襲撃と水瀬家の少女マトリ
家に帰る道は、いつもより長く感じられた。
一歩踏み出すたび、体の奥が軋む。
霊力に触れようとするだけで、鋭い痛みが走った。
「無理はするでない」
葛葉の声は、どこか抑えられている。
「……してないつもりだよ」
そう返しながらも、自分の足取りがふらついているのは分かっていた。
尾を使った代償は、想像以上に重い。
――今の俺は、強くない。
むしろ、少し前より脆いかもしれない。
だからこそ、気づくのが遅れた。
⸻
背後。
木々のざわめきの中に、不自然な"間"が混じる。
「……止まるのじゃ」
反射的に足を止めた、その直後だった。
地面に、黒い影が突き刺さる。
俺が立っていた位置を正確に貫き、土を抉った。
「っ……!」
「来たのう」
葛葉の声が、低く沈む。
「これは妖怪ではない、どうやら妖怪の王の刺客のようじゃな」
こちらの存在が、敵に知られた証拠だった。
⸻
木の上から、ぬるりと人影が降りてくる。
人型だが、顔は歪み目が異様に多い。
「……霊装傀儡か」
学院の教本で見た覚えがある。
人の形をしているが、中身は霊だけで構成された兵器だ。
「へぇ……」
傀儡が、喉を鳴らすような声を出す。
「本当に人間だ」
「九尾と契約したって聞いたけど、随分と弱そうじゃないか」
‥聞いた?
「こやつ、殺気は薄いな"どれほどの脅威か"を測りに来ておるようじゃな」
とはいえ最悪の状況だった。
今の俺は、全力で戦える状態じゃない。
傀儡が腕を振る。
空気が裂け、刃が連続で飛んでくる。
「――っ!」
札を投げる。
「霊札術――札縛!」
光が走り、刃の軌道が僅かに逸れる。
だが、完全には止めきれない。
一枚が肩を掠め、血が滲んだ。
「く……」
「深追いするでない、退け!」
だが、その瞬間。
道の先に――
学院の制服を着た少女が、一人立っているのが見えた。
「……え?」
こちらに気づき、目を見開いている。
小柄で、気弱そうな顔立ち。
霊符を胸に抱くようにして、立ち尽くしていた。
「しまっ……!」
傀儡が、にたりと笑った。
「ほう……いいのが来たな」
霊刃の向きが変わる。
――少女へ。
「やめろ!」
考えるより早く、体が動いた。
⸻
霊力は使うなと言われている。
尾など、論外だ。
それでも。
俺は、少女の前に飛び出した。
「霊札術――連鎖縛!」
札を三枚、同時に叩きつける。
地面から光の鎖が伸び、霊刃を絡め取った。
完全ではないが、進行を止める。
「逃げろ!」
叫ぶ。
だが少女は、震えながら首を横に振った。
「……あ、足が……動かないの……」
恐怖で、完全に竦んでいる。
傀儡が笑った。
「庇うのか、甘いな」
距離が詰まる。
俺の体は、もう限界に近い。
⸻
傀儡が、もう一度腕を振り上げた。
刃が生まれる――その瞬間。
「玄弥」
葛葉の声が、静かに響く。
「よく見よ」
「あやつ、霊の流れが一箇所で詰まっておる」
視線を走らせる。
胸元。
歪んだ紋様が、弱く光っていた。
「……あそこか」
操るための"芯"だ。
俺は深く息を吸う。
「霊札術――断刃!」
札を一枚、真っ直ぐ投げた。
攻撃じゃない。
狙うのは"繋ぎ目"だ。
光が走り、紋様に触れた瞬間――
バキッ、と嫌な音がした。
「……っ!?」
傀儡の動きが止まる。
刃が、霧のように消えた。
「な、何を――」
次の瞬間、体が崩れ落ちる。
中身を失った人形のように。
だが。
霊がほどけていく中で、歪んだ顔が楽しそうに歪んだ。
「完全じゃないが……九尾は目覚め始めている、確かにこれは脅威だ」
それを最後に、傀儡の体は霧のように散っていった。
――撤退。
森に、静寂が戻る。
⸻
「……はっ……はぁ……」
膝が落ちる。
倒れる前に、誰かが俺の腕を掴んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
少女だった。
近くで見ると、さらに頼りなげだ。
それでも、必死に俺を支えようとしている。
「……助けてくれたんですか……?」
「……まぁ結果的にはな、怪我はないか?」
「は、はい……」
少女は小さく頷き、胸元の名札を指で押さえた。
「み、水瀬マトリです……」
その名を聞いた瞬間。
なぜか胸の奥が、少しだけ軽くなった。
「……この娘」
葛葉が、低く囁く。
「霊力が、薄いな」
⸻
マトリは、俺を見上げる。
「さっきの……妖怪、ですよね……?」
「……ああ」
嘘はつけなかった。
「でも、もういない。安心しろ」
マトリは、ほっと息を吐いた後、小さな声で言った。
「……ごめんなさい」
「私、何もできなくて……」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
少し前まで――
それは、俺自身の言葉だったから。
「……大丈夫だ」
俺は、正面から答える。
