妖怪の誘惑、堕ちたクラスメイト
組み手が終わっても、訓練場を支配する静寂は解けなかった。
誰も、すぐには声を出せない。
「……今の、見たか? 西園寺が勝った……。しかも、日下部の本気の霊術を、正面から防ぎやがったぞ」
「……今の、見たか?」
「西園寺……勝ったよな? しかも霊術まで防いだぞ」
遅れて広がるざわめき。
玄弥が歩を進めるたび、突き刺さる視線の質が変わっていく。
侮りでも嘲りでもない。
――獲物を値踏みするような、鋭く、重い沈黙。
「お前、いつの間に……」
声をかけてきたクラスメイトも、言葉を最後まで紡げない。
玄弥は軽く会釈を返し、訓練場を後にした。
胸の奥にはまだ、勝利の余熱が燻っている。
だが、浮かれる気にはなれなかった。
これがまだ、終わりのない道のりの「一歩目」に過ぎないことを、自分が一番よく分かっていたからだ。
⸻
一方、日下部は保健室のベッドに座り込んでいた。
「日下部。なぜ、あんな危険な霊術を使った」
教師の問いは静かで、それ故に重かった。
「一歩間違えれば、西園寺を殺していたんだぞ」
「……すいません」
俯き、絞り出すような謝罪。
「今回は西園寺が捌ききったから良かったが、猛省しろ。後で彼に謝るように」
教師が去った後、日下部は拳をシーツに叩きつけた。
「……ふざけんな。ふざけんなよ……ッ!」
喉から漏れるのは、掠れた呪詛。
自分には霊力がある。実技もトップクラスだ。
誰よりも「正しい努力」をしてきた自負があった。
それなのに、かつて見下していた「無能」に、泥を舐めさせられた。
努力が足りなかった? 才能の差か? そんな正論を自分にぶつけるほど、心がひび割れていくのが分かり虚しくなった。
⸻
その夜。街灯のない、月明かりだけが路地を青白く照らす帰り道。
「……力が欲しい。俺の方が、上なはずなんだ」
「……ほう。良い目をしているな」
粘ついた、不気味な声が鼓膜を撫でた。
影が揺れている。街灯の柱の陰から、人の形をした「何か」が滲み出してきた。
「お前は選ばれた人間だ。弱いのではない……ただ、力の『本当の使い方』を知らないだけだ」
「……誰だ、貴様は」
「お前に、至高の力を与える者だ」
影は優しく囁き、日下部の欠けた心に染み渡る声。
――おかしい。関わってはいけない。
本能が警鐘を鳴らす。
だが、それ以上に敗北の屈辱が、彼のブレーキを焼き切っていた。
「……それをやれば勝てるのか。西園寺を、圧倒できるのか?」
影が、にやりと口を歪めた。
「当然だ。妖怪を内に入れ、その力を直接行使する――『憑依』だ。貴様の肉体、霊力、その全てが別次元へと進化する」
日下部は唾を飲み込んだ。
「代償はあるのか?」
「最初は少しばかりの違和感と、感情の昂ぶりがある程度。慣れれば、全てはお前の力となる」
脳裏に、涼しい顔で立っていた玄弥の姿が浮かぶ。 「……教えろ。俺に、その力を」
"それ"は口を三日月の形に歪め、両手を広げた。
「ハハハ! 良い返事だ。歓迎しよう、同志よ」
月の下、一人の少年が、決定的な一線を越えた。
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翌朝。
鏡の前に立った日下部は、目を見開いた。
身体が、異様なほど軽い。
「……なんだ、これ」
拳を握る、反応が速すぎる。
いつもと、まるで違う。
『力を使え』
胸の奥で、低い声が囁いた。
「……ああ」
否定する気は、起きなかった。
これなら、勝てる。
⸻
翌朝の実技演習。
玄弥は、並んでいる日下部を見て眉をひそめた。 「……葛葉、あれは?」
「うむ。混ざっておるな……人と、妖の気配が」
葛葉の低い声に、玄弥の背筋に緊張が走る。
日下部の立ち姿が、昨日までとは根本的に違っていた。
重心が不自然に低く、全身から刺すような妖気が漏れ出している。
「組み手始め! 日下部、前へ」
教官の合図と同時だった。
爆音。床の石板が粉砕される音。
「――っ!?」
対戦相手の生徒は、何が起きたか理解する暇もなかった。
一瞬で間合いを詰めた日下部の掌底が、相手を十メートル近く吹き飛ばしたのだ。
