閑話 衝動
(ミユキside)
炎下家は、名門だった。
それは誇張でも、昔話でもない。
妖怪と人との境界を守る家として、長い間、陰に陽に名を残してきた。
だからこそ――
誰よりも“力の限界”を知っていた。
妖怪は、強い、人は脆い。
代々の当主たちは、敗北を恐れた。
次に現れる大妖怪に、人の力だけでは届かない未来を。
そして、言い訳が生まれた。
研究だ、管理だ、と。
妖怪を知り、制するために必要な過程だと。
そうして炎下家は、少しずつ、確実に――妖怪側へと歩み寄った。
辿り着いたのが、邪法。
生まれつき霊力の高い人間を選び、
その身を“器”として妖魔を住まわせる禁術。
妖怪を使役するのではない。
人間の内側に、妖を置く。
境界を壊し、力を引き出すための、歪んだ近道。
私も、その器に選ばれた。
理由は単純だった、霊力が高かった。
それだけ。
幼女の頃で儀式の内容は、あまり覚えていない。
覚えているのは――
胸の奥に、
“何か”が入り込んできた感覚。
それが定着した瞬間、私の世界は変わった。
音が、やけに鮮明になった心音。
血が流れる音。
特に、人間のものが。
近くに誰かがいると、
喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
空腹とは違う。
渇きとも違う。
ただ、
欲しいという衝動だけが、確かに存在した。
それは特定の相手じゃない。
年齢も、性別も、関係ない。
敵か味方かも関係ない。
――人間の血。
それだけが、
私の中の“それ”を刺激する。
「……最低」
何度、そう呟いたか分からない。
私は、誰かを傷つけたいわけじゃない。
奪いたいわけでもない。
なのに、近くにいるだけで、理性が削られていく。
だから、距離を取った。
人混みを避け、視線を合わせず、手を伸ばされる前に、身を引いた。
特に――
大切になりそうな人からは。
優しさは、危険だ。
情は、弱点になる。
もしこの衝動を知られたら、もし制御を失ったら。
その時、私が一番壊してしまうのは――
きっと、守りたかった相手だから。
それでも。
夜、ひとりでいるとふと考えてしまう。
この身体に巣食うものを、それでも受け入れてくれる人はいるのだろうか。
恐れずに、拒まずに。
――一緒に、抗ってくれると願う時もあった。
‥でもそんな願いは虚しく叶わない。
この秘密を抱えたままでも私は、
まだ人間でいられるのだろうか。
答えはまだ、出せないままだ。
気づいたのは、偶然だった。
――
夜の寮。
静まり返った廊下の向こうから、足音が聞こえた。
――玄弥。
名前を思い浮かべた、その瞬間。
胸の奥が、ひくりと跳ねた。
「……え?」
喉が、乾く。
それも、今まで感じたことのない種類の渇きだった。
近づいてくるにつれて、
空気が、変わる。
霊力。
澄んでいて、まっすぐで、
人のものなのに、どこか危うい強さ。
それに反応しているのが、
はっきり分かってしまった。
――中にいる“それ”が。
心音が、速くなる。
耳の奥で、血の流れる音がやけに大きい。
「違う……」
壁に手をつく。
指先が、わずかに震えていた。
今までだって、人とすれ違うことはあった。
霊力の高い人間だって、見てきた。
でも――玄弥は、違う。
霊力そのものが、呼び水みたいに、内側を刺激してくる。
近くにいるだけで、衝動が、形を持とうとする。
「……だめ」
視線を伏せる。息を、浅く整える。
今ここで顔を上げたら、
何を考えてしまうか、分からなかった。
玄弥がすれ違う。
その一瞬、
微かに感じた――血の匂い。
怪我はしていないはずなのに。
それでも、確かに。
喉が、きゅっと鳴った。
背中に、冷たい汗が流れる。
(……近づいちゃ、いけない)
はっきりと、理解した。
玄弥は危険だ。
彼自身が、ではない。
私にとって。
もし、この反応が強くなったら。
もし、理性が追いつかなくなったら。
――一番、傷つけたくない人を、
自分の手で壊してしまう。
それだけは、嫌だった。
だから、ミユキはその場を離れる。
足早に。
逃げるように胸の奥で、まだ小さい“異変”が、静かに息づいているのを感じながら。




