婚約者が浮気相手と駆け落ちしたら、私の元に犬が来ました
犬の話です。
ネタバレ:犬は無事です。
それは雨が降り続ける朝のことだった。
バレントス伯爵家は私――アレシアの結婚式準備でまだ暗いうちから大忙しだった。私も眠い目をこすりながら婚礼衣装に着替え、髪を結ってもらう。夜には新居に移り、結婚相手であるリカルド・ロディール伯爵令息との生活が始まる……はずだった。
はずだったのに――
「リカルド様が、消えたですって……?」
慌ただしく駆け込んできた従僕の報告。同時に順調だったはずの私の人生が、ガラガラと足元から崩れ落ちる音がした。
*
一言でいえば、リカルドは浮気相手の男爵令嬢と駆け落ちしていた。自室に「真実の愛を見つけました」との書置きが残されていたらしい。
それだけではない。すぐに生活を始められるよう、新居に運んでいた私のドレスや家具も全て持ち出されていた。後にそれらはすべて売り払われていたことがわかる。浮気相手との生活費に充てられたのだろう。
それだけでも散々だというのに、リカルドの父であるロディール伯爵が「もう少しうまくやればいいものを」と言い放ったことで、私の父バレントス伯爵が大激怒。結納金の返却と慰謝料を求め、裁判を起こそうというのを、ロディール伯爵夫人が必死に泣き落とそうとし、その姿に激昂した母を必死に押さえる弟……という上を下への大騒ぎとなったそうだ。
一方、私はというと婚礼衣装もそのままに、リカルドの浮気相手の家を訪れていた。雨の中、馬車を降りた私は静かな屋敷を見上げた。
「ここが、リカルド様の浮気相手の家ね」
リカルドと浮気相手がいるはずないことはわかっている。けれど実家で同情の眼差しを向けられるよりは、何かしていた方がましだったのだ。
しかし扉を叩いても何の返事もない。業を煮やした侍女が扉に手をかけると、なんとあっさりと開いてしまった。おそるおそる中を覗き込んだ侍女は、すぐに青い顔で私を振り返った。
「お嬢様、誰もいません!」
「え、誰もってどういうこと?」
私も屋敷の中を覗き込むが、人の気配は全くない。調度品もない、がらんとした屋敷の様子に私は察した。
「逃げた……?」
ああ、と思った。
新居の家具やドレスの件も繋がる。これは私との結婚を利用した夜逃げだ。
男爵家はもしかしたら金に困っていたのかもしれない。その時に降って湧いたようなリカルドと男爵令嬢の浮気話。浮気相手側の男爵家がリカルドと協力し、金が手に入るタイミングで共に逃げたのだとしたら――
私は純白のドレスが皺になるのも忘れ、裾を強く握りしめた。
「なんで……私、全然気づかなかった」
リカルドとの婚約はお互いが十六歳になった時に決まったものだ。
それから二年の婚約期間。燃え上がるような恋愛感情はなかったものの、穏やかに愛を築いていけるものだと信じて疑わなかった。
それなのに、こんな形で裏切られるだなんて。
こみ上げる嗚咽をこらえようと、きつく唇を噛んだ――その時だった。
「……ン、クーン……」
どこからか雨の音に混ざり、小さく何かの鳴き声が聞こえてきた。勢いよく顔を上げた私の様子に、侍女が怪訝な表情を向ける。
「ど、どうなさいました?」
「声が……」
耳を澄ますと、それは屋敷の外から聞こえて来た。
「こっち……」
「あっ、お嬢様!」
私はドレスの裾が濡れるのも構わず、屋敷の裏に向かって歩みを進めた。慌てて侍女が傘を手に追ってくるが、濡れた土に足を取られてうまく歩けないようだ。
手入れされていない草とぬかるみを構わず進むと、やがて屋敷裏にたどり着いた。そこは壊れたままの家具や、異臭を放つ樽が放置されたままのごみ置き場だった。信じられない思いで眺める景色の中に、一枚のくたびれた茶色い毛布が地面に張り付いていた。
