自暴自棄
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
ヒナタが飛び出していった後のスタジオは、音が抜け落ちたみたいに静かだった。
誰も、すぐには動けない。
ムツミは、ヒナタが消えたドアを見つめたまま立ち尽くしている。
「……ムツミ」
マツリがそっと声をかけた瞬間。
張りつめていた糸が、切れた。
「わ、私……」
言葉にならない。
唇が震える。
「違うのに……そんなつもりじゃ……」
涙が溢れる。
その場にしゃがみ込む。
「ヒナタの場所、取ろうなんて思ってない……!」
肩が震える。
「代わりでいいって思ってた。
戻ってきたら、ちゃんと返すつもりで……」
でも。
“返す”って何?
自分はこの数ヶ月、本気でセンターに立ってきた。
歓声が嬉しかった。
自信も、少しずつ芽生えていた。
それは嘘じゃない。
その事実が、胸を刺す。
「私、ヒナタのこと……追い詰めてたのかな……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
アオイが横にしゃがみ、背中に手を置く。
「違う」
低く、はっきりと。
「悪いのは状況で誰か一人のせいじゃない」
「でも……!」
「でもじゃない」
サヤカも静かに言う。
「ヒナタも限界だった、ムツミも限界だった。
‥それだけ」
マドカは壁にもたれ、天井を見上げる。
「ちゃんと話せてなかったね。
みんな、気遣ってるつもりで踏み込まなかった」
マツリが唇を噛む。
「ヒナタ、ずっと我慢してたんだと思う」
スタジオに、すすり泣く音だけが響く。
その時。
コンコン、とノックの音。
ドアが開く。
「……随分、重い空気ね」
入ってきたのは、姉だった。
全員が一斉に顔を上げる。
「ヒナタは?」
短い問い。
誰もすぐに答えられない。
ムツミが涙を拭いながら言う。
「……帰りました」
姉の視線が、ゆっくりと五人を見渡す。
「何があったの」
責める口調ではない。
けれど逃げられない声。
マドカが口を開く。
「新曲の立ち位置の話をしてて……
“今の形が完成に近い”って言ったら、ヒナタが」
言葉を選びながら説明する。
ヒナタの爆発。
不安。
居場所の話。
言い合い。
飛び出していったこと。
姉は黙って聞いている。
途中で口を挟まない。
ムツミが震える声で続ける。
「私……ヒナタの代わりのつもりで立ってました。
でも、本当は……嬉しかったんです。
センターで名前呼ばれるの」
正直な告白。
「それが、ヒナタを傷つけてたなら……」
声が詰まる。
姉は、ゆっくり息を吐いた。
「まず一つ」
静かに言う。
「誰も、誰かの“代わり”じゃない」
五人が顔を上げる。
「ヒナタが抜けた穴を埋めるためにムツミが立った。
でも、そこに立ち続けたのはムツミ自身の実力」
ムツミが目を見開く。
「そしてヒナタは、奪われたんじゃない。
自分で不安を抱え込んで、誰にも見せなかった」
視線が鋭くなる。
「あなたたちも、気づいてたでしょう」
沈黙。
「でも壊れるのが怖くて、深く触れなかった」
誰も否定できない。
「グループはね」
姉はゆっくりと言う。
「仲良しごっこじゃ続かない。
本音がぶつからないと、強くならない」
スタジオの空気が、少しだけ変わる。
「今は最悪の空気かもしれない。
でも、ここを越えない限り、六人では立てない」
ムツミが小さく呟く。
「……ヒナタ、戻ってきますか」
姉は少しだけ考え、答える。
「今は放っておきなさい、追いかけても、余計こじれるわ」
五人に視線を向ける。
「あなたたちは、どうしたいの」
問いが落ちる。
重い。
でも逃げられない。
ヒナタがいないまま進むのか。
六人で立つ未来を選ぶのか。
ムツミは涙を拭き、ゆっくり立ち上がる。
「六人で立ちたいです」
震えているが、はっきりと。
「ヒナタがいないと嫌です」
他の四人も、静かに頷く。
姉はそれを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「なら、覚悟しなさい」
その言葉は優しくもあり、厳しくもあった。
スタジオにはまだ重い空気が残っている。
けれど。
ただ壊れるだけでは終わらない。
そのための夜が、静かに始まっていた。
夜風が頬を打つ。
息が荒い。
心臓の音だけがやけに大きい。
足を止めたのは、駅前の人気のない広場だった。
ネオンが滲んで見える。
涙のせいだと気づいて、乱暴に拭う。
「……来ない」
思わず呟く。
誰も追いかけてこない。
スマホを握りしめる。
通知は、ない。
画面は静かなまま。
――追いかけてきてほしかった。
本当は。
誰かに腕を掴んでほしかった。
「ヒナタ、違う」って。
「必要だ」って。
ただ言ってほしかった。
でも現実は、静かだ。
胸の奥に、冷たいものが広がる。
ああ、やっぱり。
いなくても、回るんだ。
五人で。
完成に近いって言ってた。
あれが本音なんじゃないの。
ベンチに座る。
俯く。
頭の中で、さっきの光景が何度も再生される。
ムツミの涙。
メンバーの戸惑い。
自分の、醜い叫び。
「……最低」
そう言いながらも。
別の声が、心の奥で囁く。
――でも、悪いのは私だけ?
