選択、そして
玄弥は、地面に叩きつけられていた。
視界が揺れる。
肺に入った空気が、焼けるように痛い。
息を吸おうとしても、喉が言うことを聞かない。
――致命傷一歩手前。
霊装は、沈黙している。
制約の重さが、刃だけでなく身体そのものにのしかかっていた。
影が落ちる。
ミユキが、立っていた。
霊装を纏ったまま、無感情な顔で。
手には、妖魔の力を凝縮した刃。
次で、終わる。
誰が見ても分かる。
処刑の、その瞬間だった。
刃が、振り下ろされる。
――その直前。
ぴたり、と止まった。
ミユキの腕が、震える。
妖魔の力が、不安定に揺らぐ。
「……っ」
喉から、かすれた声が漏れた。
瞳に、わずかな焦点が戻る。
虚ろだった視線に、戸惑いが滲む。
「……なんで……」
ミユキの声だった。
命令に従う器の声ではない。
「……なんで、来たの……」
刃は、玄弥の喉元に突きつけられたまま。
けれど、それ以上、進まない。
「……逃げてって……言ったでしょ……」
声が、震える。
「……なんで、逃げないの……」
どうして。
どうして。
どうして。
玄弥は、血の味を噛みしめながら、笑った。
「……ほっとけないだろ」
短く、それだけ。
理由にも、答えにもなっていない言葉。
それでも。
ミユキの指先が、はっきりと止まる。
霊装が、軋む。
妖魔の力が、拒絶されるように散っていく。
「……ばか‥……」
小さな声。
泣きそうな、声。
その瞬間。
「――感動的だな」
拍手が、場に響いた。
乾いた音。
心の欠片もない音。
当主の声だった。
「だが、ミユキ。そこまでだ」
空気が、一気に冷える。
「情が戻ったか。だから失敗作だと言ったのだ」
当主は、愉しそうに笑う。
「その男は敵だ、命令を忘れるな」
ミユキの身体が、びくりと跳ねる。
霊装が、再び蠢き始める。
意識を取り戻したはずの彼女に、
再び“命令”が、絡みつこうとしていた。
当主は、一歩前に出た。
その足取りはゆったりとしていて、まるで舞台を楽しむ観客のようだった。
「情に流されるなら、選ばせてやろう」
その声に、場の空気が凍りつく。
「その男を殺せ」
「さもなくば――お前自身が、ここで処理される」
淡々とした宣告。
怒鳴りもしない、脅しでもない。
“当然の選択肢”として、突きつけられた二択だった。
「お前は知っているはずだ」
「逃げた者が、どうなるかを」
ミユキの肩が、強く震えた。
霊装が、暴れる。
妖魔の力が、内側から喉元を掻きむしるように疼く。
――殺せ。
――切れ。
――それがお前の役目だ。
耳鳴りのような命令が、頭の奥で反響する。
でも、違う。
ミユキは、歯を食いしばった。
――違う。
――違う、違う、違う。
玄弥の顔が浮かぶ。
倒れているのに、立ち上がろうとする目。
怖がっていないわけじゃない。
それでも、目を逸らさなかった。
胸の奥が、焼けるように痛む。
血の匂いに、妖魔が歓喜する。
霊力に、喉が鳴る。
欲しい。
奪いたい。
噛み砕きたい。
――でも。
「……いや……」
声にならない拒絶が、内側で弾ける。
かつての記憶が、断片的に蘇る。
姉たちの背中。
消えていった日常。
何も知らず、何も選ばせてもらえなかった時間。
――また、同じことをするの。
――また、奪う側になるの。
霊装が、軋む。
制御が、崩れ始める。
妖魔の力と、人としての意志が、真っ向から衝突していた。
「やめろ……」
かすれた声が、喉を震わせる。
「……やめて……」
刃を握る手が、震える。
一歩でも踏み出せば、全てが終わる。
それが分かっているからこそ、動けない。
当主は、その様子を見て嗤った。
「ほう、抗うか」
「やはり見ものだな」
愉悦に満ちた目で、言い放つ。
「ならば少し時間をやろう」
「選べ、ミユキ」
処刑台の中央で。
命令と感情に引き裂かれながら。
ミユキは、必死に立っていた。
玄弥は、膝をついたまま息を荒くしていた。