「日下部! やりすぎだ、止まれ!」
教師が制止に入る。だが、日下部は止まらない。
血走った目で周囲を見渡し、胸の奥から響く「別の声」に従うように拳を握り直す。
『もっとだ……もっと力を……!』
日下部が頭を抱えて膝をついたのは、教師が本気で介入しようとした直前だった。
「……ぐ、あ、あああぁぁぁ!!」
呼吸は荒く、指先が痙攣している。
周囲の生徒たちが困惑と恐怖で引いていく中、葛葉が玄弥の肩に手を置いた。
「あれは『憑依』……しかも、強制的な侵食じゃな。妖怪が内側から器を喰らおうとしておる」
「先生たちは気づかないのか?」
「並の陰陽師では、強くなったとしか思わぬじゃろうな。……だが、放っておけばあの男は内側から壊れるか、完全に意識を奪われる」
玄弥は拳を握りしめた。
日下部への憤りよりも、彼を利用している「黒幕」への怒りが湧き上がる。
「……助ける方法は、あるのか?」
「侵食が深くなる前に、核を断つしかない。……だが、安全な道ではないぞ、玄弥」
「今日はもう終わりだ。無理をするな」
教官の声に日下部は、虚ろな目で頷く。
引きずられるように立ち上がりながら――一瞬だけ、玄弥と視線が合った。
その奥に。
人ではない"何か"が、確かに蠢いていた。
⸻
放課後、校舎裏。
「次に暴れれば、死人が出るじゃろう」
昼間の光景が、脳裏をよぎる。
制御できていない動き。止まらない攻撃。
「本人は、強くなったと思ってる」
「そこが一番、厄介じゃ」
葛葉の声が重くなる。
「劣等感を抱えた者ほど、力の甘さを疑わぬ」
玄弥は歯を噛みしめた。
「……俺と、同じだ」
葛葉は何も言わず、耳をわずかに伏せる。
「調べる方法は?」
「侵食の深さを見る」
葛葉は感応符を取り出した。
「触れずとも、妖気の混ざり具合が分かる」
「気づかれる?」
「可能性はある。だが、躊躇っておる時間はない」
「放っておいたら身体が壊れるか、主導権を完全に奪われるのう」
「……どっちも、ダメだな」
「そうなると助からぬ可能性が高い」
玄弥は拳を握る。
「止める方法は?」
「ある。じゃが――」
葛葉の目が、真剣になる。
「侵食が深いほど、奴の命の危険が増す」
「……だとしてもやるしかないよな」
「最初から、そのつもりじゃ」
葛葉は立ち上がった。
「覚悟はいいか、玄弥」
「ああ、分かってる」
「まずは感応符で探る、それで次を考えるのじゃ」
その時。
玄弥の背筋に、冷たいものが走った。
「……今、誰かいた」
「気配があるのう」
二人は同時に、校舎を見る、夕闇の中。
人影が、消えた。
――誰かが、聞いていた。
⸻
校門を出る生徒の流れが、細くなる頃。
「……来た」
日下部が、ひとりで校門を出る。
「今だ」
玄弥は袖の中に隠した「感応符」を、下校する日下部に向けてかざした。
――パリンッ! 一瞬で、符が黒く濁り、砕け散った。
「……想定以上じゃ。半ば、融合が始まっておる」
葛葉の顔がかつてなく険しい。
「そんなに?でも普通に歩いてるが‥」
「見た目だけじゃ、内側はもう喰われ始めておる」
日下部は、路地へ曲がった。
「……追うぞ」
⸻
日下部はそのまま、人通りのない住宅街の外れにある、古い集会所へと吸い込まれていった。
物陰から様子を伺う玄弥。
集会所の中から、日下部の声と、重なり合う「別の声」が響いてくる。
『……扉はまだ、半分だ。もっと、深く沈め……』 「……分かってる。力を……もっと、力をくれ……!」
日下部の目が、人の色を失っていく。
玄弥が飛び出そうとした瞬間、葛葉がその腕を強く掴んだ。
「待て。今割り込めば、衝撃であの男の魂が砕ける。……機を待つのじゃ」
⸻
集会所の中。
日下部が、ゆっくり顔を上げた。
目は、人のもの。
だが――奥に、別の視線が宿っている。
「……これでいい、自分で選んだんだ」
葛葉は静かに言った。
「止めるなら――もう、時間はない」
夜風が、住宅街を吹き抜ける。
手のひらの中で、砕けた感応符の破片が鈍く光っていた。
――間に合うか。いや、間に合わせる。
玄弥は、自分の中に灯った霊力を静かに研ぎ澄ませた。