私が怪我しなければ。
私が抜けなければ。
こんなことにはならなかった。
でも。
ムツミは、あの場所で笑っていた。
楽しそうに。
自信を持って。
歓声を浴びて。
その姿が、頭から離れない。
羨ましい。
悔しい。
‥怖い。
感情がぐちゃぐちゃに混ざる。
スマホを開く。
グループチャットは静かだ。
誰も何も送っていない。
それが逆に、怖い。
もう話し合ってる?
もう結論出した?
私、いらないって。
考えが止まらない。
呼吸が浅くなる。
「……もういい」
ぽつりと落ちる。
どうせ。
どうせ私は邪魔なんだ。
頑張っても、焦っても、戻ろうとしても。
ムツミの方が、今は輝いてる。
だったら。
いっそ。
全部、壊れてしまえばいい。
誰もセンターに立てないくらい。
誰も笑えないくらい。
そうなれば、平等でしょ。
その考えに、一瞬だけ救われる自分がいる。
――みんな壊しちゃえばいいんだ。
静かな広場で、そんな言葉が浮かぶ。
胸の奥の黒い種が、じわりと根を伸ばす。
でも同時に。
ほんの小さな声が、どこかで抵抗する。
それで本当に、いいの?
ヒナタは両手で顔を覆う。
壊したいわけじゃない。
本当は。
六人で笑いたいだけだ。
なのに。
孤独が、思考を歪める。
誰も来ない夜。
冷たい空気の中で。
ヒナタは、自分の中に芽生えた闇を、はっきりと自覚してしまった。
夜の広場。
人通りはほとんどなく、遠くの車の音だけが流れている。
ヒナタはベンチに座ったまま、膝を抱えていた。
スマホの画面は暗い。
通知は、ない。
時間だけが過ぎていく。
「……寒い」
呟いたその時。
「寒いね」
すぐ横から、声がした。
ヒナタははっと顔を上げる。
いつの間にか、隣に女が立っていた。
年齢が分からない。
二十代にも三十代にも見える。
特徴が、ない。
黒いコート、黒い髪。
淡い色の顔立ち。
印象が、薄い。
人混みにいれば、二度と見つけられないような女。
「……誰ですか」
「通りすがり」
女は穏やかに笑う。
笑っているのに、目の奥が読めない。
「泣いてる子がいたから」
ヒナタは反射的に顔を背ける。
「泣いてない‥」
「そう」
女はそれ以上追及しない。
ただ、隣に腰掛ける。
距離は近くない。
でも、不思議と気配が濃い。
「大切な場所で、うまくいかなかった?」
ヒナタの肩が、ぴくりと揺れる。
「……なんで」
「顔に書いてあるわ」
女はさらりと言う。
「大事な何かを奪われたって顔」
その言葉に、胸が強く打つ。
ヒナタは思わず女を見る。
「そんなこと‥」
反射的に否定する。
「でも、怖いんでしょう」
優しい声。
「戻った時に、もう自分の場所がないかもしれないって」
図星だった。
喉が詰まる。
「……みんな、前に進んでる、私は怪我で進まないのに‥」
「置いていかれた気がする?」
ヒナタは、答えない。
答えられない。
女は静かに続ける。
「あなたは悪くない」
その言葉は、あまりにも滑らかだった。
「怪我はあなたのせいじゃない。
頑張ってるのに、不安になるのも普通」
ヒナタの目から、また涙が落ちる。
「私、ひどいこと言った」
「追い詰められた人は、そうなるものよ」
即答だった。
「あなたは奪おうとしたわけじゃない。
ただ、守りたかっただけ」
守りたかった。
その言葉が、胸に落ちる。
「なのに、誰もあなたを守ってくれなかった」
ヒナタの呼吸が、浅くなる。
その通りだと、思ってしまう。
追いかけてきてくれなかった。
止めてくれなかった。
「あなたは悪くない」
女はもう一度言う。
優しく、確信を持って。
「悪いのは、あなたを不安にさせた状況。
あなたの場所を曖昧にした人たち」
ヒナタの中で、黒い感情がわずかに揺れる。
正当化される感覚。
楽になる。
罪悪感が、少しだけ薄まる。
「……壊れればいいって思った」
小さな告白。
女は、驚かない。
「それだけ苦しかったのよ」
否定しない。
責めない。
ただ、受け止める。
「壊したいと思うほど、大切だったんでしょう?」
ヒナタの涙が止まらない。
大切だった。
今も。
「あなたは悪くない」
三度目の言葉。
その声は、夜に溶けるように柔らかい。
けれど。
どこか冷たい。
「少し、楽になりたくない?」
女はそう言って、ヒナタを見る。
黒でも白でもない、深い瞳。
ヒナタの胸の奥の闇が、ゆっくりと呼応する。
優しい。
否定しない。
責めない。
それが、こんなにも心地いいなんて。
夜風が吹く。
一瞬、街灯の光が揺れる。
瞬きをした次の瞬間。
隣の女の存在が、わずかに薄れた気がした。
まるで最初から、輪郭が曖昧だったかのように。
「……あなたが望めば皆壊す力も貸してあげるわ‥」
最後にもう一度、囁きだけが残る。
ヒナタは顔を上げる。
隣には、もう誰もいない。
けれど。
胸の奥の黒い芽は、さっきよりも少しだけ、はっきりと形を持っていた。




