九尾の葛葉
玄弥の前で、淡い光が人の形を結んだ。
水面に小石を落としたように、静かに輝く。
光は徐々に収束していった。
目の前に九尾の葛葉が現れる。
だがその姿は玄弥の想像とは大きく違っていた。
背丈は玄弥の胸ほど。
年端もいかぬ少女の姿。
白銀の長い髪が、夜の灯りを受けて柔らかく輝いている。
腰まで流れる髪は絹のように滑らかで、風が吹けば静かに揺れた。
頭上には白い狐耳、瞳は深い金色。
衣装は白を基調とした巫女装束。
背後で揺れる尾は、今は一本だけだった。
「……妙な顔をしおるな」
幼い姿に似合わぬ、落ち着いた声音。
さっきまで森の空気ごと支配していた存在とどう見ても同一に思えない。
「無理もなかろう。これが、今のわしの姿じゃ」
「……思ってたより、だいぶ小さいな」
「よ、余計なお世話じゃ」
即答だった。
葛葉はため息をつき、小さな手を見つめた。
「お前とのパスは繋がった。じゃが、まだ細い。流せる霊力も受け取れる霊力も、この程度が限界じゃ」
「本来はもっと立派なんじゃぞ、今は……見ての通りじゃがな」
卑屈さはない。
ただ事実を述べているだけだ。
それがなぜかかえって、胸に刺さる。
「……身長、何センチだ?」
「五月蝿い、斬るぞ」
⸻
玄弥の家。
「ただいま――」
玄弥は家の玄関を開けるまで、葛葉を連れている事をすっかり忘れていた。
「おかえりなさ……」
母の声が途中で止まる。
空気が固まった。
玄弥が振り返ると、そこには自分の後ろに立つ、小柄な少女。
ちゃっかりついてきていた。
「……えっと‥どなた様?」
「え?」
そこでようやく、玄弥は気づく。
「――あ」
完全に忘れていた、そのまま連れてきてしまっていた。
葛葉は一瞬きょとんとしたが、すぐに姿勢を正した。
「これは失礼したのう、九尾の葛葉と申す。しばらく世話になる」
「……え、あそうなの、う、うん?」
母は完全に理解を放棄した顔だった。
「玄弥」
「……うん」
「妖怪、連れてきたの?」
「……うん」
沈黙。
「……とりあえず、中入りなさい」
⸻
食卓。
葛葉は椅子に座らされている。
本人は特に困っていない様子だが、足がぶらぶらしていた。
「あなたお腹、空いてるでしょ?」
「いやわらわは構わぬ。今は顕在化しておるだけで、食を必要とは――」
――ぐぅ。
はっきりした音。
葛葉がぴたりと止まる。
玄弥と母の視線が、葛葉に集まった。
「……今のは」
「聞こえてたぞ」
「っ……う、器の問題じゃ! 霊力が足りぬと、こう……腹が鳴る仕様らしい!」
「仕様って言うな」
母は何も言わず、茶碗を差し出した。
「遠慮しなくていいから、ね?」
「……む。では、少しだけ」
一口目を食べる。
「……ほう、これは‥」
二口、三口。止まらない。
玄弥は黙って見ていた。
お代わりを求めるまで一分もかからなかった。
「……玄弥の母上」
「葛葉ちゃん、どうしたの?」
「とても美味しいのう」
「そう、それは良かったわ」
「ごちそうさまじゃ」
清々しい顔だった。
母は「かわいいわね」と呟き、玄弥は「九尾だぞ」と返した。
「分かってるわよ」と言われた。
分かった上でかわいいと言っていた。
――こうして、九尾は家に居着いた。
夜。
葛葉はソファに座り、テレビを見ていた。
正確には、テレビに顔を近づけすぎていた。
「玄弥」
「葛葉、テレビ近い近い、離れろ」
「‥あれは何じゃ?」
「テレビだ。目が悪くなるから離れろ」
「わしは妖怪じゃ、目は悪くならぬ」
「じゃあ画面が傷む」
「……ほう、機械にも傷みがあるのか」
素直に離れた。感心しながら。
「幻術か?」
「違う」
「魔道具か?」
「違う」
「では――」
「電気だ。説明すると長い。とりあえず、面白いから見てろ」
「……むぅ」
葛葉は少し考えてから、ソファに深く座り直した。
「……人の世は、賑やかになったのう」
その声は、少しだけ柔らかかった。