けれど次の瞬間、毛布がもそりと動いた。
「クーン……」
毛布の中から声が聞こえ、黒い二つの宝石が現れた。そーっと近寄るとぴょんと細い縄が毛布から飛び出し、パタンパタンと地面を叩き始める。
「あなた、もしかして……」
「ヒュィー、ピィー、ピヒィー……」
空気の抜けた笛のような音を立てながら、パタパタと縄の動きが激しくなる。
私は地面にしゃがみ込み、毛布をまじまじと観察した。濡れそぼった毛は土や何やらで茶色く汚れ、パタパタ動く縄とは別の縄で地面に繋がれているようだ。黒い宝石だと思ったものは、長いまつげに覆われている。
私はそこでようやくそれが毛布ではないことを確信した。
「あなた、犬!?」
「――っ、ワフ!」
怒り心頭で訴訟の準備を始めていた両親は驚いただろう。
純白の婚礼衣装を泥だらけにし、ずぶぬれになった娘が、異臭を放つくたびれた毛布を抱えて帰ってきたのだから。
しかも、婚約者の浮気相手の家から――
「あなた、本当はこんな色だったのね……」
「ワフッ!」
何回か湯を替えて風呂に入れると、犬は本来の毛色を取り戻した。茶色だと思っていた毛は、小麦畑のような美しい金色をしていた。たれ耳に丸い瞳。愛らしい顔立ちの子だ。
慌てて呼んだ獣医師によればこの子は大型に育つ犬種だそうだ。だが本来なら私が抱えられる重さではないらしい。体長はそれなりにあるものの、栄養状態が悪かったせいかすっかり痩せていて、あばら骨が浮き出てしまっていた。まずは温かな寝床と、柔らかな食事を……と言われ、様子を見ることになった。
「まさか犬まで置いて行くだなんて! しかもろくに食事もさせずに、心底けしからん! 何としてでも取っ捕まえて、あいつら全員に責任を取らせてやる!」
そう鼻息荒く宣言したのは、洗い立ての犬を自ら丁寧に拭き上げる父だ。
「同じ目に遭わせてやりたいところだけど、それだとこちらが捕まっちゃうわよねぇ」
「母上、そこは『うまくやればいい』んですよ。はははっ!」
そう言いながら犬用に準備した野菜や肉を食べやすくほぐしているのは、母と弟だ。三人とも実は犬が好きだったようで、犬から目も手も離せずにいる。
そんな犬を囲む三人の姿を見ながら、私は思った。
今回の駆け落ち事件によって我が家が受けた痛手は大きい。まず私は「婚約者に逃げられた令嬢」として社交界での噂の的になるだろう。今後の嫁ぎ先に難儀するのは火を見るより明らかだ。
両親も婚家の見る目の無さを指摘されるはずだ。弟にだってあれこれ噂が付きまとい、今後の縁談に差し支えがあるかもしれない。
それなのに私に気を遣いつつも怒ってくれるのは、ありがたい反面、申し訳なさが募る。
「……みんな、ごめんなさい。私がもっと早く気づいていれば、こんな風に迷惑をかけることもなかったのに」
私がぽつりと漏らした言葉に、三人は顔を見合わせると、すぐに首を横に振った。
「アレシアは気にしなくていい。全てロディールの奴らと、男爵家のせいなんだから」
「そうよ。あとはお父様とお母様に任せて、まずはゆっくり休みましょう」
「姉上にはもっと素敵な男性が現れますよ。僕はあんな男が義兄にならなくて、心底ほっとしているんですから!」
三人は気づかわしげではあるが、笑顔でそれぞれに励ましの言葉を伝えてくれる。こんなにも温かな家族に恵まれたのは、何よりも幸せなことなのかもしれない。
「……みんな、ありがとう」
私はそう笑顔で答えた。でも声が震えないようにするのに必死で、ちゃんと笑えていたのかはわからない。
そんな私に、犬が小さく「ヮフ」と鳴いた。
