焦りと嫉妬
ライブ終わりのスタジオ。
ヒナタはリハビリ帰りに顔を出していた。
松葉杖はもう必要ないが、まだ激しい動きは禁止されている。
「今日の動画、上がってるよ」
マドカがスマホを差し出す。
五人のフォーメーション。
中央に立つムツミ。
自然に、堂々と。
「表情、安定してきたよね」
マツリが嬉しそうに言う。
「うん。今日の煽りも良かった」
アオイも頷く。
ムツミは照れたように笑う。
「まだ全然だよ。ヒナタの方が――」
「比べなくていいよ」
思ったより強い声が出た。
一瞬、空気が止まる。
ヒナタ自身も驚く。
「今は今の形でしょ?」
淡々と続ける。
「私の名前出さなくていい」
ムツミの笑顔が、ほんの少し固まる。
「ごめん……」
「別に謝らなくていいって」
言い方が、少しだけ冷たい。
分かっている。
分かっているのに、止められない。
⸻
別の日。
フォーメーションの話し合い。
「サビ前、私もう半歩前出てもいいかな」
ムツミが控えめに言う。
以前なら、ヒナタが立っていた位置。
頭では理解している。
今はムツミがセンター。
必要な変更だと。
「……好きにすれば?」
思わず、素っ気なく返してしまう。
マドカがちらっとヒナタを見る。
「ヒナタ、なんかあった?」
「別に」
短い返事。
サヤカが静かに空気を読む。
「今はムツミ軸で固めた方が安定すると思う」
その一言が、胸に刺さる。
“今は”。
その言葉が、やけに重い。
⸻
休憩中。
ムツミがペットボトルを差し出す。
「ヒナタ、水」
「……ありがと」
受け取る。
少しの沈黙。
「この前のターン、ヒナタに教えてもらったやつ意識してて」
嬉しそうに話しかけてくる。
「ちゃんと出来てたよ」
それは本音。
でも続けてしまう。
「でも軸、まだ甘い」
必要以上に。
「本番でブレたら目立つよ」
ムツミが小さく頷く。
「……うん。気をつける」
その顔を見た瞬間、胸がきゅっとする。
言い過ぎた。
本当は、褒めたかっただけなのに。
⸻
帰り道。
ヒナタは一人、歩く。
足はもうだいぶ動く。
けれど心が、うまく動かない。
ムツミは悪くない。
頑張っている。
むしろ自分より努力しているかもしれない。
なのに。
少しずつ、距離ができていく。
他のメンバーも、無意識にムツミ中心で話を進めることが増えた。
それが自然な流れだと分かっているのに、胸の奥がざらつく。
「……最低だな、私」
呟く。
ムツミに冷たくしたくてしているわけじゃない。
でも。
焦りと不安が、言葉を尖らせる。
自分の居場所が揺らぐ感覚。
それを認めたくなくて、強くなってしまう。
スマホに、ムツミからのメッセージが届く。
『さっきのターン、もう一回見てほしい。時間ある?』
少しだけ、指が震える。
本当は。
頼られるのが嬉しい。
それなのに。
ヒナタは短く打ち込む。
『今日は無理』
送信。
画面が暗くなる。
小さなズレが、音もなく広がっていく。
まだ誰も、決定的な亀裂には気づいていない。
でも確実に。
六人になるはずの未来の前で、ヒナタの距離だけが、少しずつ離れ始めていた。
⸻
焦りは、気づけば日常の隙間に入り込んでいた。
朝起きた瞬間から、胸の奥がざわついている。
スマホを開けば、グループの通知。
ライブの告知、リハ動画、ファンの反応。
その中心にいるのは、ムツミ。
当然だ。
今は彼女が立っている。
頭では理解している。
何度も、自分に言い聞かせてきた。
それでも。
スクロールする指が止まるたび、胸の奥がひりつく。
『ムツミのセンター安定してきた』
『今の五人のバランス好き』
“今の五人”。
その言葉が、やけに残る。
⸻
スタジオ。
ヒナタはできるだけ明るく振る舞おうと決めていた。
「ムツミ、この前の煽り良かったよ」
自然に言えた、はずだった。
ムツミがぱっと顔を上げる。
「ほんと? ヒナタにそう言ってもらえると安心する」
その笑顔が、少し眩しい。
「でもさ」
言わなくていい一言が、勝手に続く。
「ちょっと声張りすぎ。喉潰すよ」
空気が、ほんの少し変わる。
「……あ、うん。気をつける」
ムツミは素直に頷く。
何も間違っていない反応。
なのに、ヒナタの胸は苦しくなる。
褒めたかっただけなのに。
支えたかっただけなのに。
どうして、最後に棘が混ざるのだろう。
⸻
帰り道、マツリと並んで歩く。
「ヒナタ、無理してない?」
「してないよ」
即答。
少し間が空く。
「ムツミ、すごいよね」
マツリは悪気なく言う。
「うん。……すごいよ」
言葉は正しい。
でも心が追いつかない。
すごい。
だからこそ、怖い。
自分がいなくても、成立している今が。
⸻
夜。
部屋の中で、ヒナタはひとり動画を見返す。
ムツミのターン。
観客の歓声。
カメラが抜く笑顔。
――似合ってる。
その事実が、胸を締め付ける。
「……私の場所なのに」
小さく呟く。
そんなこと思いたくないのに。
仲間だ。
大切なメンバーだ。
それでも。
心の奥に、小さな黒い種のようなものがある。
もしこのまま戻れなかったら?
