氷解
ライブ中止から三日後。
事務所の会議室には、重たい沈黙が流れていた。
テーブルの上には、当日の機材ログと監視映像のデータが並んでいる。
ムツミのサクラ、サクラはは腕を組み、何度も映像を巻き戻していた。
照明が落ちる直前、ステージ袖のカメラにほんの一瞬だけ“女”が映る。
黒いコート。
特徴のない顔。
次のフレームでは、もういない。
「……偶然じゃないわね」
低い声が静まり返った部屋に落ちる。
隣にいたマネージャーが息を呑む。
「機材の誤作動では?」
「違う」
即答だった。
ログには電圧の異常も配線トラブルもない。
なのに、物理的に触れられた痕跡だけが残っている。
まるで“何か”が干渉したように。
「ヒナタと接触した存在がいる」
サクラは静かに断言した。
その日の夜。
ヒナタのマンション前。
インターホンを押す。
しばらくの沈黙のあと、扉が開いた。
ヒナタはやつれた顔をしている。
「……サクラさん‥どうしましたか」
「話がある」
サクラは靴を脱ぎ、部屋に入る。
カーテンは閉め切られ、室内は薄暗い。
「ライブの日、誰かに会ったわね」
ヒナタの肩がわずかに震える。
「……なんで」
「映ってた」
スマホを差し出す。
一瞬だけ映る女の姿。
ヒナタの呼吸が止まる。
「あの人……」
「人?」
サクラの目が細くなる。
「まだ、感じる?」
数秒の沈黙。
ヒナタはゆっくりと頷いた。
「……いる気がする。
一人でいると、視線みたいなのを感じる」
部屋の空気がわずかに重くなる。
サクラは静かに息を吐いた。
「やっぱりね」
「何なの、あれ」
ヒナタの声はかすれている。
「感情に寄生する存在よ。
嫉妬や劣等感が強い人間に近づく」
ヒナタの胸が締めつけられる。
「あなたの感情に同調したの。
完全に壊させれば、もっと強く顕現したはず」
ヒナタは息を呑む。
「……私のせい?」
「違う」
サクラは即座に言った。
「感情を持つことは罪じゃない。
でも、利用される隙を作ったのは事実」
ヒナタは唇を噛む。
部屋の隅に、ほんの一瞬だけ影が揺れた気がした。
サクラの視線も同じ場所を向いている。
「まだ完全には切れていないわね」
低い呟きが落ちる。
見えない何かが、確かにそこにいる。
ヒナタの背筋に冷たい汗が流れた。
物語は、まだ終わっていなかった。
サクラの視線が、部屋の隅から動かない。
ヒナタも同じ方向を見る。
空気が、じわりと重くなる。
「……いるのね」
サクラが低く呟く。
その瞬間。
カーテンが、風もないのにわずかに揺れた。
部屋の奥、壁際。
輪郭の曖昧な“女”が立っている。
黒いコート。
特徴のない顔。
なのに、確かに笑っていると分かる。
「こんばんは」
柔らかい声。
ヒナタの喉が強張る。
「あなた……」
「酷いわ。私はあなたを守ろうとしただけなのに」
サクラが一歩前に出る。
「感情を煽り、利用するのが守ること?」
女は首を傾げる。
「利用?違うわ。私は“望み”を叶えただけ」
ヒナタの胸が痛む。
「あなたは壊したかった。止めたけど、壊したかった」
甘い囁き。
ヒナタの足が震える。
サクラが鋭く言う。
「ヒナタ、目を逸らさないで」
ヒナタは唇を噛み、女を見る。
「……私は、弱かった」
声は震えている。
「でも、壊したくなかった」
女の輪郭が、わずかに揺らぐ。
「まだ揺れてる。だから私はここにいる」
部屋の温度が下がる。
壁に影が広がる。
サクラが静かに言う。
「完全に切る方法は一つ」
ヒナタが息を呑む。
「あなたが、自分の感情を受け入れること」
女が薄く笑う。
「出来るかしら」
ヒナタは拳を握る。
胸の奥の嫉妬も、焦りも、悔しさも。
全部、否定しない。
「……私は、ムツミに嫉妬した」
はっきりと言う。
「置いていかれるのが怖かった」
女の姿が揺れる。
「でも」
ヒナタは涙を拭う。
「六人で立ちたいって思ったのも本当」
空気が震える。
女の輪郭が薄くなる。
「どちらかを選ばない限り、私は消えない」
最後の誘惑。
ヒナタは深く息を吸う。
「壊さない方を選ぶ」
その瞬間。
女の姿が、ひび割れるように崩れた。
影が霧のようにほどける。
「……まだ終わらないわよ」
最後の声だけが残る。
そして、静寂。
部屋の空気が元に戻る。
ヒナタはその場に崩れ落ちた。
サクラが肩を支える。
「完全には消えてない」
静かな声。
「でも、主導権はあなたに戻った」
ヒナタは荒い呼吸のまま頷く。
夜の事務所は静かだった。
蛍光灯の白い光が、誰もいないレッスン室を照らしている。
鏡に映る自分の姿が、やけに小さく見えた。
ムツミは一人、音も流さずに立っている。
ライブの日の光景が、何度も頭をよぎる。
照明の明滅。
ざわめく客席。
そして、叫んだヒナタの声。
胸の奥がざわつく。
「……私のせい、なのかな」
ぽつりと呟く。
ヒナタが怪我で離れている間、センターに立ったのは自分だ。
歓声を浴びた。
手応えもあった。
正直に言えば、嬉しかった。
その気持ちを否定できない。
でも。
ヒナタが戻ってきたとき、何も変わらない顔をしていた自分を思い出す。
本当は、怖かった。
奪われるかもしれないと思った。
そんな自分を、ヒナタは感じ取っていたんじゃないか。
鏡の前で一歩踏み出す。
フォーメーションの真ん中に立つ。
そこは今、自分の位置だ。
けれど、心の奥が重い。
「……ヒナタは、どう思ってたんだろ」
嫉妬。
焦り。
置いていかれる恐怖。
それは、ムツミにもある。
同じだ。
ただ、言わなかっただけ。
ドアが開く音がする。
振り向くと、ヒナタが立っていた。
少しやつれた顔。
でも、目は逃げていない。
「……ムツミ」
「こんな時間にどうしたの」
ぎこちない会話。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのはムツミだった。
「私ね」
言葉が喉に引っかかる。
それでも、逃げない。
「ヒナタに、勝ちたいって思ってた」
はっきりと言う。
ヒナタの目が揺れる。
「センター、楽しかった。嬉しかった」
胸の奥が痛む。
「でも」
ムツミは拳を握る。
「六人で立ちたいって気持ちも、本当」
静かなレッスン室に声が落ちる。
「ヒナタがいないステージ、嫌だった」
ヒナタが小さく息を吸う。
「……私、嫉妬した」
今度はヒナタが言う。
「置いていかれるのが怖かった」
視線がぶつかる。
逃げない。
「勝ちたいって思うの、悪いことじゃないよ」
ヒナタが言う。
「私も、思ってる」
一瞬の沈黙。
そして、ムツミが笑う。
「じゃあさ」
一歩近づく。
「本気で勝負しよ」
挑むような目。
「でも、六人で立つ」
ヒナタの唇がわずかに震える。
「……うん」
短い返事。
けれど、そこに迷いはない。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
競い合う。
でも、壊さない。
二人の間に、新しい約束が生まれていた。