夜になっても、葛葉はそこにいた。
「……で?」
母が腕を組む。お茶を一口飲んでから、目が据わった。
「そろそろ説明してもらおうかしら」
逃げ場はなかった。
⸻
話を聞き終えて、母はしばらく黙っていた。
葛葉を見る。葛葉も見返す。
「つまり、あなたは玄弥を守る存在なのね」
「うむ。それがわしの役目じゃ」
「夜更かしはさせない?」
「……させぬ」
「危ないことには巻き込まない?」
「……」
葛葉が黙った。
「……巻き込まない?」
「……努力はする」
「玄弥」
「うん」
(……少し心配だけど、葛葉さんを信用しましょう)
母が告げた。
「正直納得は出来てないけど、玄弥には大事な事なのよね」
母は葛葉に向き直り、少し考えてから言った。
「よろしくお願いします、葛葉さん」
葛葉は一瞬だけ目を丸くした。それから、ゆっくりと頷く。
「……うむ。こちらこそ、よろしく頼むのじゃ」
玄弥は何も言わなかった。
いや、何も言えなかった。
⸻
夜更け。
玄弥の部屋に、二組の布団。
「ここが玄弥の巣か」
「巣って言うな」
「わしの縄張りにしてやろう」
「するなっ!」
葛葉は布団に倒れ込み、数秒後には眠っていた。
「すぅ……」
「……いや、寝るの早っ!」
玄弥は電気を消し、布団に入る。
暗い天井を見つめながら思う。
今朝までの自分には、想像もできなかった一日だった。
無能と笑われ、呪いを知り、九尾と契約して‥色々あった。
さすがに疲れた。
でも悪くない疲れだった。
「……ほんとに、霊力使えるんだよな俺‥」
返事はない。
すでに寝息だけが聞こえる。
明日から、また面倒な日常が始まる。
それは変わらない。
きっともっとややこしくなる。
けれど、この夜だけは。
不思議と、悪くないと思った。
――
朝。
台所から、味噌汁の匂いが漂ってきた。
「玄弥ー、起きてるー?」
「……起きてる」
布団から身を起こした瞬間、違和感に気づく。
――軽い。隣の布団が、空だ。
「……葛葉?」
襖を開けると、すでに居間にいた。
正確には――正座している。
背筋をぴんと伸ばし、机の前にちょこんと。
朝日を正面から浴びながら、微動だにしない。
「おはようじゃ、玄弥」
「……何時だと思ってる」
「日の昇る気配で目が覚めたのう。人の家は鳥の声が近い」
起床時刻、午前五時四十分。
玄弥は無言で襖を閉め、もう五分だけ布団に戻った。
「……寝る」
「起きてくるんじゃ、玄弥、ほらご飯じゃご飯」
すっかりご飯の魅力に取り憑かれた葛葉だった。
⸻
朝食が並ぶ。焼き魚、白米、漬物、味噌汁。
「さ、どうぞ食べて」
「……よいのか?」
「もちろん」
葛葉は一瞬、玄弥を見る。
「毒見は不要かのう?」
「要らないから安心して食べなよ」
「ふむ」
箸を手に取る。
ぎこちないが、扱いは知っているらしい。
まずは味噌汁の椀を両手で持ち、香りを確かめる。
「……」
一口。
「――おお」
素で声が漏れた。
「どうした?」
葛葉は箸で具をすくい上げる。
薄茶色の――油揚げ。
「この柔らかきものは、何じゃ?」
「お揚げ」
「……おあげ」
もう一口。
今度は、ゆっくり噛みしめる。
「……油で揚げておるのに、出しゃばらぬ。出汁を吸い、それでいて己を失っておらぬ……」
母がくすっと笑う。
「そんな大層な食べ物じゃないわよ」
「いや、これは――」
葛葉は真剣だった。
真剣すぎた。
「信仰されるのも、わかる気がするのう」
「それ、狐の話じゃないのか」
「わしの話じゃ」
玄弥はため息をつき、ご飯を口に運んだ。
しばらく静かに食が進む。
茶碗が空になり、葛葉が遠慮がちに椀を差し出した。
「……もう一杯、もらってもよいかのう」
「いいわよ」
「感謝する」
椀を受け取り、また一口。ゆっくり、大切そうに。
「……朝というものは、悪くないのう」
母は味噌汁をよそいながら、ふと言った。
「ね、玄弥。この子……しばらく一緒にいるのよね?」
