妖怪の王と楔
暗かった。
冥界は、いつでも暗い。
光源のない世界。
空も地も、同じ色をしている。
その暗闇の中で。
鵺の輪郭が、揺れていた。
大きく。
荒れるように。
「——ッ」
声にならない怒りが、冥界の空気を震わせた。
目の前まで出られた。
あと一歩だった。
あと一歩で現世に踏み出せたのに。
あの人間が。
西園寺玄弥が。
綻びを閉じた。
「……ッ、ッ、ッ——!」
鵺の妖気が、周囲に爆発した。
近くにいた妖怪が、一体。
逃げる間もなかった。
鵺が振り返った瞬間。
ただ、消えた。
霧散した。
何も残らなかった。
もう一体が、逃げようとした。
「……どこへ行く」
鵺の輪郭が、伸びた。
闇の触手のように。
妖怪を、包んだ。
悲鳴すら、上がらなかった。
消えた。
しばらく。
鵺は動かなかった。
妖気が、ゆっくりと収まっていく。
周囲に残った妖怪たちが、息を殺して動かない。
「……下がれ」
低い声だった。
妖怪たちが、音もなく散っていった。
鵺は自分の居城へ戻った。
冥界の奥深く。
妖気が特に濃い場所に構えた、暗い城。
玉座に腰を下ろして。
腕を組んで。
「来い」
声をかけた。
気配が一つ、近づいてきた。
低く這うような動き。
鵺の腹心の部下だった。
「鵺様」
「次の綻びはいつだ」
単刀直入だった。
部下は少し間を置いた。
「……現在の封印の弱まり具合から計算すると」
「早く言え」
「一週間後、かと」
鵺は黙った。
一週間。
七日。
「その時は」
「はい」
「次は絶対に出る」
静かな声だった。
怒りが収まったわけじゃない。
ただ、内側に沈んだだけだった。
「今回は綻びが小さすぎた。それだけだ」
「……はい」
「次は広い綻びを使う。あの人間が封印しようとしても——」
鵺の輪郭が、薄く笑った。
「できないほど、大きな綻びを」
部下が下がった。
城に、鵺だけが残った。
暗い天井を、見上げた。
「西園寺玄弥」
名前を、噛み締めた。
「次は——必ず」
呟きが、暗い冥界に消えていった。
場所は変わって。
炎下家の座敷。
障子を開けると、夕焼けが差し込んでいた。
玄弥、葛葉、ミユキ、ナギサ。
四人が、向かい合って座っていた。
焰一郎が、少し離れた場所で静かに座を共にしている。
「まず整理しよう」
玄弥が口を開いた。
「鵺の本体が、冥界にいる」
「うむ」
「今回の綻びで出てこようとしたが、封印した。次の綻びはいつだ、葛葉」
「わらわの見立てでは」
葛葉は扇子を軽く開いた。
「一週間以内じゃ」
「一週間」
ミユキが繰り返した。
「それまでに準備できる?」
「準備の話は後じゃ。まず全体を把握せよ」
葛葉は続けた。
「鵺の脅威と、もう一つ。妖怪の王の復活についても話しておかねばならない」
座敷の空気が、少し重くなった。
「妖怪の王……」
ナギサが静かに呟いた。
「封印が解けてると言ってましたね」
「うむ。今回の冥界の綻びも、封印の弱まりが影響しておる」
「王はいつ復活する」
玄弥が聞いた。
「一年以内じゃ」
沈黙が落ちた。
「一年」
「うむ」
「……思ったより近いな」
「近いのう」
葛葉は扇子を閉じた。
「ただ」
「ただ?」
「復活してもすぐに動けるわけではない」
「どういうことだ」
玄弥は葛葉を見た。
「長い封印の後じゃ。復活したところで、すぐに力が戻るわけではない。いわば、目が覚めたばかりの状態じゃ」
「動き出すまでに時間がある、と」
「うむ。その間は、四大天魔が動くことになるじゃろう」
「鵺や、酒呑童子が」
「そうじゃ」
葛葉は少し間を置いた。
「ただし、それも条件次第じゃ」
「条件?」
「封印の楔、という話をせねばならんのう」
葛葉は静かに、しかし確かに言った。
「楔?」
「妖怪の王の封印は、五つの楔によって成り立っておる。現世の各地に、それぞれ一つずつ」
「五つの楔が揃って、封印が保たれる」
「そうじゃ」
「つまり」
玄弥は、先の言葉を察した。
「楔が壊れると」
「壊れた数だけ、封印が緩む」
葛葉は続けた。
「五つ全て壊れれば、妖怪の王は完全復活する。どれだけ時間がかかっていようとも、身体の弱まりに関係なく、な」
「五つ全部壊される前に何とかする、ということか」
「正確には、壊させないことじゃ」
「楔の場所は分かるか」
「わらわは大まかな場所は知っておる。ただ」
葛葉は少し、眉を下げた。
「鵺たちも知っておるはずじゃ。四大天魔が楔を壊しに動く可能性は、十分にある」
「整理すると」
ナギサが静かに口を開いた。
玄弥たちが視線を向けた。
「一週間以内に鵺が来る。それが当面の脅威。妖怪の王の復活は一年以内だが、すぐには動けない。ただし五つの楔が全て壊されれば、完全復活する」
「まとめるのが速いのう」
「確認のためです」
「うむ、その通りじゃ」
「じゃあ当面やることは二つですね」
ナギサは続けた。
「鵺と戦う準備。楔を守る準備」
「そういうことじゃ」
「五つの楔って、具体的にどこにあるんだ」
ミユキが聞いた。
「それは追々話す。今すぐ全部は言えない事情があっての」
「事情?」
「楔の場所は、知る者が限られておる。多くの者に広まれば、それだけ敵に漏れる危険がある」
「……信用されてないのか」
「そういう意味では——」
「ない」
葛葉はミユキを見た。
「お前たちは信用しておる。ただ、情報は慎重に扱う方がよいということじゃ」
ミユキは少し黙ってから。
「……わかった」
焰一郎が、静かに口を開いた。
「炎下家として、できることをしたい」
全員が振り向いた。
「わしの失態で迷惑をかけた。せめて、拠点と情報収集の面で協力させてくれ」
「当主」
「玄弥くん」
焰一郎は真っ直ぐに玄弥を見た。
「お前たちを守るために使えるものは全て使う。それがわしにできる、せめてものことだ」
玄弥は少し黙った。
「……ありがとうございます」
頷いた。
「助かります」
焰一郎が、静かに息を吐いた。
ミユキは父の顔を横目で見た。
何も言わなかった。
でも、顔を逸らすタイミングが、少し遅かった。
「一週間」
玄弥は空を見た。
夕焼けが、濃くなっている。
「短いな」
「短いのう」
「でも何もないよりはましだ」
「そうじゃ」
葛葉は扇子を開いた。
「一週間でできることをやる。それだけじゃ」
「ああ」
玄弥は自分の手を見た。
四本の尾が、静かに揺れている。
未来の気配が、遠くに見えている。
鵺が来る。
楔を狙われるかもしれない。
妖怪の王が、一年以内に目を覚ます。
それでも。
「負ける気はしない」
静かに、呟いた。
「なんじゃ、急に」
「独り言だ」
「聞こえたのう」
「葛葉」
「なんじゃ」
「一緒にいてくれるか」
「……当然じゃ」
葛葉は顔を逸らした。
「玄弥とわらわは一心同体、どこへでもついていくわ」




