戦いの始まり
学園の結界は、静かに息づいている。
それは普段、誰にも意識されない。
空気と同じで、あって当たり前の存在だった。
――そのはずだった。
朝の始業前。
霊力感知装置の表示灯が、微かに揺れた。
「……ん?」
見回りをしていた教師が、足を止める。
数値は、異常値ではない。
だが、波形が歪んでいる。
「誤作動か……?」
記録を取りながらも、首を傾げる。
結界自体は、まだ機能している。
破られてもいない。
だが、“内側”で何かが揺れている。
⸻
一方、玄弥は教室で、理由の分からない不安を抱えていた。
胸の奥が、ざわつく。
霊力が、微妙に逆立っている。
(……来る)
根拠はない。
だが、確信に近い感覚だった。
窓の外を見ると、空はいつも通りだ。
生徒たちも、笑い、話し、席に着いている。
それなのに。
「……玄弥?」
マトリの声に、はっとする。
「顔色、悪いよ」
「……いや」
短く答え、視線を戻す。
説明できない予感ほど、厄介なものはない。
⸻
チャイムが鳴る。
その瞬間だった。
――ブツン。
空気が、途切れた。
結界の一部が、内側から“軋んだ”。
「警報?」
廊下の先で、低い音が鳴り始める。
霊力警報。
だが、外敵侵入ではない。
内部異常。
教師たちの顔色が変わる。
「生徒はそのまま教室待機!」
「落ち着いて!」
指示が飛ぶが、
すでに霊力の流れは乱れ始めていた。
⸻
教室の隅。
一人の生徒が、俯いている。
肩が、小刻みに震えていた。
「……っ」
息が荒い。
皮膚の下を、何かが蠢く。
「や、やめ……」
次の瞬間。
霊力が、爆ぜた。
机が吹き飛び、悲鳴が上がる。
「な、何だ!?」
「化け――」
言葉は、途中で途切れた。
人の形をしていたものが、
歪み、変質していく。
爪が伸び、
目が赤く濁り、
口元から牙が覗く。
「……あ、は」
掠れた声。
「これが……力……!」
玄弥は、即座に立ち上がった。
(――半妖)
いや、もうそれ以上だ。
⸻
同時刻。
別の棟でも、悲鳴が上がる。
廊下で、生徒同士が衝突し、
一方が壁に叩きつけられる。
「やめろ!」
止めに入った教師が、
異様な力で弾き飛ばされた。
「先生が……!」
混乱が、連鎖する。
霊力警報が、校舎全体に響く。
「全生徒、避難行動に移れ!」
「実技担当、鎮圧準備!」
だが、敵は外から来ない。
内側に、すでにいる。
⸻
玄弥は、変貌した生徒と向き合う。
かつて、同じ教室で笑っていた顔。
今は、獣のように歪んでいる。
「……戻れよ」
低く、言う。
「まだ、人だろ」
だが、返事はなかった。
あるのは、渇いた欲望だけ。
「力……」
「もっと……」
次の瞬間、飛びかかってくる。
玄弥は歯を食いしばる。
(……始まった)
女の言葉が、脳裏をよぎる。
――壊しなさい。
学園は、もう安全な場所じゃない。
平穏は、音を立てて崩れ落ち、
戦場へと変わり始めていた。
これは、ただの事件じゃない。
恐怖の、始まりだ。
校舎は、もう学園の姿をしていなかった。
悲鳴。
破壊音。
霊力が暴発する、耳鳴りのような振動。
玄弥は、瓦礫の散らばる教室の中央に立っていた。
正面にいるのは――
かつて、同じクラスで席を並べていた生徒。
名前を、知っている。
ノートを貸したこともある。
どうでもいい話で笑ったこともある。
「……どけ」
玄弥の声は、震えていない。
震えそうになるのを、必死で抑えていた。
元生徒だった“それ”は、ぎこちなく首を傾ける。
「……げ、ん……や……?」
一瞬だけ、人の声だった。
だが次の瞬間、
歯が軋み、
喉から獣じみた息が漏れる。
「力……くれ……」
飛びかかってくる。
玄弥は、反射的に身をかわした。
拳が、壁を粉砕する。
(この威力……)
人間のものじゃない。
「目、覚ませ!」
叫びながら、玄弥は霊術を放つ。
あくまで制圧用。
骨を折らず、内臓を潰さず、動きを止めるための術。
だが――効かない。
霊力が、歪んで弾かれる。
「っ……!」
反撃を受け、玄弥は床を転がる。
(殺せない)
(殺したら、終わりだ)
でも、このままじゃ――
誰かが殺される。
「くそ……!」
歯を食いしばり、
玄弥は相手の懐に飛び込んだ。
霊力を、最小限に絞る。
筋肉と関節を狙い、動けなくする。
肩を外し、脚を絡め、床に押さえつける。
「……動くな!」
暴徒化した生徒は、なおも暴れる。
「なんで……」
かすれた声が、漏れる。
「なんで……俺だけ……」
その言葉が、胸に刺さる。
玄弥は、一瞬だけ目を閉じた。
「……俺も」
「答え、持ってない」
だからこそ――
ここで、終わらせるわけにはいかなかった。
⸻
一方、別棟。
教師たちは、すでに本気だった。
結界術師が、校舎内に補助結界を展開する。
「これ以上、被害を広げるな!」
「生徒を外へ!」
実技担当の教師が、印を結ぶ。
放たれるのは、殺傷術ではない。
精神と霊力を強制的に眠らせる封呪。
だが――
「効きが、弱い!」
「妖力が混ざってる……!」
一人を抑えるのに、
三人がかりでも足りない。
暴れる生徒の腕が、
教師の防御結界を砕く。
「ぐっ……!」
教師が、壁に叩きつけられる。
それでも、誰も刃を向けない。
「……殺すな」
年配の教師が、苦しそうに言う。
「どれだけ化けても」
「生徒だ」
その言葉が、現場を縛る。
守るために学んだ力が、
今は、最大の枷になっていた。
⸻
玄弥の教室でも、限界が近づいていた。
押さえつけていた相手の霊力が、
さらに暴走する。
(……このままじゃ)
その瞬間。
別の悲鳴が、廊下から聞こえた。
「――!」
玄弥の視線が揺れる。
迷い。
一瞬の隙。
それで十分だった。
暴徒化した生徒が、玄弥を突き飛ばす。
「邪魔……!」
「喰えば……もっと……!」
立ち上がろうとする、その背に――
「動くなッ!!」
教師の声。
重ねがけされた封呪が、
ようやく相手の動きを止める。
床に崩れ落ちる生徒。
荒い息。
涙とも汗ともつかない水分。
教師は、震える手で結界を固定する。
「……抑えただけだ」
「いつまで持つかは、分からん」
玄弥は、床に手をついたまま、立ち上がれなかった。
殺していない。
でも、救えたとも言えない。
周囲を見渡せば、
同じ光景が、校舎中で繰り返されている。
生徒を、縛り。
眠らせ。
閉じ込める。
それだけ。
「……これが」
玄弥は、唇を噛む。
「戦い、なのかよ……」
誰も答えない。
学園は、まだ立っている。
だが、守る側はすでに限界だった。
そして、
本当の首謀者たちは――まだ姿を見せていない。




