ヒナタと謎の女
ヒナタは、練習に来なくなった。
最初は「体調不良」とだけグループチャットに送られてきた。
次のライブも欠席、でも既読はつく。
でも、それ以上は何もない。
スタジオの空気は、明らかに重かった。
「……連絡、返ってこない?」
ムツミが小さく聞く。
マツリが首を振る。
「“大丈夫”ってだけ」
大丈夫なわけがない。
誰もが分かっている。
⸻
数日後。
姉はヒナタのマンションの前に立っていた。
インターホンを押す。
数秒の沈黙。
「……何」
低い声。
「大丈夫?みんな心配してるのよ」
「今は無理」
「顔だけでも見せて」
「見せなくていい」
そんな冷たいやり取り。
「ヒナタ」
姉の声が少しだけ柔らかくなる。
「逃げても解決しない」
「逃げてない」
即答だった。
「ちょっと休んでるだけ」
「みんな心配してる」
「勝手にすれば?」
沈黙。
扉の向こうで、息を呑む気配。
「……今は、誰とも話したくない」
その声は、弱い。
けれど扉は開かない。
「帰って」
小さく。
はっきりと。
姉はしばらく立ち尽くしていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……また来るわね」
返事はない。
扉の向こうで、ヒナタはその場に座り込んでいた。
来ないでほしいのに。
本当は、来てほしい。
矛盾が、胸を締めつける。
⸻
部屋は暗い。
カーテンは閉め切られている。
スマホの通知は、ほとんど見ない。
動画も、開かない。
見れば苦しくなるから。
でも、孤独は増していく。
静かすぎる部屋。
何もない時間。
考えだけが膨らむ。
――私がいなくても、回る。
――もう戻れない。
胸の奥の黒い芽は、少しずつ根を張っていく。
⸻
数日後。
冷蔵庫が空になり、ヒナタは仕方なく外に出た。
夜のコンビニ。
明るすぎる照明が目に刺さる。
フードコーナーでカップ麺を手に取る。
ふと。
「元気なさそうね」
声。
背筋が冷える。
振り返る。
あの女が、そこにいた。
黒いコート。
変わらない、特徴のない顔。
レジ横の雑誌棚の前に、自然に立っている。
「……あなた」
「偶然ね」
そう言って微笑む。
偶然のはずがない。
でもそんな事気にならなかった。
「まだ苦しい?」
ヒナタは目を逸らす。
「別に」
「練習、行ってないでしょう」
心臓が跳ねる。
「どうして」
「顔に出てる」
また、それ。
女はゆっくり近づく。
「あなたがいない間も、ちゃんと回ってる」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「この前のライブ、とても盛り上がったみたいよ」
ヒナタの手が震える。
「……見てない」
「見ない方が楽よね」
優しい声。
「でもね」
女の目が、わずかに細まる。
「あなたが苦しんでいる間、あの子はどんどん前に出る」
あの子。
名前は出さない。
でも分かる。
「ファンも増えてる」
胸の奥がざわつく。
「あなたが戻った時、どうなるかしら」
想像してしまう。
歓声の中心に立つムツミ。
自分の居場所が曖昧なステージ。
「……やめて」
小さな声。
女は首を傾げる。
「あなたは悪くないのに」
またその言葉。
「奪われた側なのに」
黒い芽が、ぴくりと動く。
「ねえ」
女は静かに囁く。
「本当に、取り返したくない?」
ヒナタの呼吸が止まる。
取り返す。
その言葉は甘い。
壊すよりも、正しい響き。
でもその奥に、何か冷たいものがある。
コンビニの照明が、わずかに明滅する。
一瞬だけ。
女の影が、床に不自然に伸びた気がした。
ヒナタはそれに気づかない。
ただ、胸の奥で揺れる感情を握りしめている。
孤独と焦り。
それは、正当化された怒り。
その隙間に。
女の声が、静かに染み込んでいく。
そしてコンビニの外。
自動ドアが閉まる音が、やけに遠く聞こえる。
ヒナタは袋を握ったまま、立ち尽くしていた。
「……どうすればいいの」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
女はゆっくり振り返る。
街灯の光を受けても、相変わらず輪郭が曖昧だ。
「どうって?」
「このままじゃ……戻れない」
胸が締めつけられる。
「戻ったって、居場所ないかもしれない」
女は、優しく頷く。
「怖いわよね」
否定しない。
責めない。
ただ寄り添う。
「……取り返したい?」
ヒナタは答えない。
でも沈黙が答えだった。
女の口元が、わずかに歪む。
「簡単よ」
さらりと言う。
「ライブを滅茶苦茶にしちゃえばいい」
ヒナタの思考が一瞬止まる。
「……は?」
「あなたがいないと回らないって、証明すればいい」
静かな声。
あまりにも自然に。
「私の“部下”を少し暴れさせるわ、それだけ」
ぞくりとする。
「音響を乱す。
照明を落とす。
ちょっとした混乱を起こすだけ」
女は淡々と続ける。
「それにあなたは何もしなくていい。
ただ、高みの見物」
ヒナタの呼吸が浅くなる。
「ライブが崩れれば、分かるわあなたの存在の重み」
甘い。
その言葉は、あまりにも甘い。
壊してしまえば。
証明できる?