「俺も、少し前まで何もできなかった」
マトリは、驚いたように目を見開いた。
「……え?」
「だから、今は逃げるだけでいい」
彼女はしばらく黙っていたが、
やがて小さく、頷いた。
⸻
森の奥で、何かが遠ざかる気配がする。
刺客は去った。
だが――
「確実に、認識されたのう」
葛葉の声が低く響く。
「敵は、玄弥を"脅威候補"として見た」
俺は、マトリの肩を支えながら歩き出す。
守るものができた。
同時に、狙われる理由も増えた。
敵はまだ、どこかにいる。
傀儡を送り込んだ者が、俺を測っている。
それでも。
「……名前、教えてもらえますか」
マトリが、遠慮がちに言った。
「西園寺玄弥だ」
「西園寺、さん……」
彼女は小さく繰り返し、胸元の霊符を握り直した。
霊力が薄い。
葛葉の言う通りだ。
それでも、あの場で逃げなかった。
――こいつは、俺と似ている。
そう思ったのは、気のせいじゃないはずだった。
(マトリside)
ただ、怖かった。
目を閉じても、
森の暗さとあの歪んだ顔が、何度も浮かんでくる。
指先が、わずかに震えた。
「……また、か」
布団の中で、ぎゅっと手を握りしめる。
妖怪に襲われた経験は、これが初めてじゃない。
でも――あれほどはっきりと、殺意を向けられたのは初めてだった。
足が動かなくなった、術も使えなかった。
ただ立ち尽くして震えていた。
そこに、彼がいた。
西園寺玄弥くん。
⸻
学院では、少し変わった人として知られている。
霊力が扱えない人。
それを最初に聞いた時――正直に言えば、少しだけ安心していた。
――自分より下の人がいる。
最低な考えだと分かっている。
分かっていても、そう思ってしまった。
でも。
あの時、私の前に立った彼の背中は、評判とはまるで違って見えた。
「……妖怪、怖くなかったのかな」
呟いて、すぐに首を振る。
怖くなかったはずがない。
声も、手も、震えていた。
それでも彼は、逃げなかった。
私のために。
その事実が、胸を締め付ける。
⸻
水瀬家は、古い。
陰陽師の名門として代々続き、水の霊力を扱う家系として知られてきた。
幼い頃から、言われ続けた言葉がある。
「あなたは、水瀬の娘なのだから」
とても重い言葉だった。
水瀬家の霊術は、防御と制御に長けている。
攻撃ではなく、支える力。
だからこそ「安定」を求められる。
「堅実」を求められる。
けれど私は――その期待に答えられなかった。
⸻
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
お父さんと行った、初めての実地訓練。
妖怪と対峙し、祓うための試練。
緊張のせいで、霊力の制御が乱れた。
暴走しかけた、水は柔らかい。
そう思っていた。
でも、制御を失えば――溺れる。
「落ち着いて! マトリ!」
父の声、仲間の叫び、それでも体は動かなかった。
頭が真っ白になった。
そして、妖怪に殺されかけた。
誰かが止めてくれた‥私じゃない、誰かが。
それ以来――
妖怪と向き合うと、体が強張って言うことを聞かなくなる。
家族は、優しく言った。
「向いていないなら、後方支援に回ればいい」
あんな思いはもうしたくなくて。
私は、その言葉に甘えてしまった。
⸻
医務室の窓から、夕暮れが見える。
水面みたいな色の空。
「……また、逃げるの?」
小さく、自分に問いかける。
今日も、私は何もできなかった。
彼に守られて、震えていただけ。
それでも彼は、私を責めなかった。
「逃げるだけでいい」
そう言ってくれた。
――でも。
それは、"今は"という意味だったんじゃないか。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
彼は、霊力が使えないと言われていた人だ。
それでも、あの場で前に出た。
「……すごいな、西園寺くん」
思わず、笑ってしまう。
自分より、ずっと怖い状況だったはずなのに。
それが、どうしようもなく胸に刺さった。
⸻
夜。
私は、一人で実家の訓練場に立っていた。
誰もいない時間、灯りも最低限。
手は、まだ少し震えている。
「……水よ」
小さく、呼びかける。
掌の上に淡い水の霊力が集まる。
不安定で頼りない。
それでも――消えてはいない。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
その時、胸の奥で小さな決意が生まれた気がした。
次は‥。次に彼が戦う時。
後ろで震えているだけでいたくない。
「……少しだけでもいい」
水瀬家の娘としてじゃなく、"水瀬マトリ"として。
深く、息を吸う。
掌の水が、静かに応えた。
恐怖は、消えない。
きっと、消えない。
でも私は――
恐れながらでも、前に進める。
そう、初めて思えた気がした。




