色彩のない微笑
図書館の事件から数日。結人の世界は、かつてないほど「平穏」だった。
街の喧騒は耳に届く前に霧散し、不快な感情のノイズも、視界を刺す光の乱反射もない。すべては、結人が無意識に望む「静寂」へと塗り替えられていた。
しかし、その平穏こそが、結人にとっての最大の地獄の始まりだった。
アパートの小さなキッチンで、優妃が朝食を作っている。
不意に、彼女の手が滑り、お気に入りのマグカップが床に落ちて砕け散った。
「あ……」
結人は反射的に思った。
(彼女が悲しまないでほしい。この静かな時間を壊されたくない)
その瞬間、結人の脳裏に白い閃光が走り、不可視の「波」が室内を駆け抜けた。
割れた陶器の破片は、結人の視界の中で一瞬だけ輪郭をぼかすと、まるで最初からそこになかったかのように消滅した。床には汚れ一つ残っていない。
「結人くん、ごめんなさい。私、せっかくのカップを……」
謝ろうとした優妃の言葉が、途中で止まった。
彼女の瞳から、困惑や悲しみの色が急速に抜け落ちていく。代わりに浮かび上がったのは、絵画のように美しく、そして一切の感情が籠もっていない微笑だった。
「……ううん、なんでもないの。私、何をしようとしてたんだっけ?」
優妃は、自分が大切にしていたカップを割ったことさえ、数秒前の「痛み」さえも、結人の能力によって上書き(消去)されてしまったのだ。
「優妃、今、カップが……」
「カップ? そんなの最初からなかったじゃない。それより結人くん、コーヒーのおかわりは?」
彼女の「琥珀色の温もり」は、今や結人の好みに合わせて調整された、一定温度の「記号」に成り果てていた。結人が「こうあってほしい」と願う理想の優妃が、目の前で完璧に演じられている。
「違う。そんな、人形みたいな顔をしてほしいわけじゃないんだ……!」
結人が彼女の肩を掴んで揺さぶる。しかし、優妃はただ穏やかに微笑むだけだ。彼が彼女の「動揺」を拒絶している限り、彼女は二度と取り乱すことさえできない。
その時、スマートフォンの通知音が、静寂を切り裂いた。
『第二段階:環境適応を確認。
被検体A(結人)による、被検体B(優妃)の精神的再構築。
"理想郷"への進捗率、72%』
結人は、戦慄した。
自分が彼女を守ろうとすればするほど、彼女の魂は削り取られ、彼専用の「静かな飼い犬」へと作り変えられていく。
「九条……っ! 貴様の仕業か!」
結人の叫びに応じて、部屋の壁が、天井が、まるで劣化したデジタルデータのようにノイズを吐き出し、歪み始める。
結人の怒りさえも、世界を破壊する「上書き」の力となって溢れ出していた。
「結人くん、どうしたの? そんなに怖い顔をしないで。私は、ここにいるよ」
優妃が、感情のない、澄み切った声で囁き、彼に抱きつく。
彼女の心音を聴こうと胸に耳を当てても、そこには以前のような「繊細なバイブレーション」はなかった。ただ、結人の心音と完璧に同調した、メトロノームのような正確で冷たいリズムだけが刻まれている。
結人は悟った。
彼女を「人間」として取り戻すためには、この心地よい静寂を自ら破壊し、彼女に「痛み」を、自分に「地獄のようなノイズ」を再び引き入れなければならないのだということを