もし六人じゃなくていいって思われたら?
その想像が、勝手に膨らむ。
リハビリもしている。
努力もしている。
でも時間は戻らない。
ステージに立っているのは、ムツミだ。
焦りが、じわじわと形を持ち始める。
ムツミが笑うたび、胸がざわつく。
褒められるたび、心が揺れる。
自分でも嫌になる。
「……最低」
そう呟いても、感情は消えない。
むしろ。
抑え込もうとするほど、深く沈んでいく。
翌日のスタジオ。
ムツミがまた笑顔で近づいてくる。
「ヒナタ、今日リハ見てくれる?」
頼られている。
本当は嬉しい。
でも。
「別に、私いなくても回ってるでしょ」
言ってしまう。
一瞬の沈黙。
ムツミの目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……そんなことないよ」
その声が優しいほど、苦しい。
普通に接したい。
前みたいに笑いたい。
でも心の奥で、黒い感情が小さく芽吹いている。
それはまだ、誰にも見えない。
ヒナタ自身でさえ、はっきりとは認めていない。
けれど確実に。
焦りは形を持ち始め、
その影は、少しずつ長くなっていく。
⸻
その日のリハは、新曲の立ち位置最終確認だった。
スタジオの鏡に、五人の動きが映る。
ヒナタは端の椅子に座り、腕を組んで見ていた。
「サビ前、ここでもう一段前出ようか」
マドカが言う。
「うん、その方が映えるかも」
アオイが続ける。
自然と視線が、ムツミに集まる。
「ムツミ、いける?」
「うん。やってみる」
音楽が流れる。
ムツミが前に出る。
歓声を想定した煽り。
動きも表情も、前よりずっと安定している。
ヒナタの胸の奥で、何かがきしむ。
曲が止まる。
「いいじゃん」
マツリが笑う。
「今の形、完成に近いよね」
その一言。
――今の形。
ヒナタの中で、何かが弾けた。
「完成って何?」
自分でも驚くくらい、鋭い声だった。
空気が止まる。
「ヒナタ?」
サヤカが戸惑う。
「完成ってさ、五人でってこと?」
誰もすぐに答えられない。
「別に、そういう意味じゃ……」
マドカが言いかける。
「じゃあ何?」
立ち上がる。
足はもうほとんど治っている。
でも心は、余裕がなかった。
「私いなくても回ってるよね。
正直、今の方がバランスいいって思ってるでしょ?」
「そんなことない!」
ムツミがすぐに否定する。
「ヒナタがいないと――」
「じゃあ何で、全部ムツミ中心で決めるの?」
言葉が止まらない。
「立ち位置も、煽りも、フォーメーションも。
私の場所だったとこ、どんどん塗り替えてるじゃん」
ムツミの顔が青ざめる。
「それは……今は私が代わりだから」
「代わり?」
乾いた笑いが漏れる。
「もう“代わり”じゃないでしょ。
固定ファンもついて、自信もついて、センター板についてるよ」
「ヒナタ、それ言い過ぎ」
アオイが低く言う。
「言い過ぎ? 本当のことでしょ?」
視線が全員に向く。
「どうせ思ってるよ。
このまま五人でもいけるって」
「誰もそんなこと思ってない!」
マツリが声を荒げる。
「ヒナタが勝手に決めつけてるだけじゃん!」
その言葉が、胸を抉る。
「決めつけ?
じゃあ何で、私に相談もなく話進めるの?」
「ヒナタが“好きにすれば”って言ったんじゃん!」
マドカの声が強くなる。
「距離置いてるの、ヒナタの方だよ!」
沈黙。
息が荒くなる。
視界が少し滲む。
「……うるさい」
小さく呟く。
「うるさい!」
叫びに近かった。
「分かってるよ!
私が焦ってるのも、みっともないのも!」
言葉が溢れる。
「でも怖いんだよ!
戻った時に、居場所なかったらどうしようって!」
スタジオが静まり返る。
ムツミの目に、涙が浮かぶ。
「ヒナタの居場所なくなるわけない」
「じゃあ何でこんなに不安になるの!」
胸を押さえる。
「頑張ってるのも分かってる!
ムツミが悪くないのも分かってる!」
声が震える。
「だから余計に、どうしていいか分かんないんだよ……」
静寂。
誰もすぐに言葉を出せない。
その沈黙が、ヒナタには耐えられなかった。
「……もういい」
バッグを掴む。
「ヒナタ、待って」
ムツミが手を伸ばす。
その手を、振り払うようにして。
「今は、顔見たくない」
自分でも最低だと思う言葉を残して。
ヒナタはスタジオを飛び出した。
廊下を走る。
呼吸が乱れる。
涙が滲む。
後ろから誰も追いかけてこない。
それがまた、胸に刺さる。
外の空気が冷たい。
足は止まらない。
逃げていると分かっている。
でも今は、あの空間に戻れなかった。
胸の奥で芽吹いた黒い感情が、
ついに形を持って外に溢れ出した。
残されたスタジオには、重い沈黙だけが残っていた。




