静かな聖域
週末の午後。二人は駅前の喧騒を逃れ、路地裏にある古びた喫茶店に入った。
琥珀色の照明、使い込まれた木のテーブル。ここは比較的「ノイズ」が少なく、結人が落ち着ける数少ない場所の一つだった。
「ここは『茶色』と『深緑』が多いな。古い木の匂いと、落ち着いたコーヒーの香り。安心できる色だ」
結人が小声で解説すると、向かいに座る優妃は嬉しそうにカップを手に取る。
「茶色と深緑……。なんだか、古い図書館みたいで素敵だね」
穏やかな時間が流れていた。しかし、その静寂はドアが開く音と共に破られた。
カランカラン、とベルが鳴り、若い母親と、小学校低学年くらいの男の子が入ってきた。
瞬間、結人の眉間がピクリと動く。
母親の全身から、針のように鋭い「赤」が噴き出していたからだ。それは「怒り」の色だった。
「何回言ったらわかるの! 勝手にお店の商品を触っちゃだめって言ったでしょ!」
母親が低い声で叱りつける。男の子は唇を噛み締め、俯いている。男の子の周りには、心を閉ざしたような濁った「灰色」の壁ができている。
以前の結人なら、この「突き刺さる赤」と「拒絶の灰色」の衝突音に耐えられず、すぐに店を出ていただろう。耳を塞ぎたくなるような不協和音が、店内の空気を振動させている。
だが、結人は逃げなかった。テーブルの下で優妃の足のつま先が、トン、と結人の靴に触れたからだ。
『大丈夫、私には聞こえないけど、結人さんが見ているなら大丈夫』
その合図が、結人を現実に繋ぎ止める。
結人は深呼吸をし、意識のレンズを調整する。
『ただの怒りじゃない。成分を分析しろ』
彼は母親の背中から立ち上る「赤」を凝視した。すると、その激しい赤色の中心に、揺らめく「青色」が見えてきた。
それは、今にも消え入りそうな、震えるような藍色。
「……違う」
結人はポツリと漏らした。
「どうしたの?」優妃が小声で尋ねる。
「あのお母さん、怒ってるんじゃない。……泣きそうなんだ」
「泣きそう?」
「ああ。表面は攻撃的な『赤』だけど、核にあるのは『恐怖』に近い青だ。『万引きだと疑われたらどうしよう』とか『自分の教育が間違っているんじゃないか』っていう、強烈な不安。それが強すぎて、攻撃的な色になって外に出ている」
優妃は少し考え込み、それから悪戯っぽく微笑んで囁いた。
「ねえ、結人さん。その『翻訳』、あの子にも伝えてあげられないかな?」
「え? 俺が?」
「今の結人さんなら、本当の音色が聞こえるんでしょ? あの子の灰色の壁、そのままだとずっと晴れないよ」
結人は躊躇ったが、男の子の周囲の灰色が、次第に息苦しい黒へと変色していくのを見て、覚悟を決めた。
店員が彼らの席に水を運ぶタイミングに合わせて、結人は立ち上がり、何食わぬ顔で彼らのテーブルの横を通った。そして、わざと独り言のように、しかし母親に聞こえる声量で呟いた。
「……あんなに心配してくれてるのに、伝わりにくいなぁ」
母親の動きが止まった。
結人は足を止めず、そのまま男の子の方を一瞬だけ見て、優しく微笑んでみせた。
「お母さん、怒ってるように見えるけど、本当はすごく君のこと心配してて、怖かったみたいだよ。……ほら、色が震えてる」
最後の言葉は、結人の本音だったが、男の子には比喩として伝わったようだ。
男の子がおずおずと母親の顔を見上げる。母親の表情から、険しい力がふっと抜けた。結人の言葉が、彼女自身も気づいていなかった「不安」の正体を突き止めたからだ。
「……ごめんね。ちょっと、言いすぎたわ」
母親がため息交じりにそう言うと、男の子の周りの濁った灰色が、パラパラと崩れ落ちた。
代わりに現れたのは、安堵を示す、淡い「ピンク色」だった。
席に戻った結人は、大きく息を吐き出した。
「……やっちゃった。余計なお世話だったかな」
心臓がバクバクしている。しかし、不思議なことに疲労感はなかった。
店内の空気は、先ほどよりもずっと澄んで見えた。あの親子から発せられていた不協和音が消え、穏やかなオレンジ色のハーモニーに変わっている。
「ううん、すごいよ結人さん」
優妃が身を乗り出して、目を輝かせている。
「私にもわかったよ。空気が、ふわっと軽くなったの。結人さんは今、ノイズを消したんじゃない。ノイズを『音楽』に変えたんだね」
「音楽に……変えた」
結人はその言葉を反芻し、自分の手のひらを見つめた。
ただ耐えるだけだった呪いのような力が、使い方一つで、誰かの心を解きほぐす鍵になった。
「優妃。俺、もう少しこの力を試してみたいかもしれない」
「うん。私も手伝う。結人さんの目は、きっと優しい世界を作るためにあるんだよ」
コーヒーの香りが漂う店内で、結人は初めて、自分を取り巻く世界が「怖い場所」ではなく、「働きかけるべき場所」なのだと確信した。
二人の「秘密の共有」は、ただの重荷の分担ではなく、世界を少しだけ鮮やかにするための、小さな作戦会議へと変わっていった。