*
その晩、普段より早くベッドに潜ったものの私はなかなか寝つけなかった。
「ピヒュー、ピィー、ピィー……」
「……」
「ピュー……ピィー、ピィー、ヒュィー、ピィー……」
「……っ」
「キューン、ヒィー、ヒィー、ピヒューィ……」
「……もうっ!」
ガバッと飛び起き、部屋の扉を開ける。するとそこに現れたのは困り顔の侍女と、扉の前に伏せたまま動こうとしない犬の姿……
「も、申し訳ございません。何度どかしてもここに戻って来てしまって」
犬はやせっぽちの癖に力が強く、頑としてその場を動こうとしないようだ。
床にぺったりと伏せた犬は、おでこにしわを寄せて上目遣いに見つめて来る。
「……あなた、私の部屋で寝たいってこと?」
「キュゥーン……」
言葉を理解しているのだろうか。犬は私の問いかけに返事をするように鳴き声を上げる。
正直なところ、私は動物を飼ったことはないし、犬だって特段好きなわけでもない。打ち捨てられていた犬の姿がかわいそうで、ただ同情心だけで連れて来たのだ。逃げられたのは私も同じだから……。
「……今晩だけ、特別に良いわよ」
「お嬢様!」
侍女が驚いた声を上げた。
しかし犬はまるで私の言葉が伝わったかのように、すくっと立ち上がると流れるように部屋の中に入って行く。
「粗相はしないでよ。あとベッドには登らないこと。いいわね」
「ワフッ」
本当に言葉が通じているのだろうか。返事をすると犬はベッド下に丸くなった。やれやれと思いながら私もベッドに戻るが、身体はくたくたなのにやはり寝つけない。
どうしてもリカルドのことが頭に浮かんでしまうのだ。
婚約者としての二年間、彼はどんな思いで私と一緒にいたのだろうか。私は彼にとって問題のない婚約者だったと思う。特別に幸せになりたいわけでもなく、結婚して、子どもが生まれて……ごく普通の人生が送れたらそれだけでよかった。でもそれはリカルドにとっては不満だったのだろうか。
彼にとって私の存在は――
のしっ……
何度目かの寝返りを打った時、足の上に何かが乗った。頭だけを起こし足元を見ると、そこには想像通り犬が寝そべっていた。
「……ベッドには登らないでって言ったわよね」
しかし犬は目を閉じたまま、私の言葉が聞こえていないかのように伏せている。ちょいちょいとつま先を動かしてみるも、少し身じろぎするだけで動こうとしない。
「いい加減にしてよね。そもそもあなた、あの女の家の犬なんだから。かわいそうだっただけなのよ」
犬に関係はないとは頭ではわかっているものの、気持ちはうまく整理できない。つま先を動かし犬をくすぐり続けていると、ようやくモソと動く気配がした。
やっと降りるわね、とほっとしたのも束の間。犬はベッドを降りることはなく、私の横にぺたりと並ぶように移動しただけだった。
「~~~っ、もうっ!」
それ以上は何を言っても時間の無駄だ。私は犬に背を向けた。
背中に細身の犬の体が当たる。悔しいけれどほっとする温もりだ。この犬はあの雨の中、泥だらけになりながら何を思っていたんだろう。あのまま冷たくなっていてもおかしくはなかった。でも犬はきっと男爵家の面々が戻ってくると信じていたかもしれない。最低の飼い主でしかないが、犬にとっては大切な存在だったのかもしれない。
「私だって、大切に思っていたのよ……」
ぽつりと呟いた声は思いのほか震えてしまった。
思い返せばリカルドは私に不満を抱いていたのかもしれない。賑やかな場所が好きな彼と、静かに過ごしたい私は正反対。本や演劇の話はあまり興味がなかったようで、私はいつも彼の好きそうな流行の話題を探していた。楽しかったかと聞かれれば疑問が残る。けれど頑張ってでも家族になろうと思った、大切な存在だった――
