静寂の法則
結人はなんとか起き上がり、ポケットからスマートフォンを取り出した。優妃が差し伸べた手を固辞し、結人は震える指で画面に文字を打ち込んだ。
『大丈夫です。少し、疲れすぎて……すみません』
優妃はそれを読んで、安心したように小さく微笑んだ。
『よかった。顔色が悪かったから心配した』
優妃も自分のスマホの画面を結人に見せる。彼女の表情から来る「透き通った水色」の優しさの色が、結人の視界にじんわりと染み渡る。それは、彼の脳内の張り詰めた防壁を、そっと緩めるような作用があった。
そこで初めて、結人は彼女の名前を確認した。優妃。
優妃が近くにいる限り、周囲を駆け抜けるロードバイクの「焦燥」の蛍光色も、子供たちの「好奇心」の騒々しい黄色も、結人の感覚に届く前に、優妃の「無」の領域に吸収されてしまうようだった。
結人は、この場所が、この女性が、自分の世界における「静寂の法則」そのものであるように感じた。
苦痛の共有と、優妃の応答
しばし、他愛もない筆談が続いた後、結人は居ても立っても居られなくなり、ふと、衝動的に自分の最も深い秘密の一端を打ち込んでしまった。
『一つ、変なことを聞いてもいいですか?』
『私、耳が聴こえないの。変なことなんてないよ』(優妃)
結人は深く息を吸い込み、思い切って文字を打ち込む。
『俺は……人の感情が、色や、耳障りな音として見えたり、聞こえたりするんです。今日の現場の親方は、いつも茶色くて低い「ブーン」って音を出してる』
優妃は、結人の長文を、目を見開いて読んだ。表情に浮かんだのは「純粋な驚き」の、薄いラベンダー色。すぐにそれは「理解」と「共感」を混ぜた、穏やかな薄青色に変わった。
そして優妃は、迷うことなく、すばやく返信を打った。
『じゃあ、私の周りにあるものは、結人さんにはどう見えるの?』
結人は優妃の目をまっすぐ見た。
『無色、無音です。本当に、あなただけ何もノイズがない。だから、俺は、ここにいると疲れない』
その言葉に優妃は、優しく、そしてどこか悲しげに微笑んだ。
『よかった。誰かのノイズになっていないのなら。』
優妃はそのまま、スマートフォンに別の文章を打ち込む。
『私は、音がない代わりに、人の表情や動きから、必死に感情を読み取る。でも、それも時々、よく分からなくて疲れるの。結人さんは、世界が「極彩色」なんだね。私の世界は、いつも「モノクロ」に近い。』
結人の胸に、激しい衝撃が走った。
優妃は、結人とは正反対のアプローチで、同じ「感情の壁」と戦っていた。結人があまりに多すぎる情報に溺れているのに対し、優妃は情報が少なすぎるゆえに消耗しているのだ。
優妃は、結人にとっての「静寂の法則」であると同時に、結人は、優妃にとっての「感情の正確な翻訳機」となるのではないか。
その時、優妃が結人の手首を、そっと指さした。
『結人さんの周り、今は、すごく疲れてる「濃い赤」と、私を見て安心した「薄い水色」が、渦巻いてるよ。』
結人は、優妃の表情から、その言葉が冗談ではないことを悟った。優妃は、音も色も見えない代わりに、結人の感覚を通した視覚情報(彼の周りの色)を、手話や表情から読み取っていたのだ。
二人の特殊な感覚は、互いの欠けた部分を補い合う、奇妙な接続点を見つけた。結人の孤独な戦いは、この河川敷で、新たな方向へと転がり始めたのだった。




