零(ゼロ)に灯る火
実技棟・第三訓練場。
床は霊力を通す白い石板で覆われ、天井には結界式が張り巡らされている。
「次、西園寺玄弥。相手は――三組、日下部」
教官の声に、周囲から隠そうともしない失笑が漏れ
「名門の血も、ここまで薄まると哀れだな。さっさと終わらせてくれよ、日下部」
玄弥は何も言わず前へ出る。
日下部は余裕の笑みを浮かべ、肩を鳴らした。
「悪く思うなよ、これは課題だからさ」
開始の合図。
日下部は即座に霊力を展開する。
腕に巻き付く霊符が青白く輝き、術式が彼の筋肉を強化する。
玄弥は、昨日までとは違う「内側の違和感」を感じていた。
胸の奥で、何かが蠢いている。
だが――。
(……動け、出ろ……!)
念じても、体表に霊力は現れない。
「遅い!」
強化された拳が、玄弥のガードを強引に弾き飛ばした。
腹部への肘打ちで肺から空気が絞り出され、視界が火花を散らす。
「終わりだ」
足払いで床に叩きつけられ、術式で四肢を固定される。
冷たい石板の感触。
「勝者、日下部。……西園寺、見学に回れ。これ以上は時間の無駄だ」
教官の冷徹な宣告。
立ち上がる玄弥の背中に、日下部の嘲笑が追い打ちをかける。
「西園寺の血も、もう賞味期限切れか。……二度と名門なんて名乗るなよ、無能」
口の中に広がる鉄の味。
悔しさすら、もう摩耗して消えたと思っていた。
……はずだった。
⸻
放課後。
夕焼けが訓練場の端を赤黒く染めている。
誰もいない静寂の中、玄弥は一人、掌を見つめていた。
「……くそ」
拳を壁に打ちつける。
鈍い音だけが返る。
「玄弥‥なぜ、使わぬのじゃ」
振り返ると、柱の影に葛葉がいた。
認識阻害のせいか、誰の目にも映らない。
「……使えないだけだ」
「本当に、そうかの」
葛葉は目を細める。
「おぬしの身体には、確かに霊力が流れておる。しかも、かなりの量じゃ」
「……嘘だ」
「……使えないんだ。イメージしても、何も起きない」
「嘘ではない」
即答だった。
「前までは確かに使えなかった。だがそれは才能の問題ではない。"呪い"が、霊力の経路を塞いでおっただけじゃ」
胸の奥が、冷える。
「九尾との契約で、その塞ぎは壊れた。あとは、おぬしがその扉を開けるだけじゃ。おぬしは弱いのではない。……これほど巨大な力を数年間も封じ込められ、それでも心が折れなかった。その強さを信じろ」
玄弥は息を呑む。
「おぬし自身が――"使えない"と思い込んでいるだけじゃ」
思い返せば試す前から、諦めていた。
術式を展開しようとする前に、どうせ無理だと決めていた‥ずっと。
「……本当に、使えるのか」
「使えるとも」
葛葉は小さく、しかしはっきりと頷いた。
その言葉は重かった。同時に――初めて、前を向ける気がした。
拳の力が、少しだけ抜ける。壁の冷たさが、ようやく掌に伝わってきた。
――
「……やるぞ」
これまではどうせ何も起きないと諦めていた。
――だが今日は、違う。
葛葉の言葉が、まだ胸に残っている。
『使える』
その気持ちだけで、玄弥の中の何かが変わっていた。
玄弥は深く、深く息を吸った。
失敗する恐怖、笑われる屈辱、それらを一度全部吐き出す。
目を閉じ、探る。
引きずり出すのではない。
そこにある「流れ」に、ただ身を任せる。
――その瞬間。
ドクン、と。
心臓の鼓動に合わせて、掌に「熱」が宿った。
「……ぁ」
目を開けると、そこには淡く、けれど力強く揺れる霊力の光があった。
初めて見る、自分の力。
今まで、どれだけ手を伸ばしても届かなかった、透明な壁の向こう側。
「……できた。俺……使えたんだ」
膝から力が抜けた。
情けなくて、嬉しくて。
じわりと、込み上げてくるものがあった。
嘲笑。失望。諦めていた気持ち。
それらが一気に、胸に押し寄せた。
見下されてきた視線。才能がないと言われた言葉。何も言い返せなかった自分。
全部が、頭を巡る。
「……やっと出せた‥」
視界が滲む。涙が、ぽろぽろと落ちた。
「……みっともないな、俺」
「みっともなくなどない」
葛葉が、優しく玄弥の頭に手を置く。
銀色の髪が夕陽に透け、聖域のような静けさを作った。
「今日、火が灯った。それが全ての始まりじゃ」
彼女は不敵に、かつ誇らしげに笑う。
「さあ、修行を始めるぞ。おぬしを見下した者たちの度肝を抜いてやるのじゃ」
夕焼けの中、玄弥の瞳には、もう絶望の影はなかった。
玄弥は、濡れた顔を乱暴に拭う。
夕焼けの中、もう一度掌を開く。
今度は、迷わなかった。
玄弥は、深く息を吸った。
胸の奥に、さっきとは違う熱が灯る。
「……ありがとう葛葉」
「礼などいらぬ」
葛葉は、どこか誇らしげに言った。
「おぬしが立ち上がるなら、わしは隣におるだけじゃ」
その言葉は、夕焼けよりも温かかった。
「ふむ」
葛葉が腕を組み、玄弥を上から下まで眺める。
「せっかくじゃ。今日は少し、霊力の使い方を教えてやろう」
玄弥は思わず顔を上げた。
「……いいのか?」
「当然じゃろ、宝の持ち腐れほど、見ていて腹立たしいものはないからのう」
「まず、勘違いしておる点がある」
葛葉が、指で玄弥の胸をつついた。
「霊力は"出すもの"ではない」
「……え?」
「流すものじゃ」
葛葉はしゃがみ込み、指先で地面に線を描く。
「水が流れる川を思い浮かべてみい」
「力とは、溜め込めば澱む。流せば、形を成す」
玄弥はゆっくり目を閉じた。
さっき感じた、あの脈動。
引きずり出すのではなく、ただ流れを意識する。
「肩に力が入りすぎじゃ」
葛葉の声が、近い。
「怖がるな。霊力は、おぬしの一部じゃ」
息を整える。
すると――。
胸の奥の"流れ"が、さっきよりも自然に動き始めた。
「……っ」
掌に、淡い光が灯る。
先ほどよりも、安定している。
「ほう」
葛葉が目を細めた。
(もっと制御に時間がかかると思ったが、これも才能かのう)
「今の感覚を忘れるでない。それが"基礎"じゃ」
「これが……」
「そうじゃ、誰も教えなかった当たり前の訓練じゃ」
葛葉は立ち上がり、背伸びをする。
「んーっ!制御もできた事だし今日はここまでにしするかのう」
玄弥は、光る掌を見つめた。
不安はある。怖さもある。
それでも――確かに、前に進んでいる。
「明日からもやるぞ」
葛葉は当然のように言った。
「わしがいる間は、逃げられんから覚悟せい」
玄弥は苦笑しながら頷く。
「……よろしく頼む」
「うむ」
葛葉は、少しだけ胸を張る。
「九尾の葛葉、直々の稽古じゃ。光栄に思うがよいぞ」
夕焼けの中。
こうして、玄弥の"本当の修行"が始まった。
――それが、何を意味するのか。
まだ、誰も知らない。