「うっ……うう……」
堰を切ったように溢れ出した涙は止められず、どんどん枕に染み込んでいく。悔しい、情けない、恥ずかしい、悲しい。湧き上がる色々な感情が止まらない。けれど声を殺そうとするほど、しゃくりあげる音が大きくなってしまう。
その時、背中の温もりがすっと消えた。
ひたっ……
「――っ、冷た!」
涙で火照り始めた頬に、しっとり濡れた何かが触れる。
次の瞬間、
べろっ……ぺろ、ぺろ……
予想外の感触に、思わず涙が止まる。
起き上がった犬が私の頬を舐めていたのだ。きっと私を慰めようとしてくれているのだろう。けれど顔中舐められるのはできれば避けたい。
「ちょ、ちょっと。大丈夫、大丈夫だから……っ」
そう言って何度顔を背けて枕に埋めても、犬は諦めずに追って舐めようとしてくる。しまいには「顔を見せろ」とばかりに、枕を前足で掘り始めた。
がしがしと側頭部に犬の足が当たり、様子を探るためか湿った鼻を枕と顔の隙間にねじ込んでくる。このままでは掘られた部分の髪がもつれてしまいそうだ。
「~~っわかった! わかったから!」
根負けしたのは私の方だった。舐められる覚悟を決めて顔を上げる。
「――! フンフンフンフン……フシュゥゥゥ~」
「えぇっ!」
しかし犬は私の顔のにおいを満遍なく嗅ぐと、大きなため息をついて再び寝る体勢に戻ったのだった。驚きの声を上げるが犬は我関せず。しかも私の肩を枕にして、気持ちよさそうに目を閉じているではないか。
泣いていた私を心配したはずでは?
呆気に取られていると、耳元で小さないびきが聞こえ始める。もしかして慰めようとしてくれたわけではなく、自分の枕を探していただけなのでは……
「ふっ……本当になんなのよ……」
犬を連れて来たことをうっすら後悔し始めたものの、先ほどまでの張り詰めた悲しさは薄れ、思わず笑ってしまうほどの余裕ができていた。
そっと犬の背中に手をやると、柔らかな毛とぼこぼことした背骨に指が触れる。けれどその体は規則的に上下し、温もりを私に伝えてくれている。
「あなた、ここに来られて良かったわね」
くうくうという寝息を聞いているうちに、やがて私の意識は深い眠りの中に引き込まれていったのだった。
*
婚約者が浮気相手と駆け落ちした翌日は、すっきりと晴れた気持ちの良い朝だった。
すっかり崩れ落ちたと思っていた私の人生は意外と変わらず、これまで通りの穏やかな日常を続けていけるような気がした。
唯一変わったことといえば、犬が増えたこと。
連れて来られた犬は人によく慣れ、してはいけないことを一度教えればすぐに覚える賢い犬だった。よくごはんを食べ、骨ばっていた体はみるみるたくましくなり、毛並みにも艶が増した。
その一方で事件もどんどん増やしていった。私たちの食事を狙ってテーブル下によだれの水たまりを作ったり、虫のにおいを嗅いで泡を吹いて大騒ぎになったり、お風呂からせっけんだらけのまま脱走してきたり……。
しかしどれだけ事件を起こしても、犬が大きな黒い目をぱちくりさせて首を傾げると、誰しもが笑顔になってしまうという不思議な力も持っていた。
父はロディール家を相手取った訴訟の準備の合間にも犬と触れあうことを欠かさず、短期間の間に「犬伯爵」の名を欲しいままにしてしまった。
母は犬を置き去りにした男爵家の非情さを様々な場で語って歩く一方で、犬繋がりで出来た友人とお茶会を開いては楽しそうにしていた。弟もそのおこぼれに預かり、どうやら良い雰囲気になっている令嬢がいるらしい。
婚約者の浮気相手の家から連れ帰って来た犬だというのに、あっという間に我が家に欠かせない存在になっていた。
