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呪壊の陰陽師 ―霊力ゼロの陰陽師が最強の妖狐と結ぶ仮初の契約―  作者: 仁科異邦
血の衝動、炎下家編

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閑話 薄れゆく記憶

 意識が、薄い膜を何枚も剥がされていく。

 眠っているわけじゃない。

 起きてもいない。

 考えようとすると、思考の輪郭がぼやける。

 名前や場所より先に、感触だけが残る。

(……また、これだ)


 知っている感覚だった。

 炎下家で、何度も経験してきた。

 不要なものを、静かに削られる。

 痛みはない。

 代わりに、思い出が軽くなる。

 ――だからだろうか。

 浮かんできたのは、とても昔のことだった。


 私には、姉が二人いた。

 年の離れた姉たち。

 いつも先に笑って、私の手を引いてくれた。


「ミユキは、外に出なくていいのよ」

「ここにいれば安全だから」

 その言葉が、嫌いじゃなかった。


 ご飯を分けてくれた。

 髪を梳いてくれた。

 眠れない夜には、隣に来てくれた。


 優しかった。本当に。


 だから、あの日も。

 何も考えずに、部屋の戸を開けた。

 姉が、着替えていた。


「……あ」

 一瞬、目が合った。

 私は謝ろうとした。

 でも、その前に視界に入ってしまった。


 背中。

 白い肌に、黒く、歪んだ模様。


 文字のようで、紋様のようで、でもどれにも似ていない。

 呪印。

 その言葉を、子どもながらに理解してしまった。

「あっ‥」


 姉の声が、強張る。

「……見たのね、ミユキ」


 さっきまでの優しさが、急に遠くなる。

 姉は慌てて服を引き寄せ、背中を隠した。

 でも、もう遅かった。


「これは……違うの」

 焦った声。

 震える指。


「これはね、家のためで……」

 その言葉の続きを、私は聞かなかった。

 聞けなかった。


 胸の奥が、冷えていく。

(ああ)


 この家は、優しいだけの場所じゃない。


 その理解が、私の中に根を下ろした瞬間だった。

 記憶が、そこで途切れる。


 いや。

 正確には、そこで削られる。

 姉の顔が、曖昧になる。

 声が、遠くなる。


 名前が、消えかける。

(……やめて)


 そう思ったはずなのに、

 その感情すら、薄れていく。

 代わりに残るのは、静かな納得。

(必要なことなんだ)

(私は、そうやって守られてきた)

 誰かの声が、遠くで響く。


「順調です」

「感情反応、低下しています」

 その言葉に、安心する自分がいる。

 ――楽だから。


 考えなくていい。

 思い出さなくていい。


 姉たちの背中も、あの模様も、全部。

 削られてしまえば。

 意識は、さらに沈む。


 ただ一つ。

 なぜか、最後まで消えない感覚があった。


 名前も、顔も、はっきりしないのに。

 温度だけが、残っている。


 誰かの血の匂い。

 強い霊力。

 触れてはいけないのに、近づきたくなる感覚。


(……だれ)