私が必要だって。
でも。
「……怪我人とか、出たら」
かすれた声。
女は微笑む。
「そこまではしないから安心して」
即答。
「ほんの少しの混乱よ。
あなたを失った代償を、味わってもらうだけ」
ヒナタの胸の奥で、黒い芽が揺れる。
楽になりたい。
見返したい。
苦しみを分からせたい。
その感情が、ゆらりと顔を出す。
「あなたは悪くない」
またその言葉。
「傷ついた側なんだから」
正当化。
免罪符。
女の影が、足元で不自然に揺れる。
「どうする?」
問いかけ。
夜は静かだ。
遠くで車の音。
コンビニの明かり。
ヒナタの心は、大きく揺れている。
壊せば、証明できる?
それとも。
壊した瞬間、本当に戻れなくなる?
女は急かさない。
ただ微笑んでいる。
まるで、答えが分かっているかのように。
ヒナタの指先が、わずかに震えた。
「……やる」
ヒナタは、小さく言った。
女の瞳が、ゆっくり細まる。
「いいのね」
「怪我人は出さないって言った」
「ええ」
女は微笑む。
「あなたは見るだけ、必要とされる瞬間を、ね」
ヒナタは頷いた。
胸が苦しい。
でも。
止まれなかった。
⸻
ライブ当日。
会場は満員に近い。
ステージ裏。
「いける?」
マドカが小さく拳を出す。
「もちろん」
ムツミが笑う。
まだどこか、無理をしている笑顔。
ヒナタの姿はない。
五人で円陣を組む。
「いくよ」
掛け声。
照明が落ちる。
歓声が上がる。
ライブは、順調だった。
オープニング曲。
フォーメーション。
ムツミは堂々としている。
観客の声も大きい。
確実に、人気は伸びている。
それでも。
どこか、空気が重い。
五人の視線の端に、いつもいないはずの影を探している。
それでも、ステージは回る。
問題なく。
完成度は高い。
⸻
客席の後方。
帽子を深く被ったヒナタが立っている。
隣に、あの女。
「……順調に回ってる」
ヒナタの声は震えている。
「ええ」
女は淡く笑う。
「だから、少し痛い目を見てもらうの」
次の瞬間。
サビ直前。
照明が、一斉にちらついた。
ざわり、と会場が揺れる。
音が一瞬途切れる。
「……?」
ムツミがわずかに視線を上げる。
すぐに歌い直す。
プロだ。
観客は拍手で支える。
だが。
今度は低いノイズ。
スピーカーから、歪んだ音が混じる。
キィン、と耳鳴りのような高音。
観客の悲鳴が混ざる。
舞台袖でスタッフが慌てている。
「機材トラブル!?」
マツリが目を見開く。
アオイが必死にフォローする。
「大丈夫! みんな一緒に!」
会場を繋ごうとする。
だが。
照明が突然、真っ暗になる。
一瞬の完全な闇。
ざわめきが恐怖に変わる。
その闇の中で。
ステージ脇に、黒い影が揺れた。
人ではない何か。
細長く歪んだ“影”が、照明機材に絡みつく。
ヒナタの隣で、女が囁く。
「ほら」
甘い声。
「あなたがいないと、崩れる」
再び非常灯がつく。
ステージは混乱している。
曲は止まり、観客はざわめき、スタッフが走る。
ムツミはマイクを握ったまま立ち尽くす。
必死に声を出す。
「大丈夫です! 少しお待ちください!」
だが声は震えている。
それを見て。
ヒナタの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
嬉しくない。
勝った気もしない。
ただ。
壊れていく光景が、目の前にある。
女は微笑む。
「もう少し壊しても良いよね?」
黒い影が、さらに大きく蠢く。
照明の一部が火花を散らす。
観客の悲鳴が大きくなる。
ヒナタの手が、震える。
――こんなはずじゃ。
“少しの混乱”のはずだった。
でも。
ステージは確実に、崩れ始めている。
ムツミが必死に観客を守ろうとしている姿が、はっきりと見える。
その姿が。
ヒナタの胸を、強く打った。
女が静かに問う。
「どうする?」
壊すか。
止めるか。
ライブ会場は、今まさに混沌の中にあった。




