水と炎
翌朝。
身体は、正直言って最悪だった。
「……重……」
起き上がろうとすると、
全身が鉛の塊みたいに軋む。
『基礎だけとはいえ、限界を越えた』
葛葉の声が、淡々と告げる。
『今日は、無理をするな』
「……する気もない……」
学院へ向かう道すがら、
昨日の路地の光景が、何度も頭をよぎる。
――炎。
――鋭い視線。
――交わらずに去った背中。
礼は、言わなきゃならない。
◆
教室に入ると、
また空気が微妙に変わっていた。
視線は来る。
でも、誰も突っ込んでこない。
昨日の件は、まだ噂止まりだ。
「……玄弥くん」
席に着いた直後、
小さな声で呼ばれる。
水瀬マトリ。
「……体、大丈夫ですか」
「まあ……なんとか」
そう答えると、
彼女はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「……昨日、帰りが遅かったって……
聞いたので……」
「心配かけたな」
「……いえ」
そう言いながら、
どこか落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「……あの……」
「ん?」
「……炎下さんと……
何か、あったんですか」
来た。
「……助けられた」
それだけ言うと、
マトリは一瞬、言葉に詰まった。
「……そう、なんですね」
声は柔らかい。
でも、どこか硬い。
――水が、揺れた。
◆
昼休み。
食堂。
探していた相手は、すぐに見つかった。
炎下ミユキ。
一人で、豪快に定食を食べている。
……近づきづらい。
が、逃げるわけにもいかない。
「……炎下」
声をかける。
ミユキは、ちらっとこちらを見る。
「あんたか」
それだけ。
「昨日のこと」
「別に」
箸を止めない。
「たまたま通っただけ」
「それでも」
言葉を切る。
「……助かった。
礼を言いたかった」
ミユキは、ようやく箸を止めた。
じっと、こちらを見る。
「……律儀」
鼻で笑う。
「でも、そういうの、いらないから」
「それでも言う」
短く、頭を下げた。
「ありがとう」
数秒の沈黙。
「……ふーん」
ミユキは、視線を逸らした。
「まあ……
あのまま死なれるのも、後味悪いし」
素直じゃない。
だが――
それが、彼女なりの受け取り方だ。
◆
「……玄弥くん」
その時。
背後から、控えめな声。
振り返ると、マトリが立っていた。
「……ここ、空いてますか」
ミユキの眉が、ぴくりと動く。
「……誰」
「……水瀬マトリです」
名門の姓。
ミユキは、少しだけ目を細めた。
「ふーん……水の家」
それだけで、
空気が、わずかに張り詰める。
「……座る?」
俺が言うと、
マトリは小さく頷いて腰を下ろした。
「……昨日は、お世話になりました」
マトリが、丁寧に頭を下げる。
「玄弥くんから……
お話、聞きました」
ミユキは、一瞬だけ黙ったあと、
肩をすくめた。
「別に。
学院の近くだったし」
それだけ。
だが――
「……それでも、危険でした」
マトリの声が、少し強くなる。
「……勝手に首を突っ込むのは……」
「は?」
ミユキが、眉を吊り上げる。
「勝手?」
「……無茶、です」
マトリは、怯えながらも目を逸らさない。
「……玄弥くん、
倒れかけてたって……」
「だから何?」
ミユキの声が、鋭くなる。
「放っとけって?」
空気が、ぴりついた。
「……っ」
俺が割って入ろうとする前に、
マトリが言った。
「……私は、
守られるだけは……嫌です」
震えながらも、
はっきりした声。
「……だから、
無茶をされるのも……嫌です」
ミユキは、じっと彼女を見つめた。
「……面倒なタイプ」
ぼそっと呟く。
「水って、
火を消しに来るから嫌い」
「……火は、
水を蒸発させます」
小さい声。
でも、引いていない。
一瞬。
バチッと、何かが弾けた。
◆
「……まあいい」
ミユキは立ち上がった。
「仲良しごっこ、
私には関係ないし」
トレーを持ち上げ、
去り際にちらっとこちらを見る。
「西園寺」
「……ん?」
「次は、もう少しマシに逃げなさい」
それだけ言って、行ってしまった。
残された沈黙。
「……すみません」
マトリが、俯く。
「……嫌な言い方、
してしまって……」
「いや」
正直に言う。
「……ありがとう」
マトリは、驚いた顔をした。
「……え?」
「心配してくれたんだろ」
彼女は、少し照れたように頷いた。
◆
火と水は、すぐには混ざらない。
触れれば、衝突する。
蒸気が上がり、
何かが壊れるかもしれない。
それでも。
同じ場所に、存在してしまった以上、
いずれ向き合う時が来る。
その中心に、
なぜか俺が立っているのが、
少しだけ――胃に悪かった。
だが。
昨日は炎に救われ、
今日は水に引き止められた。
どちらも、間違いじゃない。
問題は――
俺が、どこまで耐えられるかだ。
尾は、まだ出せない。
だから今日も、
地味で、静かな努力を積み上げる。
嵐が来る、その前に。




