灰色の街、白の閃光
九条の背中が完全に消えた後も、現場には冷ややかな空気の檻が残っていた。
結人は激しい動悸を抑え込み、逃げるように立ち去ろうとする現場監督の島田を呼び止めた。
「……監督。あの男、九条は何者なんですか?」
島田はいつもの気さくな様子を一変させ、九条が置いていった書類を苦々しげに見つめていた。その指先からは、これまでの「退屈なグレー」ではなく、「深い懸念」を示す濃い藍色のノイズがどろりと漏れ出している。
「……あいつは保険屋じゃない。」
島田は周囲に誰もいないことを確認し、声を潜めた。
「『色彩心理学研究所』――表向きはそう名乗っているが、実態は一部の特権階級が出資している巨大なプライベート・ファウンデーション(財団)の調査員だ」
島田の手が、結人の肩を強く掴む。
「結人、あいつはお前を見に来たんだ。あの財団はな、世の中の『ノイズ』に過敏な人間や、常人には見えないものが見える人間……いわゆる『特異知覚者』を長年追っている」
「……特異、知覚者」
言葉が喉に張り付く。島田はさらに声を潜めて続けた。
「実はな、十年前、俺が別の現場にいた時もあいつが現れた。そこにはお前と同じように、耳を塞いで作業する男がいた。だがあいつが接触した後……その男は、ある日突然『色が消えた』と言い残して、精神を病んで失踪したんだ」
結人の背中を冷たい汗が伝う。
島田の話を聞き終えた結人の視界には、九条が残していった漆黒のノイズの残滓が、まるで「標的」を示すマーカーのように、街のあちこちに点在しているのが見えた。
『あいつは、人間をただのサンプルとしてしか見ていない。だから、あんなに空虚で汚いノイズを出すんだ』
結人は島田に短く礼を言うと、作業着のまま走り出した。
「監督、ありがとうございます。でも、僕はあいつのサンプルにはならない。……僕には、守らなきゃいけない『音色』があるんです」
ノイズの濁流を抜けて
街は夕暮れ時の喧騒に飲み込まれていた。
普段の結人なら、帰宅を急ぐ人々が発する「焦燥の赤」や「疲労の泥色」のノイズに酔い、その場に立ちすくんでいただろう。しかし、今の彼は違った。
『成分分析……これはただの生活音。これはただの光。……邪魔だ、どいてくれ!』
結人は脳内の「防御シャッター」を、受動的な盾から攻撃的な「メス」へと研ぎ澄ませた。自分に向かってくる雑多な色彩を次々と弾き飛ばし、解体していく。彼の視界には、もはや無駄な色は映らない。
ただ一点、図書館の方角から漂ってくる、あの九条の「粘着質な漆黒」だけを逆探知のビーコン(標識)として捉えていた。
走るにつれ、結人の感覚はさらに加速し、進化していく。
「優妃が危ない」という強い意志が、彼の「純白」を鋭いレーザーのように変えていた。
交差点で信号を待つ間も、彼は立ち止まらない。人混みの隙間を縫い、建物の影を跳ねるように進む。結人の内側から溢れ出す「純白」の波紋が、周囲のノイズを一時的に消し去り、彼が通る道だけが一瞬、完璧な静寂に包まれるかのようだった。
『優妃、今行く。君が教えてくれた通り、あの黒をただの「道具」として、情報として、俺が解体してみせる』
視界の先に、図書館の白い外壁が見えてきた。
しかし、その入り口付近には、周囲を威圧するような巨大な「漆黒の霧」が立ち込めている。九条の存在そのものが、建物全体のノイズを汚染し、歪めているのだ。
結人はスピードを緩めることなく、その漆黒の渦中へと飛び込んだ。