そして私は依然として何も変わらない生活を送っていた。まるで婚約者なんかいなかったかのように淡々と過ぎる毎日。
ただし犬が私のベッドの上で寝るようになったのは一つの変化だろうか……。
だが、犬が我が家にきて一ヵ月が経とうとする頃だった。
「ではロディの事を頼んだぞ」と、父が犬の頭を撫でながら、名残惜しそうに私を見る。
「ビビちゃん、お利口にしているのよ」と、母は犬の鼻先に軽くキスを落とした。
そして弟は「姉上を頼んだぞ、アレクサンドロス」と呼びかけながら、そわそわと髪型を気にしている。
三者三様の呼び名で呼ばれるようになっていた犬は、それぞれに「ワフッ」と返事をした。
今日は三人がそれぞれ外出するらしい。三人がいないのなら、ゆっくり読書でもしよう。読書のお供にはビスケットが良いかもしれない――
「――と思っていたのに、どうして私なのよ」
「ワフッ、ワフッ」
私はなぜか犬の散歩に駆り出されていた。
普段は三人のうちの誰かが従僕や侍女と共に犬の散歩に付き添うのだが、今日は誰もいない。そこで父が言ったのだ。
「アレシア、どうか頼む。ロディの散歩を任せられるのはお前だけなんだ」
「ビビちゃんが一番懐いているのはあなただし、あなたが一緒ならあの子も喜ぶわ。それに少し外の空気を吸った方がいいわよ。この一ヵ月、全然屋敷から出てないでしょう?」
と、母の追撃。
そして「確かに姉上の後ろ姿が、最近母上に似て来た気が――」と弟が首を傾げた所で、私には引き受ける選択肢しか残されていなかった。
我が家が建つ貴族街は治安も良く、女性だけで出歩いても安全な、落ち着いた雰囲気が漂っている。
私はしぶしぶ侍女と共に散歩に出たものの、久しぶりの外出は思いのほか刺激が多かった。日傘をさしていても、ずっと室内で過ごしていた私の目に街路樹の緑や雲ひとつない青空は眩しすぎる。
最初の夜以外、私がリカルドの事で涙することはなかった。犬には負けるが食欲もあるし、犬にベッドを取られながらもしっかり眠ることもできる。しかし人と会うことだけはなかなかできずにいた。事情を知る友人からもお茶会に何度も招待されているが、なかなか出向こうという気になれない。
リカルドがいなくなったことが自分のせいじゃないことはわかっている。
けれど怖かった。他人から自分がどう見えているのか、何も信じられなくなっていたのだ。
一方、リードを握る侍女の横で犬は嬉しそうに何度もこちらを振り向き、尻尾を揺らして意気揚々と進んで行く。どうもお気に入りの散歩コースがあるらしいことを、私は今さらながら初めて知った。
しばらく彼らについて行くと、正面から小型犬を連れた女性がやって来た。
「あら、ごきげんよう。今日はお嬢さんが一緒なのね」
「ご、ごきげんよう」
日傘越しに優雅なご婦人が微笑みを浮かべているのが一瞬見えた。きっとこの貴族街の住人だろうが、それが誰かはっきりわからなかったのは、私が無意識に日傘を下げて顔を隠したからだ。
足元では白い巻き毛の小型犬と、犬がふんふんとにおいを確認し合っている。
「シュシュちゃん、お友だちに会えてよかったわね」
ご婦人は愛犬に嬉しそうに語り掛けた。まさか友だちまで作っているなんて……。軽くショックを受けていると、ご婦人が続けた。
「毎朝ごきげんで散歩しているから、この辺では有名人……いえ、有名犬なのよ」
「そ、そうなのですか……」
そのご婦人の言葉通り、その後、私は犬の社交性に驚くこととなった。
見るからに上質な服を身に纏う紳士に、庭木を剪定している庭師、大貴族の屋敷の門番……。
