堕落、一線を超えてしまった者
授業が終わり、廊下にざわめきが戻る頃。
男子生徒は誰よりも早く教室を出た。
足りない。
まだ、足りない。
昨日飲んだ小瓶の薬。その一口で、世界は変わった。
体の奥から湧き上がる霊力。
呼吸一つで空気が重く感じられ、自分が“強くなった”と確信できた。
だが、その感覚はもう薄れている。
胸の奥が、空っぽだ。
「……くそ」
放課後の校門前。
人混みの中で、彼は必死に周囲を見回していた。
あの女だ。
黒い髪で、やけに落ち着いた目をしてた。
昨日、帰り道で声をかけてきた不審な女性。
「強くなりたくない?」
あの一言が、頭から離れない。
校門、商店街、裏道。
彼女が立っていそうな場所を、無意識に探している自分に気づき、歯噛みする。
「……なんで、いないんだよ」
苛立ちが募る。
歩く速度が速くなり、肩がぶつかった相手を睨みつけてしまう。
「チッ……前見て歩けよ」
自分でも驚くほど、声が荒れていた。
⸻
一方その頃。
主人公は、学園の中庭を歩きながら、妙な違和感を覚えていた。
――空気が……ざらついてる。
霊力が直接見えるわけじゃない。
だが、以前から身についた“感覚”が、かすかな異変を拾っていた。
視界の端。
さっきすれ違った男子生徒――あの昼休みに嫉妬の視線を向けてきた人物。
彼の周囲だけ、空気が不自然に揺れていた。
濃く、重く、そして――どこか歪んでいる。
(……あんな霊力、普通じゃない)
特訓を積んだ者の整った流れでもなければ、契約霊の気配でもない。
無理やり押し込めたような、雑で危うい力。
男子生徒が誰かとぶつかり、舌打ちをする。
その目が、一瞬だけ主人公を睨みつけた。
ぞくり、と背筋が冷える。
(……前は、あんな目じゃなかった)
焦りと、苛立ちと、そして何かに“縋る”ような光。
まるで、内側から別の何かに突き動かされているようだった。
⸻
その夜。
男子生徒は自室で、引き出しを何度も開け閉めしていた。
空になった小瓶。
底に残った、ほんのわずかな黒い液体。
指でなぞり、舐める。
わずかに感じる、あの力の名残。
「……まだ、いけるだろ」
誰に言うでもなく呟く。
喉が渇く。頭が熱い。
次は、もっと欲しい。
あれがあれば、俺は……。
自分が少しずつ変わっていることには、気づいていた。
怒りっぽくなり、他人の言葉がやけに耳につく。
それでも、止まれなかった。
力を知ってしまったからだ。
⸻
翌日。
主人公は再び、彼の異変を感じ取る。
廊下での小さなトラブル。
体育の準備中に起きた口論。
男子生徒の感情が高ぶるたび、霊力が乱暴に膨れ上がる。
制御も、抑制もない。
(……このままだと、まずい)
理由はわからない。
だが確信だけはあった。
あれは、長く持つ力じゃない。
むしろ、本人を壊す。
主人公は、無意識に拳を握りしめていた。
嵐の前触れのように。
静かな学園の中で、確実に“何か”が育ち始めていた。
夜の街は静かだった。
街灯の光が路地に影を落とし、人通りはまばらだ。
男子生徒は無意識のまま、足を進めていた。
帰宅するつもりだったはずなのに、気づけば商店街の裏、昨日あの女に声をかけられた辺りに来ている。
胸の奥が、熱い。
頭の中がざわつく。
足りない、まだ、全然足りない。
拳を握ると、わずかに霊力が漏れた。
それを感じ取って、彼は歪んだ笑みを浮かべる。
「……やっぱ、俺には力が必要なんだよ」
その時だった。
「そう、その顔」
背後から、落ち着いた声がした。
はっと振り返る。
路地の影から、黒髪の女性が姿を現す。
昨日と同じ。
いや、昨日よりも――はっきりと、異質だ。
「探してたでしょ?」
「……あ、あんた……!」
女性はくすりと笑った。
その笑みは優しいのに、どこか人間味が欠けている。
「力を知った人間はね、必ず戻ってくるの。例外はないわ」
彼女の手には、小さな革袋があった。
中で、ガラス瓶が触れ合う音がする。
ごくり、と喉が鳴る。
「……それ……」
「ええ。前より“効く”わよ」
理性が、警鐘を鳴らす。
危険だ、関わるな、やめろ――。
だが、その声はあまりに弱かった。
「……くれ」
気づけば、そう言っていた。
女性は満足そうに頷き、一本の小瓶を差し出す。
「ただし、覚悟はある?」
「もう、後戻りできない」
男子生徒は一瞬、迷った。
だがすぐに瓶を掴み取る。
「……最初から、戻る気なんてねぇよ」
その言葉を聞いて、女ははっきりと笑った。
「いい子」
⸻
その直後だった。
路地の奥から、足音が聞こえた。
酔った中年の男。
仕事帰りだろう、ふらつきながら歩いている。
「……あ?」
男が、二人に気づいて眉をひそめる。
「こんなとこで何やってんだ、学生が……」
その瞬間。
男子生徒の視界が、赤く染まった。
――邪魔だ。
胸の奥から、強烈な衝動が湧き上がる。
力が、溢れ出そうになる。
「……どいてくれ」
声が低く、掠れていた。
「は? なんだその態度――」
次の瞬間。
男の体が、吹き飛んだ。
霊力が、無意識に放たれたのだ。
壁に叩きつけられ、うめき声を上げる中年男性。
「……え?」
自分が何をしたのか、一瞬理解できなかった。
だが、倒れた男の胸から、淡く白い光が滲み出るのが見えた。
――魂。
それを見た瞬間、体が勝手に動いた。
「……あ」
口が、勝手に開く。
霊力が、魂に絡みつく。
吸い上げる感覚。
温かく、甘く、抗いがたい。
「――っ、ああ……!」
魂が引き裂かれ、体内に流れ込む。
男の意識が急速に薄れていくのが、手に取るように分かった。
「や、やめ……」
声は途中で途切れた。
男子生徒は、荒い息をつきながら立ち尽くす。
全身が震え、だが同時に――満たされていた。
「……すげぇ……」
力が、さっきとは比べ物にならないほど強い。
頭の奥が、冴え渡る。
「これが……本物の力……」
背後で、女性が静かに拍手をする。
「おめでとう。初めての一歩ね」
彼女の声には、わずかな高揚すら混じっていた。
「もう、普通の人間には戻れない。でも――」
近づき、耳元で囁く。
「その代わり、“選ばれた側”になれた」
男子生徒は、倒れた男を見下ろした。
罪悪感は、ほとんどなかった。
それよりも、胸に広がる万能感。
「……次は、誰だ?」
その呟きを聞いて、女は満足そうに微笑んだ。
⸻
同じ夜。
主人公は、自室で嫌な胸騒ぎを覚えていた。
理由は分からない。
だが、心の奥がざわつく。
(……今、何か……)
遠く。
街のどこかで、霊力が“喰われた”感覚。
冷や汗が背中を伝う。
(まさか……)
脳裏に、あの男子生徒の顔が浮かぶ。
まだ、気づいていない。
でも、確実にもう一線を越えた。
夜は、静かだった。
だがその闇の中で、確実に“怪物”が生まれつつあった。
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