帰るつもりの無かった場所
炎下家本邸。
外界から切り離されたような静寂の中、結界が、わずかに震えた。
「……反応が出ました」
控えめな声が、座敷に響く。
上座に座る男は、目を閉じたまま動かない。
「位置は?」
「門の外です、霊力波形……間違いありません」
一瞬の沈黙。
やがて、炎下家当主は、ゆっくりと目を開いた。
「――戻ってきたか」
その声音に、喜びはない。
あったのは一族の悲願、種の超越に向けた研究を再開できる気持ちだけであった。
「ずいぶんと、長く外を彷徨っていたな」
独り言のように、低く呟く。
「学園だの、西園寺だの……」
名を口にしただけで、わずかな苛立ちが滲んだ。
「余計な場所に身を置きすぎた」
当主は、静かに立ち上がる。
「抗えぬのに、逃げていたのだろう」
誰に向けるでもなく。
「自分の性質から、血の衝動からそして――家から」
その言葉に、家人の一人が恐る恐る口を開く。
「……お戻りになったということは、限界が来た、と?」
「当然だ」
即答だった。
「自分で抑えられるほどあれは柔な“モノ”ではない」
歩きながら、続ける。
「それに我々が、どれだけの時間と犠牲を払ってあの術式を代々継承してきたと思っている」
廊下に、足音が反響する。
「人の中で暮らせば必ず歪みが生じる」
「霊力の強い者と接触すればなおさらだ」
――西園寺玄弥。
その名を、当主は心の中で切り捨てる。
「感情に引きずられるから制御を失う」
ふ、と小さく息を吐く。
「だが、戻ってきたなら話は別だ」
立ち止まり、門の方角を見る。
救うためでも癒すためでもない。
壊れないように、使えなくならないように。
「迎えを出せ」
当主の声に、逆らう者はいない。
「逃げていた時間の分調整が必要になる」
淡々とした判断。
「もう一度――本来の立ち位置に戻してやる」
その言葉は、
“帰還を喜ぶ家の主”のものではなかった。
それは、成果物を回収する者の声音だった。
門の外で、ミユキがどんな表情をしているのか。
当主は、考えもしなかった。
――
炎下家の門は、静かに開いていた。
夜の空気が、ぴたりと止まる。
ミユキは、門前で足を止めた。
逃げてきたはずなのに――
帰ってきたはずなのに。
胸の奥が、ひどく冷える。
「……ミユキ」
穏やかな声だった。
門の内側に立っていたのは、炎下家当主。
整った身なり、落ち着いた表情。
感情の波は、ほとんど見えない。
「無事で何よりだ」
それは、“心配していた父”の言葉だった。
ミユキは、唇を噛む。
「……ごめんなさい」
何に対する謝罪か、自分でも分からない。
当主は、首を横に振った。
「うん、でも気にしなくていいよ」
否定ではなく、遮るように。
「外で過ごす時間も、必要だったのだろう」
一歩、近づく。
距離は保たれているのに逃げ場がなくなる感覚。
「だが……もう十分だからね」
声音は、どこまでも静か。
「ここに戻ったということは自分の状態を理解した、ということだよね」
ミユキは、何も言えなかった。
理解した。それは、間違っていない。
自分が“普通ではない”ことも、人の中にいれば危険だということも。
「疲れているだろう」
当主は、ゆっくりと手を差し出す。
「中へ入ろう」
父としての仕草。
拒めば、“拒絶した娘”になる。
ミユキは、短く息を吸いその手を――
取らなかった。
一瞬、空気が張りつめる。
だが当主は、眉一つ動かさない。
「……そうか」
責めない。咎めない。
「今は、触れられたくないのかな」
理解ある父の顔。
「なら、歩いて入ろう」
門の内側から、数人の家人が静かに現れる。
誰も、ミユキを見ない。
視線は、当主だけに向いている。
「準備はできている」
当主の言葉に、家人が頷く。
「部屋も、結界も以前のままだ」
――“以前”。
その言葉に、ミユキの背筋が粟立つ。
「しばらくは、外に出る必要はないからね」
優しい声で、はっきりと告げる。
「ここで、落ち着けばいい」
それは、守るための言葉にも聞こえた。
けれど‥。
門が、静かに閉じられる音がした。
重く、確かな音。
外の世界が、切り離される。
ミユキは、思わず振り返る。
もう、外は見えない。
「……父さん」
ようやく出た声は、震えていた。
当主は、微かに微笑む。
「安心しなさい」
その目は、どこまでも落ち着いている。
「お前は、炎下家の娘だ」
その言葉が庇護なのか、拘束なのか。
ミユキには、もう区別がつかなかった。
ただ一つ、確かな違和感だけが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
――ここは、
“帰る場所”べき場所じゃなかったはずなのに。
優しくされたら‥




