夜、父と
夜。
屋敷は、深く静まっていた。
灯籠の明かりが、庭石を淡く照らし、
風に揺れる木々の影が、障子に映る。
眠れなかった。
胸の奥で、
まだ何かが脈打っている。
――叩くように。
――呼ぶように。
廊下を歩く音がした。
父だ。
書斎へ向かう背中を見て、
俺は、呼吸を一つ整えた。
「……父さん」
父は、足を止める。
「……どうした」
振り返った顔は、
いつもと変わらない。
◆
書斎。
湯呑みから、湯気が立つ。
父は、向かいに座り、
俺の様子を静かに見ていた。
「……今日は、また無理をしたそうだな」
「……はい」
「……尾は、使っていないな」
「……はい」
ここまでは、いつも通り。
だが――
今日は、それで終われなかった。
「……父さん」
喉が、少し乾く。
「……一つ、
話しておかないといけないことがあります」
父の視線が、わずかに鋭くなる。
「……聞こう」
◆
「……俺が、
“霊を扱えない”理由」
父は、黙っている。
「……封印、ですよね」
「……ああ」
「……その封印の奥に……
何がいるか」
そこで、初めて父が瞬きをした。
「……何だ」
短い言葉。
だが、
誤魔化しは効かない。
俺は、はっきりと言った。
「……九尾です」
沈黙。
書斎の空気が、
一段、重くなった。
◆
「……九尾?」
父は、ゆっくりと復唱した。
「……妖怪の、九尾か」
「……はい」
視線を逸らさずに答える。
「……俺は、
助けてしまった」
「……助けた、だと?」
驚きはあった。
だが、
怒りはなかった。
「……封印の中で、
瀕死だった」
「……それで?」
「……相棒になった」
言葉を選ばない。
事実だけを、並べる。
◆
父は、しばらく黙っていた。
やがて、
ゆっくりと息を吐く。
「……なるほど」
それだけ。
「……父さん?」
「……いや」
首を振る。
「……知らなかった」
正直な声だった。
「……九尾の存在までは、
文献にも、
伝承にも、
残っていない」
机の上の巻物に、手を置く。
「……我々が知っているのは、
“大妖怪を倒した”という結果だけだ」
視線が、俺に戻る。
「……倒してなど、
いなかったのだな」
「……はい」
◆
「……玄弥」
父は、低く言った。
「……お前の中で、
今、何が起きている」
俺は、胸に手を当てる。
「……力が、
外に出ようとしています」
「……尾か」
「……まだ、出せません」
「……だが、
代償が出始めている」
父は、静かに頷いた。
◆
「……九尾は、
力を貸すと言っているか」
「……はい」
「……代価は?」
鋭い質問。
「……まだ、
明確には」
嘘はつかない。
「……でも、
“俺が壊れる”方向なのは……
分かります」
父は、目を閉じた。
◆
「……ならば」
目を開く。
「……一つだけ、
覚えておけ」
俺を見る。
「……妖怪の力は、
道具ではない」
重い言葉。
「……契約でもない」
「……では……」
「……“流れ”だ」
父は、前回と同じ言葉を使った。
◆
「……九尾の力は、
人の身体には、
あまりに大きい」
「……だから、
尾がある」
父は、図を描くように、
指を動かす。
「……尾は、
力を受け止める“器”であり、
外へ逃がす“道”だ」
「……使うな」
言い切り。
「……押し出すな」
「……ただ、
通せ」
◆
「……父さん」
「……なんだ」
「……それで、
代償は……」
父は、少しだけ考えた。
「……完全には消えん」
即答。
「……だが」
言葉を続ける。
「……流れを作ってから、
尾に触れろ」
胸を指す。
「……霊力を、
内で循環させ、
出口を整えろ」
「……準備、ですか」
「……そうだ」
◆
「……準備なしに尾を出せば、
血が、先に壊れる」
胸が、冷える。
「……だが、
流れを作れば」
父は、俺を見る。
「……壊れる“速度”を、
落とせる」
「……速度……」
「……生き延びる時間を、
稼げる」
それが、
父の出した答えだった。
◆
立ち上がる。
「……父さん」
「……なんだ」
「……俺は」
一瞬、言葉に詰まる。
「……間違ってますか」
父は、少しだけ考えた。
そして――
「……分からん」
正直な声。
「……だが」
背を向ける。
「……選んだ道を、
最後まで歩け」
「……それが、
西園寺のやり方だ」
◆
部屋に戻る。
布団に横になり、
天井を見つめる。
『……言ったな』
葛葉の声。
「ああ」
『……拒まれなかった』
「……父だからな」
胸の奥の熱が、
ほんの少し、落ち着いている。
九尾の存在は、
知られてしまった。
だが――
否定されなかった。
それだけで、
今は、十分だった。
尾は、まだ出せない。
だが、
流す準備は、始められる。
壊れないためじゃない。
――進むために。




