猛特訓
レッスン初日。
鏡張りのスタジオは、想像していたよりずっと広く、ずっと冷たかった。
「基礎からいくよ」
アオイの声は穏やかだが、容赦はない。
ストレッチ、体幹、リズム取り。
見るのとやるのでは、まるで違った。
動画で何度も観た振付。頭では分かっているはずのステップ。けれど実際に身体を動かすと、足がもつれる。腕が遅れる。呼吸が合わない。
「カウント遅れてる、ムツミ!」
「はいっ!」
返事はできる。だが身体がついていかない。
ターンでふらつき、止まるべき位置を通り過ぎる。鏡の中の自分だけが明らかにズレている。
悔しさが込み上げる。
こんなに、難しいなんて。
マドカが隣に来る。
「大丈夫、最初は皆そう。ほら、ここ腰から入る」
軽く背中を叩かれ、もう一度。
サヤカは無言で足元を示す。
「重心、ここ。つま先じゃなくて土踏まず」
小さな修正が、少しだけ形を整える。
マツリは歌パートを合わせてくれる。
「声出して。遠慮しないで」
音程が不安定でも、止めない。
何度も、何度も、通す。
汗が目に入り、床にぽたりと落ちる。
呼吸が荒くなる。太腿が震える。体幹トレーニングでは秒数が永遠に感じる。
「今日はここまでね、お疲れ様!」
アオイの声がかかる頃には、床に座り込むしかなかった。
肺が焼けるようだ。
「……こんなにきついんだ」
ヒナタが笑う。
「でしょ?」
松葉杖をついたまま、壁にもたれながら。
「でもさ、これを越えた先がステージなんだよ」
その言葉が、刺さる。
翌日。
筋肉痛で階段を降りるのも辛い。
それでもスタジオへ向かう。
振付を家で復習し、動画をスロー再生し、カウントを口に出して覚える。
失敗する。
またやる。
呼吸が合わない、もう一度。
鏡の中の自分が、ほんの少しだけ“揃った”瞬間がある。
「今の、よかった」
アオイが短く言う。
胸が熱くなる。
見るだけだったステージ。
遠くで輝いていた光。
その裏には、何百回もの失敗と修正がある。
ムツミは、歯を食いしばる。
逃げないと決めた。
託されたのだから。
ライブの日は、確実に近づいている。
見る側から、立つ側へ。
ムツミの特訓は、まだ始まったばかりだった。
レッスン三日目。
鏡に映る自分が、いちばんぎこちない。
「カウント、もう一回いくよ」
アオイの声が響く。
ワン、ツー、スリー、フォー。
頭では分かっている。ヒナタの立ち位置も、マツリの入りも、マドカの煽りも、サヤカの細かい足運びも、何度も見てきた。
でも――身体が追いつかない。
ターンが遅れる。
止めのポーズで肩が上がる。
フォーメーション移動で半歩ズレる。
「ムツミ、重心高い!」
「はい!」
返事は反射。修正は必死。
見るのと、やるのでは、こんなに違うのか。
観客席からは完璧に見えた一瞬が、実際は何十回もの反復で出来ている。
汗が首筋を伝う。
息が乱れる。
太腿が笑う。
「もう一回通そう」
アオイは妥協しない。
音が流れる、イントロ。
ムツミは自分の立ち位置に立つ。
――遅れるな。
身体を前に出す。
足が絡まりそうになる。
それでも止まらない。
マツリが隣で小さく囁く。
「呼吸、合わせて」
合わせる。
ワン、ツー。
今度は少しだけ揃った。
「今のいいよ」
短い一言、胸が熱くなる。
休憩中、ムツミは壁にもたれたまま動けない。
「きつい?」
ヒナタが笑う。
松葉杖のまま、でも目は鋭い。
「ステージはね、楽しいだけじゃ立てないんだよ」
その言葉が刺さる。
夜。
帰宅しても動画を見返す。
カウントを声に出し、鏡の前でターンを確認する。
失敗、もう一度。
ふらつく、もう一度。
足の裏の感覚を覚え込ませる。
翌日、筋肉痛。
それでもスタジオへ向かう。
サヤカが無言で足元を直す。
マドカが笑って空気を軽くする。
マツリが歌いながらタイミングを示す。
アオイが全体を整える。
五人で一つだった場所。
今は、ムツミがそこに立つ。
何度も通し、何度も崩れ、何度も立て直す。
そして――
曲のラスト、ポーズが、ぴたりと揃った。
一瞬の静寂。
アオイが小さく頷く。
「形になってきた」
まだ完璧じゃない。
でも、もう“見ている側”ではない。
立つ側だ。
ライブ当日が近づく。
逃げたいと思う瞬間もある。
でもそれ以上に――
立ちたい、あの光の中へ。
ムツミは、震える足で、もう一度立ち位置についた。
「もう一回お願いします」
声は、ちゃんと前を向いていた。
――
ライブ前夜。
スタジオの時計は、もうすぐ日付が変わることを告げていた。
それでも音は止まらない、床に落ちる汗、荒くなる呼吸。
ムツミは鏡の前で、何度目か分からないターンを繰り返す。
――止めが甘い。
自分で分かる。
最後の決めポーズ、ヒナタの位置に立つその瞬間。
ほんのわずかに重心が流れる。
「……もう一回」
誰に言うでもなく呟く。
音源を流す、イントロ。
ステップ、移動、視線、笑顔。
‥笑顔が固い。
鏡の中の自分は、まだ“代わり”だ。
悔しさが胸を刺す。
ドアが静かに開く。
「まだやってるの?」
アオイだった。
他のメンバーは先に帰されたはずだ。
「もう終わるって言ったのに」
「……あと少しだけ」
ムツミは止まらない。
曲がサビに入る、呼吸を合わせる相手はいない。
それでも想像する。
マツリの声。
マドカの煽り。
サヤカの視線。
ヒナタの背中。
ラストのポーズ。
止める。
――今度は、ブレない。
音が止まる。
スタジオに静寂が落ちる。
アオイが近づき、ムツミの肩にタオルを乗せた。
「十分だよ、それに明日はライブ、無理して怪我したらダメだよ」
「……十分じゃないです‥」
即答だった。
「私は“穴埋め”なんです。穴の形くらい完璧にしないと」
少しの沈黙。
アオイは笑わない。
真面目な目で言う。
「ムツミ、それは違うよ」
「え?」
「ヒナタの穴は埋められない。誰にも」
その言葉に胸が詰まる。
「だから私たちは、五人で一つだった。でも今は――」
アオイがムツミをまっすぐ見る。
「六人目の光で立ってほしいの」
代わりじゃない。
ムツミの喉が震える。
「……怖いです」
初めて零れた本音。
「失敗したらどうしようって。私のせいで、って」
アオイは一歩近づく。
「失敗したら、一緒に頭下げる」
あっさりと。
「でも成功したら?」
少しだけ口角を上げる。
「一緒に笑う」
静かな言葉、ムツミは拳を握る。
鏡の中の自分を見る。
もう“見ている側”じゃない。
明日は、あの光の中だ。
「……もう一回だけ」
「ほんとに最後ね」
音が流れる。
夜は深い。
それでも、ムツミの動きはさっきより軽い。
ラストのポーズ。
止める。
呼吸、視線、笑顔。
鏡の中の少女は、もう少しだけ――アイドルに近づいていた。




