調律される静寂
図書館の重い扉を背後で閉めた瞬間、結人はその場に崩れ落ちた。
「……っ、音が……色が……!」
九条が放っていた漆黒のノイズを、自らの意志で無理やり「解体」した代償は、あまりにも重かった。アパートまでの帰り道、街灯の光は鋭い針となって網膜を突き刺し、遠くを走る車の走行音は巨大な鉄板を叩きつけるような轟音となって結人の脳を揺さぶった。
部屋の中に辿り着いても、苦痛は収まらない。結人の視界は、壊れたテレビの砂嵐のように激しく明滅し、あらゆる色彩が毒々しく混ざり合っては弾ける。彼の内側から溢れ出していた「純白」の光は、今やバラバラに砕け散った鏡の破片となり、彼自身の神経をズタズタに切り裂いていた。
「結人くん、動かないで。目も閉じちゃダメ。……私を見て」
震える結人の頬を、優妃の両手が包み込んだ。
その指先からは、ひび割れた結人の世界を繋ぎ止めるような、柔らかな「淡い琥珀色の温もり」が流れ込んでくる。
優妃は、祈るように、あるいは歌うように静かな声で囁いた。
「九条さんの黒に合わせちゃダメ。……外の音は全部捨てて。私の、この真ん中にある音だけを拾って」
彼女は結人の胸に耳を当て、彼の乱れた心音に自らの呼吸を重ねていく。優妃が発する繊細なバイブレーションが、結人の壊れかけた知覚の「波」を一つずつ捉え、穏やかなリズムへと整えていく。それは、荒れ狂う海を鎮めていく調律の儀式のようだった。
数分、あるいは数時間が経過した頃。
結人の視界を覆っていた不快なノイズが引き、世界がゆっくりと輪郭を取り戻した。
しかし、何かが決定的に違っていた。
これまで彼を絶え間なく苦しめていた「他人の感情」や「街の雑音」が、嘘のように消え去っていたのだ。今、彼の世界にあるのは、目の前にいる優妃の放つ色彩だけ。
「見えるよ、優妃。……君の音だけが、今、すごく綺麗だ」
結人の声には、これまでにない安らぎが混じっていた。一時的な「知覚の遮断」。それは、優妃というフィルターを通すことで彼が初めて手に入れた、真実の静寂だった。
優妃は少しだけ悲しそうに微笑み、結人の額に自分の額を寄せた。
「私……怖かった。結人くんが、あのまま遠いところに行っちゃうんじゃないかって。あの男の人は、あなたの力を引き出して、わざと壊そうとしたんだと思う」
結人は自分の掌を見つめた。今は静かだが、皮膚の下には、あの漆黒を解体した「鋭い何か」が、牙を隠して眠っているのを感じる。
「あいつは、僕を『サンプル』と言った。でも、君を守るためなら、僕は……」
結人の決意とは裏腹に、デスクの上に置かれたスマートフォンの画面が、音もなく青白く光った。
差出人不明のメール。そこには、事務的な、それでいて酷く冷徹な一行が記されていた。
『第一段階:上書き能力の覚醒を確認。調律者との共鳴、想定内』
二人の絆が深まることさえも、巨大な意志が描いた「実験」の筋書き通りであるかのような――。窓の外の夜闇が、さっきよりも深く、濃くなったように見えた。




