閑話 憤慨する鵺
妖気が、濃い。
空気が重い。
ただそこにいるだけで、弱い妖怪なら意識を失うほどの密度だった。
酒呑童子の屋敷。
妖怪の王の四大天魔が一人、この地に構える居城。
朱塗りの柱。
黒い畳。
天井には見たこともない妖気の紋様が刻まれ、部屋全体がうっすらと赤く光っていた。
その中央に、酒呑童子は座っていた。
長い赤髪。
巨躯。
鬼の角が二本、真上に伸びている。
金の盃を片手に、静かに酒を傾けながら。
まるで全てが、どうでもいいような顔で。
「……来るのが遅い、鵺」
声は低く、静かだった。
怒ってはいない。
ただ、重かった。
障子が、勢いよく開いた。
入ってきたのは——
黒い霧のような存在だった。
人の形をしているが、輪郭が曖昧に揺れている。
顔だけが、はっきりしていた。
細い目。
歪んだ笑みのような、でも怒りで塗り潰されたような表情。
鵺。
四大天魔が一人。
「……遅くて悪かったな」
その声は、低く、擦れていた。
「座れ」
「座る気分じゃない」
鵺は部屋の中央に立ったまま、動かなかった。
妖気が、じわりと滲み出る。
「牙哭が、やられた」
鵺は静かに言った。
静かだったが、その言葉の裏に怒りがあった。
「……知っている」
「あの人間に」
「知っている」
「西園寺玄弥」
名前を噛み締めるように。
憎しみを込めるように。
「あの小僧に、俺の手下が葬られた」
鵺の輪郭が、大きく揺れた。
館の壁に亀裂が入る。
燭台の炎が、揺れる。
「……落ち着け」
酒呑童子は盃を置いた。
「館が壊れる」
「壊れてもいい」
「俺は困る」
沈黙が落ちた。
鵺は苛立たしげに、部屋を歩き回った。
「お前は怒らないのか、酒呑」
「怒っても牙哭は戻らん」
「そういうことを聞いてんじゃない」
「わかっている」
酒呑童子はゆっくりと立ち上がった。
その巨体が、部屋の圧をさらに重くした。
「だが鵺、一つ聞いていいか」
「……なんだ」
「牙哭を動かしたのは、お前の独断だったな」
鵺は、黙った。
「四大天魔の合議も経ず。王の許可も得ず」
酒呑童子の目が、静かに細くなった。
「お前が勝手に動いたから、こうなった」
「……っ」
鵺の妖気が、跳ね上がった。
「俺のせいだと言いたいのか」
「事実を言っている」
「牙哭はあの小僧を仕留めるはずだった! あそこまでやられるとは——」
「想定が甘かった、ということだ」
酒呑童子は静かに遮った。
「あの人間は、お前が思っているより厄介な存在になりつつある」
「だからこそ、今すぐ潰す必要がある」
「……」
「力をつける前に。まだ弱い今のうちに」
鵺は酒呑童子を真正面から見た。
「次は俺が直接行く」
静寂。
酒呑童子は、しばらく鵺を見ていた。
それから、重いため息をついた。
「……やめておけ」
「何故だ‥」
鵺の輪郭が、さらに揺れる。
黒い霧が、部屋全体に広がり始めた。
「俺は我慢の限界だ。牙哭を倒した礼を、直接返しに行く」
「まぁ待て」
酒呑童子の声が、低くなった。
「王が、もうすぐ復活する」
その言葉で。
鵺の動きが、止まった。
「……なに?」
「封印が、かなり解けかけている」
酒呑童子は静かに続けた。
「長い時をかけて、王の封印は少しずつ綻んでいた。そしてそれが——もうすぐ、完全に破れる」
「……いつだ」
「正確にはわからん。じゃが近い」
酒呑童子は窓の外を見た。
暗い空に、妖気の渦が遠く見えた。
「王が復活すれば、我々四大天魔の力も制限が解ける。今の比ではない力が、使えるようになる」
「……」
