静寂を求めて
疲労の果て、河川敷にてノイズの後の静寂を求めて
喧騒の現場から解放された休日。結人は、都市のノイズから完全に逃れるために、あえて身体を動かすことを選んだ。ジョギング。
だが、都心の河川敷でさえ、世界は結人を見逃してくれなかった。
「焦燥」の極彩色のノイズを振りまくロードバイクの集団。「退屈」と「詮索」の濁った茶色を垂れ流す中年の散歩客。「甘え」と「未熟な好奇心」の明るすぎる黄色とピンクのノイズを撒き散らす子供たち。
結局、結人はどこへ行っても極彩色のノイズから逃れられない。ジョギングを始めて30分、周囲の感情を無理やりシャットアウトしようと踏ん張るうちに、肉体的な疲労よりも、精神的な疲弊が限界を超えた。
肺は酸素を求め、脚は重く、そして脳は限界まで張り詰めた弦のように悲鳴を上げている。結人の周囲に、激しい運動による「苦痛」の濃い赤色が混ざり始めるが、それは周囲の感情ノイズの海の中では、自分の存在を主張できないほど微弱だった。
そして、ついに結人は平衡感覚を失った。
アスファルトから外れ、ふらつきながら河川敷の広々とした芝生に倒れ込んだ。土と草の匂い、視界を覆う夏の青空。
意識を手放した結人は、顔を芝生に埋めたまま、そのまま深い疲労の底に沈んでいった。全身から力が抜け、脳内のノイズの防壁が崩壊していく。
『ああ、これでいい。いっそ、このまま……』
彼は、自分の存在が、この世界から一時的に消滅することを切に願った。
予期せぬ、静かな眼差し
どれほど時間が経っただろうか。
結人は、顔にかかる「日陰」で目が覚めた。太陽の熱が和らぎ、代わりに皮膚に感じるのは、穏やかな午後の風。
ぼんやりと目を開けた結人の視界に、まず飛び込んできたのは、青空を背景にした影だった。
影は、結人を覗き込んでいる。驚きと警戒心で、結人は上体を起こそうとするが、まだ体が動かない。
結人を覗き込んでいたのは、ランニングウェア姿の若い女性だった。黒髪を一つにまとめ、穏やかな目元をしている。
彼女の周りからは、何の色も、何の音も、発せられていなかった。
周囲に満ちていた人々の「極彩色のノイズ」も、「低周波の唸り」も、彼女の周りだけが、ぽっかりと切り取られたように「無」なのだ。まるで、彼女が巨大なノイズキャンセリング装置であるかのように。
結人は、彼女の顔を凝視した。彼女の口元は、何か言葉を発しようと動いている。
「あの、大丈夫ですか?」
彼女の声は、結人の耳に届かなかった。結人が理解したのは、彼女が言葉を発しても、その音波が彼の鼓膜に一切届いていないという、奇妙な事実だけだった。
女性は、結人が反応しないのを見て、少し心配そうな表情を浮かべた。その表情は、言葉や音ではなく、視覚的な表情筋の動きだけで、純粋な「懸念」と「優しさ」を伝えてきた。彼女はそっと手を差し伸べたが、触れる直前で止めた。
彼女の周囲は、無音。そして彼女の表情が伝える感情は、結人の脳内で「透き通った水色」の、微細な輝きとして認識された。それは、古川の「濁った茶色」や、現場の「蛍光の黄色」のような攻撃的な色ではない。
結人は、反射的に分かった。
『この人は……耳が聴こえない』
そして、だからこそ彼女は、結人の世界にノイズをもたらさない。彼女が発する感情は、その色だけが、静かに結人の感覚に届くのだ。
結人は、差し伸べられた手を見る。そして、初めて出会った「無音」の人間に対し、警戒ではなく、強い安堵と、かすかな好奇心を抱いた。




