幕間 秩序を乱す者の末路
闇には、常に酒の匂いがした。
甘く、重く、腐りかけた香り。
酔いを誘い、同時に理性を溶かす臭気。
そこは、人の世から切り離された鬼の座。
巨大な酒がめが幾つも並び、
赤黒い妖気が天井に澱んでいる。
その中央。
胡坐をかき、酒を煽る影があった。
――酒呑童子。
四大天魔が一柱。
妖怪の王に直接仕える者。
「……ふん」
盃を置き、低く鼻を鳴らす。
その前に、震える影が跪いていた。
鬼の下位兵。報告役だ。
「申し上げます……」
声が、掠れている。
「配下の一体が……戻りません」
酒呑童子は、興味なさそうに盃を傾けた。
「戻らぬ?」
「……はい」
「命令は出したか」
「……いえ」
⸻
その瞬間。
空気が、凍った。
報告役の鬼は、即座に額を地につける。
「も、申し訳……!」
だが、もう遅い。
酒呑童子は、立ち上がらなかった。
ただ、視線を向けただけだ。
「命令もなく、動いたか」
静かな声。
それが、何よりも恐ろしい。
「身の程を知らぬ愚物だな」
鬼は、必死に言葉を紡ぐ。
「ち、力を誇示したかったのかと……最近、人間側に異変が――」
「異変?」
酒呑童子の口角が、わずかに上がった。
「その判断を、下の鬼風情がするか?」
盃を、静かに置く。
ただそれだけで、報告役の身体が震え出した。
⸻
酒呑童子は、指を一本立てた。
それだけで。
影の奥から、別の鬼が引きずり出される。
血と泥にまみれ、妖怪が乱れきった存在。
――戻らなかった配下だ。
「ひ……っ」
喉から、か細い声が漏れる。
「しゅ、酒呑様……!」
必死に這い、縋ろうとする。
「わ、私は……王のために……!」
「王の名を、軽々しく口にするな」
酒呑童子は、ゆっくりと立ち上がった。
影が、床を覆う。
一歩近づくだけで、部下の霊気が軋んだ。
「貴様は、ただ己の欲で動いた」
酒の匂いが、濃くなる。
「功を焦り、許されぬ獲物に手を出した」
「お、お許しを……!一度だけ……!」
酒呑童子は、ため息をついた。
「……つまらん」
⸻
次の瞬間。
酒がめが、砕けた。
溢れ出したそれは、酒ではない。
――呪いだ。
「――ぎゃああああああっ!!」
部下の身体が、内側から崩れ始める。
骨が軋む。
霊が溶ける。
存在そのものが、削られていく。
「勝手に動く者は、秩序を腐らせる」
酒呑童子は、淡々と告げた。
「腐りかけの酒は、捨てるしかないのと同じでな‥消えろ」
悲鳴は、次第に細くなり――
消えた。
そこには、何も残らない。
魂の欠片すら。
⸻
静寂。
酒呑童子は、再び盃を取った。
「……人間側に異変、か」
独り言のように呟く。
「封印の歪み。王の因果に揺らぎが出ているのは事実だ」
だが。
「それを確かめるのは、我らの役目ではない」
四大天魔は、駒ではない。
だが、勝手に動く存在でもない。
「時が来れば、王は解放される」
盃を、煽る。
「それまでに、余計な波紋を広げるな」
報告役の鬼は、声も出せず頷いた。
⸻
酒呑童子は、影の奥を見つめる。
人の姿はない。
だが――確かに何かが、動き始めている。
「……面倒な芽だ」
そう呟き、笑った。
「九尾と契約した人間か」
「まだ青い。まだ弱い」
だが、と続ける。
「放置すれば――育つ」
芽は、小さいうちに摘む。
それが、鬼の理だ。
「次に動くのは、勝手な下ではない」
酒の匂いが、再び闇を満たす。
「正規の一手だ」
盃が、傾く。
赤黒い雫が、床を伝った。
⸻
その下で。
人知れず一つの命が、完全に消え去ったことを。
人間側は、まだ誰も知らない。




