優妃との約束
優妃と出会ってからの結人の日常は、劇的に変わったわけではない。建設現場のノイズは相変わらず激しい。古川の不機嫌は、依然として濁った茶色と低音の「ブーン」として結人を苛む。
しかし、結人の内面には、決定的な変化が起きていた。
優妃が言った言葉が、彼の頭の中で反響している。「私の世界は、いつもモノクロに近い」。
これまでの結人は、自分に襲いかかる「極彩色とノイズの奔流」を、ただひたすら「苦痛」として拒絶し、シャッターを閉ざすことでエネルギーを消耗していた。
しかし今は、優妃の「感情の翻訳機」になるという役割を得たことで、ノイズに対する視点が「個人的な苦痛」から「解析すべき情報」へとシフトし始めた。
『あの黄色は、「焦り」と「未熟な判断」の色だ。鉄骨の「危険」の銀色は、単なる警告ではなく、「構造的な不安定さ」を表している』
結人は、まるで大学の講義で色の分類を学ぶかのように、冷静にノイズを観察する訓練を始めた。
その結果、ノイズの中でも特に危険な「嘘」の粘着質な黒や、「怒り」の鋭利な赤を最優先でシャットアウトし、比較的無害な「単なる退屈」のくすんだグレーや「小さな喜び」の淡い橙色は、流し聞き・流し見できるようになった。
「余裕」の生まれる瞬間
この意識的なノイズの「分類」と「優先順位付け」のテクニックが、結人に初めて「余裕」をもたらした。
これまでは、一日中全身の筋肉に力を入れてノイズを押し返していたため、作業終了時には波に飲まれたように動けなくなった。だが、分類を始めてからは、必要な時だけシャッターを上げ下げできるようになったのだ。
ある日の午後。クレーン作業中に、古川が小さなミスを犯した。彼の周りには、瞬時に「自己嫌悪」の濃い紫と「他者への責任転嫁」の黒いオイルが飛び散る。
以前の結人なら、その黒いオイルに全身を汚され、思考が停止していたはずだ。しかし、今の結人は冷静だった。
『黒いオイルは古川さんの内側から出たもの。俺に向かってくる攻撃ではない』
結人はそのノイズをスルーし、代わりに、クレーンオペレーターの周りに漂う「冷静な対処」の澄んだ青を視界に捉えた。そのノイズの質が、現場は大丈夫だと示している。
「古川さん、今日の午後、あそこの締め付けをもう一度確認しておきましょう。俺も手伝います」
結人は、いつもの「穏やかで気の利く若手」のマスクを被りつつ、その言葉の裏に、「あなたを責める意図はない」という無害な黄緑色のノイズを意識的に乗せて発した。
黒いオイルは、結人の無害な黄緑色に触れると、少しだけ霧散した。古川は、ただ単純に「気が利くな」と受け取った様子で、小さく頷いた。
克服への第一歩
その日の作業後、結人はアパートに戻っても倒れ込むことはなかった。疲れはあったが、それは心地よい肉体的な疲労であり、精神的な浸食ではない。
彼は優妃との連絡画面を開き、文字を打つ。
『今日、ノイズを分類してみた。少しだけ、世界が静かになった気がする。全部を拒否するんじゃなくて、「情報」として扱ってみたら、エネルギーの消費量が半分になったよ』
すぐに優妃からの返信が届いた。
『すごい!結人さんは、その極彩色の世界で、初めて「自分の感覚」をコントロールできたんだね。私の世界では、結人さんの言葉が「感情の色見本」になるよ。それを知ることが、私を疲れさせない力になる。』
優妃の言葉は、結人に新たな使命と、世界との「協調」の道を示していた。
極彩色のノイズは消えない。しかし、結人はそのノイズを、自分を傷つける「凶器」から、優妃のために翻訳する「道具」へと変える術を学び始めたのだ。
結人の孤独な戦いは、まだ終わっていない。だが、彼は初めて、隣に立ってくれる静かな協力者を得て、そして、世界と「共存」するための武器を手に入れたのだった。