「そうなってから動いても、遅くはない。あの人間一人など——」
「遅い」
鵺は、遮った。
「遅いんだよ、酒呑」
その声が、静かになった。
静かになった分、より重かった。
「俺は今すぐ動きたい。今すぐあの小僧を殺したい」
「鵺——」
「王の復活を待つ?」
鵺は笑った。
歪んだ、冷たい笑みだった。
「俺には俺のやり方がある。王の命令を待つだけが天魔じゃない」
「それは独断だ」
「そうだ」
鵺はあっさりと認めた。
「俺は独断でやる。文句があるなら止めてみろ」
酒呑童子は動かなかった。
動けなかったわけじゃない。
止めることも、できた。
でも。
——こいつを止めるのは、面倒だ。
腕を組んで、静かに立っていた。
「……いや、止めない」
「わかってる」
「ただ」
酒呑童子の金の目が、鵺を見た。
「失敗しても、助けには行かんぞ」
「最初から期待してない」
鵺は背を向けた。
黒い霧が、さらに濃くなる。
「西園寺玄弥」
低く、呟いた。
「必ず俺が葬ってやる」
次の瞬間。
霧ごと、消えた。
痕跡すら残さず。
まるで最初から、そこには何もいなかったように。
静かになった館の中。
酒呑童子は一人、残された。
しばらく、鵺が消えた場所を見ていた。
それから。
盃を、静かに持ち上げた。
酒を、一口飲んだ。
「……どうなっても、知らんぞ」
誰もいない部屋に、その呟きだけが残った。
燭台の炎が、ゆらりと揺れた。
玄弥が、こちらを見ている。
「……なあ」
「俺、今めちゃくちゃしんどい特訓してるんだけど」
「百年ですよ、百年。異界補正あるとはいえ」
「‥それで、一つお願いがあって」
そこに、葛葉が割り込んできた。
「なにをしておるのじゃ玄弥。読者に話しかけるでない、みっともない」
「お前も話しかけてるだろ今」
「わらわはよいのじゃ」
「なんで」
「わらわじゃから」
理不尽だった。
「まあよい」
葛葉は扇子をぱちりと開いて、読者の方を向いた。
「お主ら、少し聞いておくれ」
にっこりと、しかしどこか圧のある笑みを浮かべながら。
「この作品、面白いじゃろ?」
疑問形だが、否定を許さない空気があった。
「続きが気になるじゃろ?」
さらに圧が増した。
「ならば——」
扇子で、画面の下の方をびしっと指した。
「分かるよのう?」
笑顔のまま、有無を言わさぬ圧だった。
「評価一つで、この玄弥が救われるのじゃ」
「俺の話してたのか」
「うるさい」
そこに、八岐大蛇が歩いてきた。
腕を組んで。
眼帯の下の目を細めて。
「……何をしている」
「読者に評価を求めておるのじゃ」
「……」
八岐大蛇は読者を見た。
長い沈黙があった。
「評価欲しい」
短く、それだけ言った。
「お前も求めるのかよ」
「当然だ。俺も毎回蘇生で霊力を使っている」
「それは俺のためだろ!」
「お前のためだからこそ、評価で報いてもらいたい」
論理的なのかそうでないのか、よくわからなかった。
「つまりじゃな」
葛葉が改めて読者の方を向いた。
「★★★★★にして欲しいのじゃ」
玄弥が続けた。
「お願いします」
八岐大蛇が締めた。
三人が、綺麗に揃って頭を下げた。
しばらくして。
「……こんなことしてる場合じゃないな」
「そうじゃ、特訓の続きじゃ」
「まだやるのか」
「四本目まで三百年あるぞ」
「やめてくれ……」
八岐大蛇はすでに背を向けていた。
「行くぞ」
「はい……」
玄弥はとぼとぼと、特訓へ戻っていった。
葛葉だけが、最後にもう一度読者を振り返った。
「評価、忘れるでないぞ」
にっこりと。
でも目は笑っていなかった。




