調整
炎下家本邸の内側は、静かすぎた。
足音も声も最小限で、すべてが「想定通り」に整えられている。
ミユキは用意された部屋の中央に立っていた。
床に刻まれた術式を見下ろしながら、深く息を吸う。
「……始めるんですね」
問いではなかった。
確認ですらない。
それに答えたのは、父の穏やかな声だった。
「必要な処置だ」
「分かってる」
即答だった。
「外にいれば、いずれ制御を失う。人を傷つける前に戻るしかないって」
だから戻った。
逃げたわけじゃない。
選んだのだ。
「前と同じ調整ですよね」
記憶は、はっきり残っている。
意識が遠のき、身体の奥に何かを押し込められる感覚。
感情が削がれ、衝動だけが檻に閉じ込められる。
「……終わったら、私はどうなりますか」
当主は、少しだけ間を置いた。
「落ち着くよ」
それ以上でも、それ以下でもない言い方だった。
ミユキは、目を伏せる。
「いつかは姉様達の様に人へ戻れなくなるのでしょうか」
当主は、否定しない。
「その可能性もゼロではない‥だがミユキ、君は他の子達とは違う安心しなさい、そうならぬ様に全力を尽くす」
ミユキは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
覚悟は、とうにできている。
術式が淡く光り始める。
身体の内側が、静かに引き延ばされる感覚。
(これでいいんだ)
そう思った瞬間、視界が揺れた。
膝から力が抜け、意識が薄れていく。
最後に聞こえたのは、父の声。
「ゆっくりと休みなさい」
その声音は、あくまで優しかった。
⸻
一方その頃。
炎下家へ向かう道すがら、ナギサは突然足を止めた。
「……?」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
霊力の流れに異常はない。
結界の干渉も感じない。
なのに。
「ナギサ」
玄弥が名を呼んだ瞬間、視界が揺れた。
「ちょっと……立ちくらみ……」
言い終わる前に、身体の力が抜ける。
暗転もしない、意識が飛ぶ感覚もない。
ただ、立っていられなくなっただけだ。
玄弥がとっさに支える。
「おい、ナギサ大丈夫か?」
「……あっ‥、ごめんなさい」
起き上がるが、何故倒れたか理由が分からない。
だからこそ、嫌な予感だけが残る。
⸻
そのまま玄弥は、ナギサを支えながら炎下家の門へ向かった。
「西園寺玄弥だ」
門前で名乗る。
「炎下ミユキがここに来ているはずだ」
門の向こうに立つ者は、静かに首を振った。
「そのような者は、本邸にはおりません」
「嘘だ」
玄弥は即座に言う。
「霊力の流れを追ってきた」
「お引き取りください」
言葉は丁寧で、感情がない。
「これ以上は、立ち入りを許可できません」
結界が、はっきりと拒絶を示す。
玄弥は歯を食いしばった。
(中にいる)
分かっている。
分かっていて、閉め出されている。
「……分かった」
玄弥は一歩引いた。
だが、視線は門から離さない。
「居ないって言うなら、時間を置いてまた来る」
低く、確かな声で言う。
「必ず来る」
門の内側は、沈黙したままだった。
その静けさが、すでに答えだった。
⸻
炎下家当主は、書を閉じたまま報告を聞いていた。
門前に誰が来たのかを告げられた瞬間、その指がわずかに止まる。
「……西園寺、玄弥」
名を反芻するように呟き、次の瞬間、低く吐き捨てた。
「あの忌々しいガキめ」
声音には、先ほどまでの穏やかさは一切ない。
苛立ちと警戒が、隠しきれず滲んでいた。
「なぜ、あれがここに辿り着く」
独り言のように言いながら、立ち上がる。
「‥いや、分かっている」
冷静さを取り戻すように、息を整える。
「ミユキが戻れば、必ず嗅ぎつける」
「血と霊力に引き寄せられる、あの性質……」
机に手を置き、視線を落とす。
「西園寺の血筋は、いつの時代も厄介だ」
「封じられる側であることを、なぜ誇りのように振る舞う」
家人が一歩下がるのを、視界の端で捉えながら続ける。
「門前払いで正解だ今は、近づけるわけにはいかない」
そして、低く言い切る。
「調整の最中だ」
⸻
場所を変え、炎下家の奥。
灯りを落とした部屋で、数名の家人が術式を確認していた。
「第一段階は完了しました」
当主は、静かに頷く。
「妖魔の浮上は」
「抑制されています」
「ただし、完全ではありません」
それを聞いても、表情は変わらない。
「抑制は不要だ」
淡々と告げる。
「抑え込みすぎれば、器が歪む」
「必要なのは、あれを管理できる状態への再配置だ」
床に刻まれた術式が、微かに脈動している。
「外で蓄積された感情は、いずれ不純物になる」
「それを削ぎ、必要な部分だけを残す」
家人の一人が、慎重に問いかける。
「……記憶への影響は」
当主は、一瞬だけ目を伏せた。
「多少の摩耗は避けられん」
だが、すぐに続ける。
「だが致命的ではない」
「人としての情が薄れる程度だ」
それを“問題”とは呼ばない口調だった。
「一族悲願ためだ、その為に全てを費やした」
術式の光が、少し強まる。
「炎下家の娘として、生きられればいい」
「それ以上は、望む必要がない」
当主は、部屋の奥を見据える。
「西園寺玄弥には、手を出すな」
意外な命令に、空気がわずかに揺れる。
「今は、だ」
低く付け加える。
「調整が終わるまでは、な」
その言葉の裏に、終わった後の未来が含まれていることを、誰もが理解していた。
静かな部屋で、術式だけが脈を打つ。
ミユキの意識が、その中心で削られていく間、当主は一度も目を逸らさなかった。
――忌々しいガキが、何をしようと。
今はまだ、こちらの掌の上だと信じて。