 問いは、形にならない。

 次の瞬間、その感覚も薄れていく。

 調整は、静かに進んでいた。


 ミユキの中から、“人として揺れる部分”だけを選んで。


――


 思い出は、最初から壊れていたわけじゃない。

 少しずつ、形を変えていった。

 あの頃の姉は、まだ優しかった。

 声も柔らかくて、私を呼ぶ時は必ず名前を使った。


「ミユキ、こっちに来なさい」

「外は寒いから、今日は中で遊びましょう」

 でも、ある時から違った。

 些細なことで声を荒げるようになった。

 物音に過剰に反応して、誰かの視線を必要以上に警戒するようになった。


「見るな」

 理由もなく、そう言われたことがある。

「じっと見ないで」

「……気持ち悪い」


 その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。

 何かをした覚えはない。

 ただ、そこにいただけなのに。


 姉の目つきが変わっていくのを、私は見ていた。

 優しさが消えたわけじゃない。

 その奥に、苛立ちや焦りが重なっていった。


 爪を噛む癖が増えた。

 夜中に、部屋をうろつくようになった。

 時々、ひどく甘い匂いをさせて戻ってくることがあった。

 そして、あの日。


 私は水を飲もうとして、廊下に出た。

 屋敷の奥から、声が聞こえた。


 低い声。

 呻くような音。

 何かが床に引きずられる気配。


 足が、勝手に動いた。

 柱の影から、そっと覗いた先で。

 私は、見てしまった。


 姉がいた。

 背中を丸めて、誰かの上に覆いかぶさっていた。

 相手は、大人だった。

 家の者なのか、外の人間なのかも分からない。

 ただ、人だった。


 姉の肩が、小刻みに揺れている。

 口元が、赤く濡れていた。

「……やめ」

 相手の声は、途中で途切れた。


 姉が顔を上げる。

 その目が、私を捉えた。

 一瞬。

 本当に一瞬だけ、正気が戻ったような顔をした。

「……ミユキ?」


 名前を呼ばれた。

 昔と同じ声で。

 次の瞬間、その表情が歪んだ。


「見たの」


 責めるでもなく、怒鳴るでもなく。

 ただ、確かめるように。


 私は、何も言えなかった。

 足が動かない。

 声も出ない。

「……見ちゃったのね」


 姉は、ゆっくり立ち上がった。

 床に倒れた人は、もう動かなかった。

 近づいてくる姉から、甘い匂いがした。

 胸が、ぞわりと震えた。


「大丈夫」


 そう言われた。

 優しい声だった。

「ミユキは、気にしなくていいの」

「これはね……抑えきれなかっただけ」


 その言葉が、何を意味しているのか。

 子どもでも、何となく分かってしまった。

 この家では。

 優しさと暴力が、同じ場所にある。


 姉たちの名前は、いつから呼ばれなくなったのだろう。


 最初は、部屋に鍵がかかった。

 次に、食事の時間がずれた。

 そして、廊下で出会わなくなった。


「お姉ちゃんは?」

 私がそう聞いた時、大人たちは一瞬だけ黙った。

「……静養に入った」


 それが、答えだった。

 静養。

 炎下家では、とても便利な言葉だ。


 具合が悪い者も

 制御が難しくなった者も

 外に出せなくなった者も

 すべて、その一言で片づけられる。


 奥の方から、時々音がした。

 何かを引きずるような音。

 低く抑えた声。

 でも、誰も振り返らない。


 屋敷の人間は、知っていた。

 見ないことが、最善だと。

 ある日、姉たちの部屋だった場所に、術式が刻まれた。

 家具はすべて撤去され、畳は新しく張り替えられた。

 最初から、誰も住んでいなかったみたいに。


「ここは、もう使わない」

 そう言われただけだった。


 私は、それ以上聞かなかった。

 聞いてはいけないと、身体が理解していた。


 姉たちがどうなったのか。

 封じられたのか

 壊れたのか

 “別の形で役に立った”のか。

 答えは、どれも同じ重さを持っていた。


 炎下家では、

 制御できなくなったものは

 必ず、処理される。


 それが人であっても。


 その事実を、誰も口にしないだけだ。


 夜。

 遠くで、術式が静かに起動する音を聞きながら、

 私は布団の中で目を閉じた。


(次は、私だ)


 その予感は、恐怖ではなかった。

 ――納得だった。


 だから私は、逃げることも

 抗うことも選ばなかった。


 調整を受け入れるという選択が、唯一の“生き残り方”だと、もう知っていたから。


 記憶が、また薄れる。

 姉の顔が、ぼやけていく。

 名前も、声も、削られていく。

 でも、最後に残った感覚だけは、消えなかった。


 ――人の温度。

 ――血の匂い。

 ――抗えない衝動。


 それが、私にも来るのだと。

 あの時、はっきり理解してしまった。

 だから私は、調整を、拒まなかった。


 削られていくのは、怖かったけれど。削られなかった先にある未来の方が、もっと怖かったから。


 術式の光が、さらに深く沈み込む。

 姉の記憶は、静かに霧散していった。


 まるで。

 最初から、存在しなかったみたいに。


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