九尾との契約
その日の夕方。
玄弥は炎下家の廊下を歩いていた。
足元はまだ少し頼りないが、歩けないほどではない。
「……起きてたんだ」
廊下の角。
腕を組んで壁に寄りかかりながら、炎下ミユキが立っていた。
こちらを見る目は、どこか不機嫌そうだ。
「ミユキ」
「三ヶ月も寝てたくせに、普通に歩いてんのね」
「まあ……なんとか」
「ふーん」
それだけ言って、視線を逸らす。
でも、その耳が少し赤かった。
「……心配したのか?」
「してない」
「即答だな」
「してないって言ってんでしょ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、それでも動こうとしない。
玄弥はため息をついた。
まあ、これがミユキだ。
その隣に、静かな足音。
水瀬ナギサが立っていた。
表情は変わらない。
ただ、じっと玄弥を見て。
「……生きていて、よかったです。西園寺くん」
短く、それだけ。
それ以上は言わない。
でも、その一言に全部が込められている気がした。
「二人に言っておくことがある」
玄弥は姿勢を正した。
「今の俺、霊力がまったくない。霊装も出せない状態だ」
「……知ってる」
ミユキが短く返す。
「葛葉さんから聞いた」
「霊力を取り戻しに行く。少し時間をくれ」
「勝手にすれば」
「ミユキ」
「待ってるとは言ってない」
ツンと顔を逸らして。
「……ただ、あんたが戻ってくるまでこっちも準備しとくってだけ。それだけ」
玄弥は少し黙った後。
「……ありがとう」
「礼はいらない。西園寺らしく戻ってきなさい」
ナギサはただ静かに頷いた。
言葉はなかった。
でもその目が、ちゃんと語っていた。
その後、玄弥は廊下の突き当たりにある座敷の前で立ち止まった。
ふすまの前に立つと、中から静かな声が響いた。
「入れ」
開けると。
畳の上に正座した、壮年の男がいた。
炎下家の当主。
炎下焰一郎。
その顔に、深い陰があった。
「西園寺玄弥くん」
焰一郎は、ゆっくりと頭を下げた。
「……すまなかった」
「当主」
「牙哭めに体を乗っ取られておった間、わしは……わしの体が、お前たちに刃を向けた」
声が、震えていた。
「どれほど詫びても足りぬことはわかっている。それでも、言わずにはおれんのだ」
玄弥は少し黙った。
「俺は、当主を恨んでいません」
「玄弥くん」
「あれは牙哭がやったことだ。俺が戦った相手は最初から牙哭だった。それだけです」
焰一郎が、ゆっくりと顔を上げる。
目に、光が滲んでいた。
「……お前は」
「それより、三ヶ月も治療してもらって。本当にありがとうございました」
玄弥は深く、頭を下げた。
「おかげで生きてます」
翌朝。
玄弥と葛葉は、炎下家を出た。
向かう先は、異界。
八岐大蛇の棲む場所。
「久しぶりじゃのう、あ奴のところへ行くのも」
「最後に行ったのが特訓のときだったからな」
「あ奴、お主のこと今でも嫌っておるかのう」
「なんでそんな楽しそうなんだ」
「楽しいからじゃ」
異界の入り口。
空気が変わる。
霊気が濃くなる。
木々が黒く、空が薄紫に染まる。
そのなかを、玄弥は踏み越えた。
「来たか」
声がした。
木の根に腰かけた人影。
長い黒髪。
右目には、黒い眼帯。
左の金眼が、静かにこちらを見ていた。
「久しぶりだな、八岐大蛇」
「ふん」
八岐大蛇は短く鼻を鳴らした。
「三ヶ月も眠りこけおって。呆れた人間よ」
「返す言葉もない」
「正直なのは評価してやる」
「頼みがある」
「聞く前から断りたい気分だが、まあ言ってみろ」
玄弥は真っ直ぐに目を向けた。
「霊力を取り戻したい。また特訓を付けてくれ」
「……断る」
間髪入れずだった。
「特訓しても意味がない。それだけだ」
「意味がないって、どういう——」
「霊力が戻ったところで、今以上にはなれん」
八岐大蛇は片目で、玄弥を静かに見た。
「お前の限界は、もうそこに来ている」
「どういうことだ」
「九尾との契約を見ろ」
横に立っていた葛葉が、わずかに目を細めた。
「今のお前と九尾の契約は、仮契約だ」
「仮契約……」
「本来、九尾の力を引き出すには本契約が必要になる。仮契約の状態では、九尾は尾を二本以上出せん。力も当然、制限される」
玄弥は葛葉を見た。
「葛葉、本当か?」
「……本当じゃ」
葛葉は珍しく、視線を逸らした。
「わらわもお主に全力で力を貸したいと思うておる。じゃが、今の契約では限界があるのじゃ」
「じゃあ、本契約にすれば……」
「霊力の回復も、その先の強さも、道が開ける」
八岐大蛇が静かに言った。
「問題は、本契約の方法だ」
「どうすればいい」
「簡単な話だ」
八岐大蛇が立ち上がった。
「九尾と戦い、下せ。それだけだ」
玄弥は固まった。
「……葛葉と戦う?」
「本契約とはそういうものだ。相手の力を真正面から受け止め、それでも立っていることを証明する」
「でも今の俺、霊力がない。霊装も出せない状態で——」
「それでも戦え」
冷たく、断ち切るように。
「言い訳は聞かん」
玄弥は葛葉を見た。
「葛葉」
「…………」
「お前も、最初からそのつもりだったのか」
葛葉は少し沈黙して。
それから、ゆっくりと笑った。
今まで見たことのない、静かな笑みだった。
「わらわは……お主に、全部を預けたいと思うておる」
「葛葉」
「じゃから、証明してみせよ。玄弥」
一人称で、名前で、呼んだ。
その声にからかいはなかった。




