代償の影響
放課後。
学院の結界外縁。
人の気配が薄れ、妖怪の匂いが濃くなる区域。
「……ここ、だな」
最近、この辺りで野良の妖怪が出没しているという報告が増えていた。
「群れからはぐれた下位妖怪じゃ」
葛葉の声は低い。
「九尾の力の揺らぎに、引き寄せられておる」
「……俺のせいか」
「"せい"ではない」
少し間を置いて。
「"兆候"じゃ」
胸の奥が、じくりと痛む。
⸻
霧が、動いた。
地面を這う影が、歪に盛り上がる。
犬型の妖怪。
毛並みは荒れ、霊気は濁っている。
「……餓鬼犬か」
下位だ。
だが――
もう一体。
さらに、もう一体。
「……三匹」
「理性はない。じゃが、飢えておる」
低い唸り声。
次の瞬間、跳んできた。
霊力を脚に流す。
横へ跳ぶ。牙が空を切る。
地面を蹴り、距離を取る。
――来る。
別の一匹。
腕で受ける。
「っ……!」
衝撃が、骨に響く。
霊力で弾くが、循環が遅い。
おかしい。
霊力は枯れていない。
なのに、身体が追いつかない。
心臓が、重く脈打つ。
内側から、何かが叩いてくる感覚。
「……兆候が、出始めたのじゃ」
葛葉の声に、わずかな緊張が混じる。
「封じられた血が、外へ出ようとしておる」
「……今は、出るな……!」
歯を食いしばる。
九尾の尾は、使えない。
使えば――戻れなくなる。
⸻
足がもつれる。
膝をつく。
その瞬間、餓鬼犬が飛びかかった。
「……っ!」
咄嗟に腕を出す。
――視界が、赤く染まった。
走る痛み。
だが、それ以上に――血が、熱い。
心臓の奥で、何かが笑った気がした。
「……抑えろ!」
「……っ、ああああ!」
霊力を、無理やり逆流させる。
身体が悲鳴を上げる。
餓鬼犬が弾き飛ばされ、残りの二匹が怯む。
だが――
俺は、立てなかった。
妖怪たちは、獲物を諦め、霧の中へ消えていった。
⸻
ふらつきながら、家へ戻った。
西園寺家。
古いが、手入れの行き届いた屋敷。
「……玄弥?」
玄関を開けた瞬間、母が顔を上げる。
「……また、無理したの?」
「……ちょっと転んだだけ」
「その"ちょっと"が多いのよ」
奥から、父の声。
「……帰ったか」
寡黙な人だ。
だが、俺の腕の包帯を見て、ほんの一瞬だけ眉が動いた。
「……また、か」
それだけ。
責めない。
だが、知っている。
俺の中に、"何か"があることを。
⸻
自室。
布団に倒れ込み、天井を見つめる。
荒い呼吸を、整える。
「……今日の代償は、内側の摩耗じゃ」
葛葉が、静かに言う。
「繰り返せば、血が、呪いが表に出る」
「……それでも」
呟く。
「……逃げる気は、ない」
胸の奥が、また熱を持つ。
だが今は、まだ。
尾は、眠っている。
それでいい。
家族のいるこの場所を、壊したくはない。
⸻
夜。
屋敷は、深く静まっていた。
灯籠の明かりが庭石を照らし、揺れる木々の影が障子に映る。
眠れなかった。
胸の奥で、まだ何かが脈打っている。
叩くように。呼ぶように。
廊下を歩く音。
父だ。
書斎へ向かう背中を見て、
俺は呼吸を一つ整えた。
「……父さん」
足が止まる。
「……どうした?」
⸻
書斎。
湯呑みから湯気が立つ。
父は向かいに座り、俺を静かに見ていた。
「また無理をしたそうだな」
「……はい」
「話しなさい」
一言。
俺は、ゆっくり息を吸った。
「……今日じゃなくて、もっと前から話しておかないといけないことが、あります」
「聞こう」
「……俺が、霊を扱えなかった理由」
沈黙。
「……呪い、ですよね」
「……ああ」
「その呪いの正体を九尾から聞きました」
空気が、重くなる。
「……妖怪の九尾か‥」
「はい。瀕死のところを、助けてしまいました」
「助けた、だと?」
怒りはない。
ただ、事実を確かめる声だった。
「……そのまま死なせることが、できなくて。結果、契約しました。力を借りる形で」
父は、ゆっくり息を吐いた。
「……なるほど」
「今、内側の力が外に出ようとしています。使いすぎると、俺が壊れる方向に進みます」
父は目を閉じた。
「妖怪の力は、道具ではない」
重い言葉。
「正直、使ってほしくはない」
だが。
「……それでも」
父は続けた。
「お前の意思は尊重する」
一拍。
「ただし、母さんを心配させるな」
⸻
部屋に戻る。
布団に横になり、天井を見つめる。
「……言ったのじゃな」
葛葉の声。
「ああ」
「……拒まれなかった」
「……父だからな」
胸の奥の熱が、少しだけ落ち着く。
「葛葉」
「なんじゃ」
「父さんのこと、どう見た」
「……ふむ」
葛葉は、少し考えてから答えた。
「腹の据わった人間じゃ。怒りも、動揺も、表に出さなかった」
「そうだな」
「だからこそ」
葛葉の声が、少し静かになる。
「心配しておるのじゃよ。言葉にせんだけで」
俺は、黙って天井を見つめた。
九尾の存在は、知られた。
だが――否定されなかった。
それで、今は十分だ。
尾は、まだ出せない。
だが、準備は始められる。
壊れないためじゃない。
――進むために。




