九尾の尾 4本目
翌朝。
八岐大蛇が腕を組んで待っていた。
「始めるぞ」
「ああ」
玄弥は頷いた。
全身に霊力が満ちている。
三本の尾が、安定して揺れている。
未来視が、薄く働いている。
——今なら、何でもできる気がした。
「その顔をやめろ」
八岐大蛇が静かに言った。
「どの顔だ」
「自信満々の顔だ」
「……そんな顔してたか」
「していた」
八岐大蛇は玄弥を真っ直ぐに見た。
「今からやることは、三本目の比ではない。覚悟しろ」
「わかってる」
「わかっていない」
断言だった。
「やってみればわかる」
「四本目を出せ」
玄弥は霊力を流した。
三本目まで、展開する。
そこから。
四本目に向かって、力を送り込む。
いける——
そう思った瞬間だった。
世界が、消えた。
音が、なくなった。
光が、なくなった。
自分の手が、見えなくなった。
「——っ」
違う。
見えなくなったんじゃない。
自分の手が。
そこに、なかった。
「なんだ——これは——」
声が出ているのかもわからない。
身体があるのかもわからない。
自分が、どこにいるのかもわからない。
——俺は。
——俺は、誰だ。
「消せ」
遠くから、声がした。
「今すぐ消せ」
八岐大蛇の声だ。
声に向かって、霊力を引っ込める。
四本目を、強制的に閉じる。
世界が、戻ってきた。
音が。
光が。
自分の手が。
地面に倒れていた。
息ができない。
身体が震えている。
でもそれより。
「……俺」
玄弥は呟いた。
「俺、今」
「存在が消えかけていた」
八岐大蛇が、静かに言った。
「もう三秒遅ければ、お前はこの世界から完全に消えていた」
玄弥は手を見た。
ちゃんと、そこにある。
「……消えるって、どういうことだ」
「文字通りだ」
八岐大蛇は淡々と続けた。
「四本目の妖力に呑まれると、存在そのものを喰われる。霊力が暴走して、お前という存在の輪郭が溶ける」
「そうなったら」
「誰からも認識されなくなる」
玄弥は黙った。
「この世界に存在しながら、誰にも見えない。誰にも聞こえない。誰の記憶にも残らない」
「……記憶にも」
「ミユキも、ナギサも、俺も」
八岐大蛇は続けた。
「葛葉でさえ、お前のことを忘れる」
その言葉が。
一番、重かった。
玄弥は葛葉を見た。
葛葉は何も言わなかった。
ただ、扇子を強く握っていた。
「葛葉」
「……わかっておる」
葛葉は視線を逸らした。
「だから言いたくなかったのじゃ」
「知ってた上で、黙ってたのか」
「言えばお主が諦めると思うたか?」
「思わなかったから言わなかった?」
「……莫迦じゃ」
葛葉は小さく呟いた。
「お主は絶対に諦めんから、言うのが怖かっただけじゃ」
沈黙があった。
玄弥は地面を見た。
さっき感じた感覚が、まだ身体に残っている。
自分が、消えていく感覚。
自分が、何者なのかわからなくなっていく感覚。
あれが続いたら。
「……やる」
それでも、立ち上がった。
「玄弥」
「やるって言った」
「……聞こえておる」
葛葉の声が、震えていた。
玄弥は振り返らなかった。
「消えない。絶対に」
「根拠は」
「お前がいるから」
葛葉が、息を呑んだ。
「繋がってるだろ、俺たち。本契約で」
「……うむ」
「なら消えない。消えたら、その繋がりも消える」
「……論理が雑じゃ」
「でも正しいだろ」
葛葉は何も言わなかった。
でも。
扇子を握る手が、少しだけ緩んだ。
─
「まず理解しろ」
八岐大蛇が地面に紋様を刻んだ。
「四本目の妖力は、三本目までとは性質が違う。量の問題じゃない」
「性質?」
「三本目までは霊力の負荷だ。身体が焼ける、壊れる。だが四本目は存在への干渉だ。お前という概念そのものを、妖力が書き換えようとする」
「……概念」
「お前が西園寺玄弥である、という事実が揺らぐ。耐えるには、自分の核を絶対に手放すな」
「核……八岐大蛇から教わったやつか」
「そうだ。あれが唯一の命綱になる」
玄弥は頷いた。
「わかった」
「一秒だけ出してみろ。それだけでいい」
一秒。
たった一秒。
でも。
その一秒が、これまでの百年より長く感じた。
世界が歪む。
自分の輪郭が、溶ける。
——俺は。
——俺は、西園寺——
「消せ」
引っ込めた。
膝をついた。
息が、乱れた。
「……一秒、か」
「できた。それでいい」
八岐大蛇は短く言った。
「今日はそれだけだ」
「一秒で終わりか」
「一秒で十分だ。明日は二秒だ」
──十年目──
二秒が、三秒になった。
三秒が、十秒になった。
十秒が、三十秒になった。
ただ。
三十秒を超えたあたりで、毎回同じことが起きた。
八岐大蛇が、玄弥を見失う。
目の前にいるのに。
気配があるのに。
一瞬だけ、認識できなくなる。
「……また消えかけたか」
「三十二秒だった」
「さっきより短い」
「調子が悪い日もある」
玄弥は荒い息のまま、頷いた。
「なぁ、八岐大蛇」
「何だ」
「お前が俺を見失う瞬間、俺はどうなってる」
「……薄くなっている」
「薄く」
「存在の濃度が、下がっている。霧のように希釈されていく感じだ」
玄弥は自分の手を見た。
ちゃんと見える。
でも。
あの感覚は、まだ身体に残っている。
その夜。
「玄弥」
葛葉が隣に座った。
「なんだ」
「今日、繋がりが切れかけた」
「……気づいてたのか」
「わらわに気づかないと思うたか」
葛葉は扇子を閉じた。
「三十秒を超えると、お主との繋がりが薄くなる。本契約の糸が、細くなる感じじゃ」
「怖かったか」
「……当然じゃ」
珍しく、素直だった。
「消えるでないぞ」
「消えない」
「約束じゃ」
「約束する」
葛葉は小さく頷いた。
それから、いつものように扇子を広げた。
「……まあ、わらわが引っ張り戻してやるがのう」
「頼りにしてる」
「当然じゃまかせとけ」




