第二十二話 一本の尾と、失われていくもの
人払いの術式が張られているせいで、外の喧騒は完全に遮断されている。
聞こえるのは、自分の呼吸音と、霊力が流れる微かな音だけだ。
西園寺玄弥は、地面に正座するように座り、目を閉じていた。
――一本だけ。
今日はそれ以上は、絶対に出さない。
昨日の修行で、はっきり分かったことがある。
尾を出す行為そのものが、肉体だけでなく「精神」にも負荷を与えているという事実だ。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
呼吸を深く、ゆっくりと整える。
霊力を、外へ。
押し出すのではなく、流す。
背中に、違和感。
それがやがて形を持ち、赤く淡く光る一本の尾となって現れる。
「……っ」
歯を食いしばる。
痛みは昨日より軽い。
だが、代わりに別の感覚があった。
――記憶が、薄くなる感覚。
何かを思い出そうとすると、指の間から砂がこぼれるように、輪郭が曖昧になる。
ほんの一瞬。
だが、確実に「削られている」。
玄弥は眉をひそめた。
(……これが、代償の本質か)
◆
尾を、ゆっくりと動かす。
地面すれすれをなぞるように、円を描く。
攻撃ではない。
破壊でもない。
ただ、「動かす」だけ。
だが、それだけで心臓は速く打ち、胸の奥の熱が強まる。
霊力が、尾に吸われていく感覚。
そして、同時に――
(……懐かしい、感覚……?)
子どもの頃の記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
父の背中。
古い家の縁側。
夕暮れの匂い。
だが、それらはすぐに霧散した。
まるで、「思い出すこと」を拒否されたかのように。
「……くそ」
尾を引っ込める。
同時に、膝から力が抜けた。
額から汗が流れ落ち、呼吸が荒くなる。
肉体の消耗以上に、精神の疲労が重い。
――このまま使い続けたら、どうなる?
力は手に入る。
だが、その代わりに何を失う?
◆
その日の教室は、どこか微妙に空気が違っていた。
以前は、玄弥の存在は「いないもの」に近かった。
霊を扱えない無能者。
視線を向ける価値すらない、そんな扱い。
だが今は違う。
視線が、時折向けられる。
好奇心と警戒が混じった、曖昧な視線。
「……あいつ、最近ちょっと変じゃね?」
「訓練場、ひとりで使ってるの見た」
小さな声が、耳に届く。
玄弥は気にしないふりをして、席についた。
マトリは、ちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らす。
話しかけたいが、踏み込めない。
そんな迷いが、手に取るように分かる。
一方、ミユキは――
「……顔色、悪いな」
それだけ言って、自分の席に戻った。
余計な心配もしない。
だが、見ていないわけでもない。
その距離感が、今の玄弥にはありがたかった。
◆
放課後。
再び訓練場。
玄弥は、今度は立ったまま、尾を呼び出す。
一本。
それ以上は、出さない。
今度は、防御の訓練だ。
霊力で作った簡易的な弾を、自分で放ち、それを尾で弾く。
――一発目。
弾く。
胸が、焼ける。
二発目。
少し遅れる。
尾が、重い。
三発目。
弾いた瞬間、視界が揺れた。
「……っ!」
膝をつく。
呼吸が乱れる。
そして、またあの感覚。
――何かを、忘れた。
何を忘れたのかすら、分からない。
ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような、不安だけが残る。
(……代償は、体力じゃない)
確信が、静かに落ちた。
この力は、使うたびに「自分」を削る。
記憶か、感情か、それとも――存在そのものか。
◆
夕暮れ。
訓練場を出ると、空は赤く染まっていた。
日常は、何事もなかったかのように続いている。
学生たちの笑い声。
帰路につく足音。
その中で、玄弥はひとり立ち止まる。
――それでも、使う。
この力がなければ、守れないものがある。
失う覚悟を、まだ完全には決められない。
だが、逃げるつもりもない。
拳を握る。
胸の奥に残る熱と、不安を抱えたまま。
一本の尾は、まだ不完全だ。
制御も、代償の正体も、すべてが途中。
それでも――
確実に、前には進んでいる。
戦いは、まだ続く。
そして、この代償が、いつか「選択」を迫る日が来ることを、玄弥はまだ知らなかった。




