葛葉のいる日常2
夕暮れの西園寺家は、どこか落ち着いた空気に包まれていた。
障子越しの光が、畳の上に淡い影を落とす。
玄弥は母の隣で正座している。
向かいに座る父・宗一郎は、背筋を伸ばしながらも、少しだけ緊張した面持ちだった。
「紹介するわね」
母が、穏やかな声で言う。
「玄弥を見守ってくれている葛葉さんよ」
宗一郎は、一瞬だけ目を瞬かせた。
九尾、という言葉が頭をよぎる。
葛葉は、静かに一歩前に出た。
「はじめましてじゃ」
軽く頭を下げる。
声は落ち着いていて、威圧するような気配はない。
宗一郎は少し戸惑いながらも、同じように頭を下げた。
「……はじめまして。玄弥の父です」
慎重に、言葉を続ける。
「九尾の……方、なんですよね」
「うむ」
葛葉は短く頷く。
「とはいえ、今は玄弥のそばにおるだけじゃ」
宗一郎の肩から、少しだけ力が抜けた。
「……正直に言えば、驚いています」
「でも、こうして挨拶してもらえると……少し安心しました」
「そう言われると、助かるのう」
葛葉は、素っ気ないが柔らかい口調で答えた。
「儂は、玄弥が困ったときに手を貸すだけじゃ。それ以外は、人の暮らしに口出しせぬ」
宗一郎は、小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
九尾に向けて言うには、あまりに普通の礼。
だが、それでよかった。
玄弥は、二人のやり取りを横で聞きながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「じゃあ、堅い話はこのくらいにして。ご飯にしましょう」
「それは賛成じゃ」
葛葉が即答し、宗一郎が思わず苦笑した。
⸻
夕食の卓に、温かな料理が並んでいく。
味噌汁の湯気、煮物の匂い。どこにでもある家庭の夕飯だ。
最後に、父・宗一郎が小さな紙袋を置いた。
「……帰りに、気になってな」
袋を開くと、中には稲荷寿司が並んでいる。
ほんのり甘い香りが、ふわりと広がった。
その瞬間――
葛葉の気配が、ぴたりと止まる。
「……ほう」
興味深そうな声だが、どこか探るようでもある。
「……葛葉?」
「これは……稲荷、じゃな」
「知ってるの?」
「名は、な」
葛葉は静かに続ける。
「供物として聞いたことはある。じゃが……この外側は、何じゃ?」
一瞬、食卓が静まった。
「え……油揚げ、だけど」
「あの、おあげか?!」
完全に初耳といった調子で、首を傾げる。
恐る恐る、一つを手に取る。
指先で触れた感触を確かめるように、そっと押してみた。
「……柔らかいのう」
「……食べてみる?」
玄弥の問いに、葛葉は一拍置いてから、こくりと頷いた。
「では……失礼する」
小さく、一口。
――次の瞬間。
「……」
言葉が、止まる。
甘さが広がる。
外側の味付けと、中の米の酸味。
知らない食感、知らない調和。
「……妙じゃな。甘いのに、くどくない」
「包んでおるのに、主張が強すぎぬ」
玄弥は思わず笑ってしまった。
「そんな分析する人、初めて見た」
「初めて食べたからの」
葛葉は、素直に言う。
宗一郎が、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……九尾でも、知らないものはあるんだな」
「世が変われば、食も変わる」
葛葉はそう言って、もう一つに手を伸ばしかけ――
途中で止まり、ちらりと宗一郎を見た。
「……もう一つ、取ってもよいかの」
「……ああ」
短い返事。
だが、皿を少しだけ葛葉の方へ寄せる。
葛葉は、それを見て小さく目を細めた。
「……人の食事というのは、不思議じゃな」
「腹を満たす以上のものが、ある」
母が微笑む。
「それ、気に入ったってこと?」
「うむ」
葛葉は、はっきりと頷いた。
「初めて食うが……とても、よい」
⸻
卓の空気が、柔らかくなる。
九尾にとって初めての油揚げ。
初めての稲荷寿司。
完全な理解ではない。
それでも、同じ「美味い」を共有できた。
それが、確かにそこにあった。
⸻
夕食の後。
廊下の奥から、ちゃぷん、と水の揺れる音が聞こえてくる。
「……あれは、風呂か?」
葛葉が首を傾げた。
「そう。身体を洗って、湯に浸かるやつ」
「ほう……」
知識としては知っている。
だが実物を見るのは、これが初めてだった。
脱衣所の前で、葛葉は一度立ち止まる。
「全身を……沈めるのか」
「そうだけど、無理しなくていいからな」
「問題ない」
そう言って、静かに中へ入った。
⸻
浴室に足を踏み入れた瞬間、
むわり、と温かな空気が肌を包む。
「……温い」
熱ではなく、攻撃でもなく、
ただ受け入れるだけの温度だった。
桶に湯を汲み、恐る恐る指先を浸す。
「……」
びくりともせず、ただ指を包み込む感触。
害意がなく、拒絶もない。
「不思議じゃな」
身体を洗うのも、最初はぎこちない。
石鹸の泡を見て、少し首を傾げる。
「……泡立つのか」
香りを確かめるように、軽く息を吸う。
「森とは、違う匂いじゃ」
嫌ではない。
むしろ、落ち着く。
⸻
そして――湯船。
縁に腰を下ろし、様子を窺うように湯を見る。
「……深いのう」
一歩、足を入れる。
「……っ」
肩が、一瞬だけ強張る。
だが、痛みはない。
ゆっくりと、身体を沈めていく。
肩まで湯に浸かった瞬間――
葛葉の呼吸が、ふっと緩んだ。
「……」
九尾の霊力が、わずかに揺らぐ。
暴走ではない。
解けるような感覚。
「……人は、毎日これに入るのか」
ぽつりと、誰にともなく呟く。
「……贅沢じゃな」
⸻
しばらくして。
湯から上がった葛葉は、髪を拭きながら静かに言った。
「……悪くない」
「それだけ?」
「うむ」
一拍置いて、続ける。
「……また、入りたい」
玄弥は笑った。
「素直じゃないか」
「どこが素直でないのじゃ。今、素直に言うたぞ」
「いや、それはそう」
葛葉は、少しだけ胸を張る。
「儂は常に正直じゃ」
人の家の風呂。
人の習慣。
人の一日の終わり。
葛葉はまだ、それらを完全には理解していない。
それでも――
湯の温もりだけは、確かに覚えた。
今日の九尾は、少しだけ人に近づいた気がした。




