一線を越える
最初に異変が起きたのは、街外れの住宅街だった。
仲間の一人――
男子生徒より少し年上の青年が、力を抑えきれなくなった。
「……足りない」
「まだ、足りねぇ……!」
彼は、もう何本目かわからない小瓶を飲み干していた。
霊力は確かに増している。
だがその代わりに、理性が削れていく。
視界が赤く染まり、
耳鳴りの向こうで、誰かの声が聞こえた。
――奪え
――もっと
――お前は弱くない
次の瞬間。
住宅の壁が、内側から吹き飛んだ。
悲鳴。
破壊音。
逃げ惑う人々。
青年は笑っていた。
力が溢れ、体が変形し始めていることにも気づかずに。
腕が異様に長くなり、
皮膚が黒ずみ、
声が、人間のものではなくなる。
それはもう、
“力を得た人間”ではなかった。
⸻
事件は、すぐに表に出た。
「霊的災害発生」
「正体不明の暴走者」
「複数名負傷」
ニュースと噂が、街と学園を駆け巡る。
学園では緊急集会が開かれ、
教師たちは険しい顔で言った。
「妖怪の仕業だ」
「人に化け、街に紛れ込んでいる」
「決して、力を与える存在を信じるな」
その言葉を聞きながら、
男子生徒は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
――妖怪?
――仕業?
頭に浮かぶのは、あの女の顔。
落ち着いた声。
優しい言葉。
力を与えてくれた存在。
(……違う)
(あの人が、そんなはず……)
だが、疑念は消えなかった。
⸻
その夜。
男子生徒は、女を呼び出した。
「……あれ、知ってたんだろ」
暗がりの中で、問いかける。
女は否定しなかった。
「ええ」
淡々と答える。
「いずれ、誰かは壊れる」
「それも、想定の内」
その言葉に、背筋が冷える。
「……あんた、何者だ」
しばらくの沈黙。
やがて、女は一歩前に出た。
街灯の光の下で、
彼女の影が――歪んだ。
人の形を保ちながら、
その奥に、異様な輪郭が重なる。
「知りたい?」
次の瞬間、
彼女の“匂い”が変わった。
人間ではない。
はっきりと、妖怪のそれ。
「……っ」
息を呑む。
教えられてきた存在。
倒すべき敵。
排除すべき異形。
「私、妖怪よ」
女は、あっさりと告げた。
「あなたたちの言う、“討伐対象”」
頭が、真っ白になる。
(……嘘だ)
(妖怪は……)
(人を騙して、奪って……)
だが、同時に思い出す。
――力をくれたのは、誰だ?
――孤独を肯定したのは?
――居場所を与えたのは?
「……でも」
声が、震える。
「アンタは、俺を……」
女は、静かに微笑んだ。
「救った?」
「育てた?」
「それとも、利用した?」
その問いに、答えは出なかった。
⸻
男子生徒の中で、何かが崩れていく。
学園で教わってきた正義。
妖怪は悪で、人は守られる側。
だが現実はどうだ。
力をくれたのは、妖怪だった。
見下してきたのは、人間だった。
努力しろと笑ったのも、人間だった。
(……どっちが、正しいんだ)
女は、彼の迷いを見抜いていた。
「疑いなさい」
「教えられた正義を」
「“本当に敵なのは誰か”を」
その言葉は、
命令でも、洗脳でもない。
ただの“提案”。
だが、それが一番危険だった。
「……俺は」
男子生徒は、ゆっくりと顔を上げる。
「まだ、決めてない」
女は満足そうに頷く。
「それでいい」
「疑問を持った瞬間から、あなたはもう――」
影が、闇に溶けていく。
「戻れない側だから」
一人残された男子生徒は、
自分の手を見つめた。
人の手。
だが、もう完全には信じられない。
学園が教えてきたものも、
討つべきだと信じてきた存在も。
すべてが、
ゆっくりと反転し始めていた。
夜の路地裏は、湿った霊気で満ちていた。
仲間たちは集まっていた。
互いに肩を寄せ合い、傷を語り、力を誇示する――
はずだった。
最初に壊れたのは、一人の男だった。
「……腹、減った」
冗談の調子じゃない。
焦点の合わない目、異様に荒い呼吸。
「おい、冗談だろ?」
誰かが笑って誤魔化そうとした、その瞬間。
――喰った。
悲鳴は一瞬で途切れ、
肉の裂ける音と骨の砕ける鈍音だけが路地に残った。
血の匂いが、空気を支配する。
「……っ」
男子生徒は、動けなかった。
恐怖。
嫌悪。
そして――抑えきれない衝動。
胸の奥が、きつく締めつけられる。
空腹じゃない。
なのに、体が“求めている”。
(やめろ……)
理性が叫ぶ。
だが霊力が、それを押し潰す。
足が、勝手に前に出た。
気づいた時には、
口の中に生暖かい感触が広がっていた。
――自分も、喰っていた。
噛み切る音。
舌に絡みつく鉄の味。
喉を通るたび、霊力が全身に満ちていく。
「……っ、あ……」
吐き気がする。
最低だと分かっている。
なのに。
(……うまい)
霊力が、これまでにないほど澄んでいく。
自分が“満たされていく”感覚。
「……は、はは……」
笑いが漏れた。
力がある。
強い。
生きている。
その快感に、男子生徒は酔いしれた。
⸻
「……おい」
不意に、声がした。
路地の入口に、一人の影が立っている。
玄弥だった。
異常な霊気を感じ、
偶然通りかかっただけだ。
だが目に映った光景に、言葉を失う。
倒れた人間。
血。
そして、口元を拭う男子生徒。
「……お前」
玄弥は、すぐには構えなかった。
術も、武器も出さない。
ただ、一歩近づく。
「……大丈夫か」
責める声じゃない。
怒りでも、恐怖でもない。
純粋な――心配だった。
「顔色、悪いぞ」
「霊力も、かなり乱れてる」
男子生徒の胸が、強く脈打つ。
(なんで……)
(なんで、そんな目で見る)
「無理、してないか?」
玄弥は真剣だった。
まるで、昔と同じ“同級生”を見るように。
その瞬間、
酔いが一瞬だけ醒める。
罪悪感。
羞恥。
そして、抑えきれない怒り。
(見るな)
(そんな目で、俺を見るな)
「……近寄るな」
低く、掠れた声。
玄弥は立ち止まる。
「……何か、あったんだろ」
「一人で抱え込むな」
その言葉が、胸の奥を深く抉った。
助けられた日の記憶。
屈辱に変わったあの感情。
「……もう、遅いんだよ」
男子生徒は、血に濡れた口元で笑った。
玄弥は、何かを言おうとして――
言葉を失った。
闇の中で、
何かが、確かに嗤っていた。
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