下部は机に足を投げ出し、頬杖をついていた。
カツ、カツ、カツ。
机を叩く指の爪が、木材を削り、深く食い込んでいる。
その苛立ちは、もはや隠しようのない妖気となって全身から滲み出ていた。
⸻
授業中も、異常は続いた。
「……そこは、霊力を左に流して――」
「はぁ、かったりぃんだよ」
日下部の吐き捨てた声に、教室が凍りつく。
「……日下部?」
「そんな基本、いちいち説明しなくていいだろ。答えはこうだ」
教師の言葉を遮り、彼が口にしたのは完璧な正解だった。
だが、その声は二重に響いているように聞こえ、背筋に冷たいものが走る。
誰も笑わず、誰も声を上げられない。
ただ、日下部の背負う「闇」に圧倒されていた。
⸻
昼休み。
日下部の周りには、誰もいない。
近づいた生徒が、軽く肩に触れただけで。
「触るな」
低く唸るような声、目が血走っている。
「……わ、悪い」
相手が引くと、日下部は舌打ちした。
「チッ……」
拳が、机を叩くドン、という音が教室に響いた。
誰かが、小さく悲鳴を上げる。
玄弥は、歯を食いしばった。
(……完全に、抑えが効いてない)
⸻
放課後。
「日下部!」
乱暴な足取りで校門へ向かう日下部を、玄弥は呼び止めた。
振り返った彼の瞳は、白目の部分まで赤く充血し、瞳孔が獣のように縦に裂けかけていた。
「少し、話せるか。……無理してるだろ、お前」
「無理?」
日下部が鼻で笑う。
「今までが無理だったんだよ。力があるのに、無能共に合わせてやるのがな」
彼が一歩踏み出すたび、ざらついた、獣じみた霊圧が玄弥の肌を削る。
「……それ、本当にお前の力か?」
「借り物でも、強けりゃ俺の勝ちだ。文句あるか?」 日下部は吐き捨て、踵を返した。
追えば、ここで爆発する。
玄弥にはそれが分かった。
⸻
翌日の放課後。
日下部は校舎裏の通路で、逃げ場を塞ぐように待ち構えていた。
その足元には、黒いヘドロのような歪んだ妖気が滲み出している。
「決闘しようぜ。実技形式。一対一だ」
「……何?」
「逃げるなよ。今の俺が、どこまでやれるか。……お前に『格付け』してやるよ」
日下部の目は、もう正気の色を失っていた。
「断る。今のお前は危なすぎる。誰かが怪我をするぞ」
「は? ビビってんのか。上から目線で説教垂れてんじゃねぇよ!」
ドンッ! 日下部が地面を蹴ると、コンクリートに亀裂が走った。
「今日の夕方、訓練場だ。来なかったら――逃げた臆病者として、全校生徒に言いふらしてやる」
玄弥は、その場に立ち尽くした。
(受けたら最悪だ、でも放っておいたらもっと酷くなる)
「どうする、玄弥」
葛葉が、静かに問う。
玄弥は、ゆっくり息を吸った。
「……行くしかない、俺が止める」
夕焼けが、訓練場の方角を赤く染めていた。
⸻
夕方。赤く染まった訓練場に、人影はない。
中央に立つ玄弥の前に、影を長く引きずりながら日下部が現れた。
(……来る!)
宣言も、合図もない。
次の瞬間、視界から日下部の姿が消えた。
――ガァンッ!
玄弥が間一髪で跳び退いた直後、さっきまで彼がいた地面が、爆下したかのように抉り取られた。
「チッ、避けたか」
土煙の中から現れた日下部は、狂ったような笑みを浮かべていた。
「おい、ウォーミングアップもなしかよ!」
「当たり前だろ! 殺す気で行くぜ西園寺!」
ドン! 踏み込みの速度は、もはや人の限界を超えていた。
迫る拳。玄弥は霊力を腕に集中させ受け流す。
「ぐっ……重い……!」
ただの打撃ではない。妖の力が拳に乗り、腕の骨が軋む。
「どうした、西園寺! 前の勢いはどうしたよ!」
荒れ狂う連撃。
一撃ごとに訓練場の土が舞い上がる。
日下部の背後で、黒い影が膨れ上がり、獣の輪郭を形作り始めていた。
「玄弥! もう『半分』出ておるぞ!」
葛葉の鋭い叫びが響く。
「憑依が滲み出しておる! 理性を喰われる前に、核を叩け!」
日下部が腕を薙ぎ払うと、鎌風のような妖気が地面を裂きながら迫る。
「ははっ! 最高だ、この力……! なあ玄弥、お前も本気を出せよ!」
手を抜けば、死ぬ。
玄弥は覚悟を決め、練り上げた霊力を一気に引き上げた。
「……分かった。全力で、お前を止める!」
二人の霊圧がぶつかり合い、訓練場の空気が爆ぜた。
日下部の笑みがさらに歪む。
背後の影は、もはや巨大な化け物の顎のように大きく開かれていた。
これはもう、決闘ではない。
人と、成り損ないの化け物による――
「生存競争」だった。