「……多分な」
「そう」
それ以上、聞かなかった。
葛葉の椀が静かに置かれる音だけが、響いた。
「人の世……油揚げがある限り、滅びぬな」
「基準そこかよ」
⸻
朝食が終わり、玄弥は鞄を手に取った。
「……じゃ、俺そろそろ学校へ――」
「待つのじゃ」
葛葉が、ぴしっと手を挙げる。
「何だ」
「その"がっこう"とやら、どれほど危険なのか、まだ聞いておらぬ」
「普通の学校だよ」
「妖怪に襲われたと聞いたが?」
「……それは、まあ」
「霊力が不安定な今、お前を一人にはできぬ」
葛葉はじっと玄弥を見る。
「わしを、置いていくつもりかのう?」
その言い方に、玄弥が一瞬詰まる。なんか、上手いこと言われた気がする。
「葛葉ちゃん、今日おうちにいない?」
母が割って入った。
「私が面倒見るわよ」
「食事は?」
「出るわよ」
「間食も?」
「あるわよ」
「……」
葛葉の心が、明らかに揺れた。
一瞬だけ、視線が泳いだ。
「いや、家に妖怪置いてくのは無理だろ」
「妖怪ではない」
「はいはい」
母は腕を組んで、少し考えた。
「でも‥外に出た方がいいかもね。玄弥が居なくて留守番も心配だし」
「テレビ壊されそうだし」
「わしはそのような粗暴な真似はせぬ!」
昨夜、リモコンを分解しかけたのは誰だったかな。
「それにのう」
葛葉の声が、少しだけ真剣になる。
「玄弥の霊力、まだ不安定じゃ。そばにおらねば、対処が遅れる」
「……正論だな」
母が決断した。
「じゃあ、一緒に行っちゃいなさい」
「‥え?」
「この子を置いていく方が危ない気がするわ」
葛葉は満足げに頷いた。
「賢明じゃ」
「お前、もう決定事項みたいな顔してるな」
「帽子、被らせなさい。今どき、多少容姿が変でも大丈夫よ」
「世の中、寛容なのう」
玄弥は深く息を吐く。
逃げ場が、完全になかった。
「……行くぞ、葛葉」
「うむ」
玄関にて。
「それ、靴だから履いて」
「靴‥足枷か?」
「違うから‥とりあえず文句言わず靴を履け」
母が二人を見送りながら、小さく言った。
「気をつけてねー、二人とも」
なんか妙に引っかかった。
――母さんは全部分かってて送り出してるんじゃないか、葛葉のサイズの靴も用意してあったし。
そんな気がした。
⸻
登校時間。
正門前は、生徒で溢れていた。
「なあ、西園寺の横の子……」
「妹?」
「転校生?」
視線が集まる。
「……目立つ」
「当然じゃ。この姿、愛らしさが溢れておる」
「自覚あるのかよ、流石に目立つから困るんだが‥」
「仕方ないのう‥」
葛葉が小さく指を鳴らす。空気が、わずかに歪む。だが誰も異変と認識しない。
「……あれ?」
「気のせい?」
視線が、自然と逸れていく。
葛葉はそこにいる。だが"重要ではない存在"として、意識の外へ滑り落ちていく。
「認識阻害じゃ。見えておるが、意識に残らぬ」
「便利すぎだろ」
「目立ちすぎると騒ぎになるでな」
教師ですら、素通りした。
「……いつまで持つ」
「わしの妖力が続く限り」
「切れたら?」
葛葉は、にやりと笑う。
「全力で目立つじゃろう」
「いや、やめろ‥」
校門をくぐる。その瞬間、葛葉がぴたりと足を止めた。
「……玄弥」
「なんだ」
声のトーンが、変わっていた。さっきまでの軽さが、消えている。
「この学び舎……臭うのう」
「何が」
「妖と人の境が、曖昧じゃ」
葛葉の目が、細くなる。
金色の瞳が、校舎の奥を見透かすように。
「普通の学校じゃと? 笑わせるのう」
「……どういう意味だ」
「良くない兆しじゃ。それも、一つや二つではない」
玄弥は一瞬だけ足を止め、前を向いた。
「……あとで詳しく聞く」
「うむ」
葛葉は何事もなかったように歩き出す。だがその目だけは、まだ何かを探していた。
朝のHRまで、あと三分。
誰の記憶にも残らないまま、二人は校内へ足を踏み入れた。
だが‥。
何かが、始まろうとしていた。




