第二話 九尾と呪いの封印
巨大な狐は、微動だにせず俺を睨んでいた。
黄金の瞳は鋭く、ただそれだけで心臓を掴まれるような圧を放っている。
『……人の子よ。なぜ逃げぬ』
頭の奥に直接響く声。
言葉というより、意思そのものを流し込まれる感覚だった。
「逃げた方がいいってことくらい、分かってる」
喉がひりつく。
足は今にも竦みそうだ。
「でも……あんた、死にかけてるだろ」
妖怪。
人を喰らい、災厄をもたらす存在。
教科書にはそう書いてあった。
だから本来なら、助ける理由なんてどこにもない。
それでも――目の前の九尾は、確かに“追い詰められて”いた。
『……ほう』
九尾の口元が、わずかに歪む。
笑ったのか、それとも嘲ったのか。
『霊も扱えぬ身で、よくもそんな戯言を吐ける』
「……やっぱり分かるんだな」
『当然だ。貴様の内側は、異様なほど“空白”だ』
胸の奥が、どくりと脈打った。
『本来、そこには奔流のような霊脈があるはずだ。
だが貴様の内には、強固な“封”が施されている』
――封。
「……俺は、生まれつき何もできないだけじゃなかったのか」
『違う』
九尾ははっきりと言い切った。
『貴様は“奪われている”。
しかも、相当悪質な呪いだ』
頭が追いつかない。
俺はずっと、ただの無能だと思っていた。
『その封は、我と同質のものだ』
「……同質?」
『妖怪の王が使う、血脈封殺の呪式』
その瞬間、九尾の殺気がわずかに漏れ出した。
森の空気が震える。
『我はかつて敗れ、縛られ、力を削がれた。
そして貴様は――その余波を受けた末裔だ』
末裔。
胸の奥で、何かが繋がった。
「……俺の先祖が、大妖怪を倒したって話」
『ああ。
我を討ち滅ぼした陰陽師の血筋』
九尾は、ゆっくりと息を吐く。
『その報復として、妖怪の親玉が呪いを放った。
血が続く限り、力を発現させぬようにな』
つまり――
俺は、生まれた瞬間から封じられていた。
怒りよりも、先に湧いたのは虚脱感だった。
「……じゃあ、俺が何年努力しても、無理だったわけだ」
『当然だ』
九尾は淡々と告げる。
『だが』
黄金の瞳が、俺を射抜いた。
『我を助ければ、その封は解ける』
「……は?」
あまりに唐突で、間の抜けた声が出た。
『正確には、“緩む”だ。
完全に解くには時間が要る』
「どうして?」
『我が呪いの核だからだ』
理解が追いつかない。
でも、嘘を言っているようには思えなかった。
『我と契約すれば、貴様の血に刻まれた封は軋む。
完全ではないが、力は戻る』
「……契約って」
妖怪と陰陽師の契約。
それは教本に載っている、最上級の禁忌だった。
だが、選択肢は一つしかない。
「もし、断ったら?」
『貴様は無能のまま生きる。
我はここで消える』
沈黙が落ちた。
俺は、自分の手を見る。
何も掴めない、空っぽの手。
「……なあ」
顔を上げる。
「契約したら、俺は強くなれるのか」
『――なる』
即答だった。
『元に戻るだけだ』
胸が、強く脈打った。
「なら、やる」
恐怖はある。
でも、それ以上に――このまま終わる方が怖かった。
「俺は、西園寺玄弥だ」
震える声で、名を告げる。
「無能って呼ばれるのは、もう終わりにする」
九尾は、しばらく俺を見つめていた。
そして――
『よかろう』
巨体が、淡く光を放つ。
『我が名は葛葉』
空気が歪み、術式が勝手に脳裏へ流れ込む。
知らないはずの文字。
理解できるはずのない構造。
だが、俺はそれを“読めた”。
『契約を結べ、人の子』
次の瞬間――
胸の奥で、何かが砕けた。
「――っ!」
激痛。
体の内側から、何かが溢れ出す。
視界が白く染まり、世界が揺れる。
初めて感じる――
霊の存在。
空気が、森が、地面が。
すべてが“視える”。
『封の第一層が剥がれた』
葛葉の声が遠く聞こえる。
『まだ弱い。
我の力も、貴様の力もな』
だが。
確かに、何かが変わった。
倒れ込む俺の前で、森の奥がざわめいた。
濃すぎる霊気。
敵意。
『来るぞ、玄弥』
葛葉が低く告げる。
『妖怪どもだ。
契約直後の祝福代わりに――』
黄金の瞳が、細く笑った。
『初陣といこう』
無能だった俺の人生は、
この瞬間、確実に終わった。




