残響の不協和音
結人は、優妃の感情を呼び覚ますために、わざと彼女の嫌うこと、あるいは彼女が怒るはずの行動を取ろうと試みる。
「優妃、見てろ! これもお前の『お気に入り』だったはずだ!」
彼は棚にある思い出の写真を、乱暴に床に投げつけた。しかし、写真立てが床に触れる寸前、世界が淡く発光し、写真は柔らかな羽毛のように音もなく着地する。
「どうしたの、結人くん? 掃除がしやすいように置いてくれたのね。ありがとう」
優妃は、彼が自分を傷つけようとしていることさえ認識できない。結人の「彼女を傷つけたくない」という根源的な本能が、彼の意思を裏切り、世界を強制的に「優しい形」へと書き換えてしまう。
再びスマートフォンが震える。画面には、監視カメラ越しに結人を嘲笑う九条のメッセージが表示される。
『無駄だよ、被検体A。君の脳はすでに、不快な刺激を「存在しないもの」として処理する回路を完成させてしまった。彼女を救いたい? ならば、君自身が「不協和音」になるしかない。』
「……不協和音だと?」
『世界が君の望み通りに動くなら、君が自分自身を徹底的に破壊すればいい。君の苦痛だけは、君の能力でも消し去ることはできない……いや、消し去れば「君」という観測者がいなくなるからね。』
結人は、キッチンにあった果物ナイフを手に取る。
「結人くん……? それ、危ないよ。置いて?」
優妃の声に、初めてかすかな「違和感」が混じる。彼女の管理された思考が、結人の自傷行為という「予測不能なエラー」に追いつけなくなっている。
結人は迷わず、自分の手のひらを深く切り裂いた。
鮮血が床に滴る。その「痛み」と「色彩」は、この白く塗り潰された世界において、唯一のリアルだった。
「あ、ああ……っ!」
優妃が短く悲鳴を上げる。
「優妃……見ろ。これが痛みだ。僕たちが生きていた、うるさくて、汚くて、残酷な世界の証だ……!」
結人の流す血が床に触れた瞬間、部屋の「静寂」にひびが入った。
消えたはずのマグカップの破片が、ノイズと共に床に一瞬だけ姿を現し、再び消える。優妃の瞳の奥で、色が、光が、激しく明滅する。
「痛い……? 結人くん、痛いの? 私、どうして、笑って……っ、うわああああ!」
彼女の喉から、ようやく「人間らしい」悲痛な叫びが漏れ出た。
それは結人が最も聴きたくなかった音であり、同時に、最も待ち望んでいた彼女の「生存報告」だった。
しかし、進捗率を示す数値は無情にも跳ね上がる。
『エラー発生。被検体Bの精神負荷、限界値を突破。
再構築を推奨します。』
『再構築』の警告が鳴り響くと同時に、アパートの壁紙が剥がれ落ち、その背後から無機質なグリッド線(設計図)が露わになります。結人は、泣き叫ぶ優妃の手を強く引き、崩壊を始めた「偽物の日常」から駆け出した。