視界の端で、ミユキの霊装が不安定に揺れている。
――このままじゃ、殺される。
それは感情じゃない。
状況として、冷静な判断だった。
次の一撃が来れば、もう避けられない。
防げない。
耐えられない。
でも。
刃を向けた瞬間、胸の奥が強く拒絶した。
――斬れない。
人としての理屈じゃない。
覚悟の問題でもない。
“殺したくない”という、どうしようもない感情。
「……くそ……」
歯噛みする。
甘いと分かっている。
ここで迷えば、全員が終わる。
それでも、玄弥の視線はミユキから逸れなかった。
霊装の奥、妖魔の力が、彼女の輪郭を侵食している。
まるで影が、身体の内側から操っているようだった。
――人じゃない。
ふと、ある感覚が引っかかる。
さっき、姉だったモノを斬った時。
制約を課した刃は、「人ならざるモノ」だけを切り裂いた。
そして今。
ミユキの中にある“それ”は彼女自身ではない。
――妖魔だけ、消せるんじゃないか。
息が、詰まる。
無謀だ、成功する保証はない。
下手をすれば、霊装ごとミユキを壊す。
それでも。
「……あるだろ……」
玄弥は、刃を強く握り直した。
思い出すのは、霊装に制約を課したあの瞬間。
“対象を定義すれば、力は応じた”。
なら――
今度は、もっと明確に。
玄弥は、刃に霊力を流し込む。
だが、振り上げない。
代わりに、言葉を紡いだ。
「これは――」
声は震えていた。
それでも、はっきりと。
「人を斬らない」
「魂を壊さない」
刃が、低く唸る。
「――宿主を侵す妖魔のみを、断つ」
霊装が、軋む音を立てた。
制約が、刃に刻まれていく。
刃先が向くのは、ミユキではない。
彼女の“内側”。
玄弥は、ゆっくりと立ち上がった。
足は震えている。
全身が悲鳴を上げている。
それでも。
「……来い、ミユキ」
覚悟は、まだ揺れている。
恐怖も、消えていない。
それでも玄弥は、
“殺さないために戦う”という、最も困難な選択をした。
霊力が臨界を越えた瞬間、
玄弥の背後に“それ”が現れた。
白金の光を帯びた、九尾の尾。
一本、また一本と空間を裂くように揺れ、
霊装と完全に重なり合う。
場が、どよめいた。
尾は威圧のためではない。
暴力の象徴でもない。
――境界を断つためだけに。
「……頼む」
誰にともなく、玄弥は小さく呟いた。
次の瞬間。
「――イヤァァァァッ!!」
ミユキの叫びが、空気を引き裂いた。
霊装が爆発的に展開し、
妖魔の力が奔流となって解き放たれる。
迷いはない。
慈悲もない。
ただ、壊すための一撃。
ミユキは地を蹴り、
玄弥へ一直線に迫った。
――一合。
刃と刃がぶつかる。
火花ではない。
霊力そのものが衝突し、
空間が歪む。
玄弥の腕が、悲鳴を上げた。
膝が沈む。
歯を食いしばらなければ、弾き飛ばされる。
それでも、退かない。
九尾の尾が、刃の軌道に絡みつくように広がる。
直接斬らない。
「……そこだ」
玄弥は、刃をわずかに滑らせた。
狙いは、ミユキの身体じゃない。
霊装の核でもない。
そのさらに奥。
彼女の内側に巣食う、異質な“影”。
「――人ならざるモノのみ、断つ」
制約が、完全に起動した。
刃は肉を斬らない。
血も流れない。
代わりに――
悲鳴のような、歪んだ気配が弾け飛ぶ。
ミユキの身体が、強く仰け反った。
「――――ッ!!」
声にならない叫び。
妖魔が引き剥がされる感覚に、
霊装が軋み、尾が揺れる。
玄弥は、踏み込んだまま刃を引き抜いた。
倒れないよう、必死に耐えながら。
「……ミユキ……」
返事はない。
だが、彼女の瞳からあの濁った光が消えていた。
残ったのは、力を失い崩れ落ちる一人の少女。
――殺していない。
――斬ったのは、妖魔だけだ。
九尾の尾が、静かに霧散する。
玄弥は、その場に立ったまま、
崩れ落ちるミユキを受け止めた。
勝利でも、救済でもない。
ただ――
選び続けた結果が、そこにあった。