通りかかる度に誰かしらに必ず声をかけられる。犬はその度に尻尾を振り、私は令嬢然とした挨拶を返す。
ようやく周りに誰もいない状況になった時、私は思わず犬に声をかけた。
「あなた、ずいぶん知り合いが多いのね」
「ワフ!」
犬は得意気に返事をしたものの、私はもう疲労困憊。
もう二度と犬の散歩になんか付き合わない、早く戻ろう――そう固く胸に誓った時だ。
「……ッ!」
侍女の前を進む犬の足がぴたりと止まる。同時に背後から唸り声が聞こえて来た。
「グルルル……」
振り返ると足下にいたのは、小柄な胴長犬だった。うちの犬とは大人と子ども程の体格の差がある。
胴長犬は鼻に深い皺をよせ、牙をむき出しながら唸っている。「あっ」と思った次の瞬間には、張り詰めた糸が切れるように胴長犬が激しく吠え始めた。
「――ッ、ギャンギャンギャン……!」
「ワフッ」
リードを引き千切ろうとするほどの勢いで胴長犬が吠えかかるのに対し、うちの犬は吠えられたので返事をした、と言わんばかりの余裕の雰囲気。相手にする気はないらしい。
同じように吠えかからなかったことに内心ほっとしながら、胴長犬のリードの先を辿る。
「――すみません! ジョゼ、吠えない。優しいお友だちだよ」
慌てた飼い主がしゃがみ込む。胴長犬のリードを引いていたのは、柔らかな小麦色の髪をした青年のようだ。
ジョゼと呼ばれた胴長犬は青年に抱え上げられると、あっという間に静かになる。青年の腕の中から勝ち誇ったようにうちの犬を見下ろしていた。
胴長犬を穏やかに叱る声に、私は無意識に日傘を持ち上げていた。
小麦色の長めの前髪の隙間から覗く青い瞳と視線がぶつかる。おおらかそうな雰囲気がうちの犬とよく似ている。優しそうな人だ。
思い返すとリカルドは、こんな風に穏やかに声をかけるタイプではなかったように思う。もし彼がこの場にいたら衝動的に声を荒げていただろう。
「あ、あの……っ、申し訳ありません! ジョゼは散歩に出始めたばかりで、なかなか外に慣れなくて……」
「えっ」
青年の焦った声にはっと我に返る。いつの間にか青年を見つめてしまっていたらしい。顔を赤くし、困惑したような青年の様子に急に恥ずかしさがこみ上げる。
「えっ、あ、ど、どうぞお気になさらず」
「すみませんでした。君も、驚かせてごめんね」
青年はうちの犬に声をかけると、私たちに会釈をして胴長犬を抱いたまま去って行った。
「まだ子犬でしたね」
「そ、そうみたいね」
侍女に声をかけられたものの、私はどこか落ち着かないまま、何となく日傘をくるりと回す。
日傘の端から覗く小麦色の尻尾が楽しそうに揺れていた。
*
数日後、私は父と共に王城に呼びだされていた。男爵家の失踪について、私からも話を聞きたいという申し入れがあったからだ。彼らの事情なんか知るはずもないとはいえ、今回は国王陛下も臨席するとのことで欠席は不可能。私は父の後に続き、重い足取りで謁見の間に向かっていた。
ちなみに犬は留守番だ。
一緒に散歩に出た日から、犬はなぜか私と共に出かけるのが当然と思い込んでしまったようで、なにかと私の元へリードをくわえて持って来る。
今日も私と父が出かける様子を見ていた犬は、自分も一緒に行くものだと思ったらしい。ついて来ようとする犬を、母と弟が必死におやつで誘っていた。
縋るような鳴き声をあげる犬を振り切り、王城に向かったのが数刻前。
王城に到着した私たちは、普段は立ち入ることのない城の奥に案内されていた。
城内の床が大理石造りに変わっていく。警備の騎士も、国王直属の近衛騎士団の制服を身に着けたものに変わり、緊張感が張り詰めている。私はすでに屋敷に戻りたい気持ちでいっぱいだった。帰りに余力があれば、父を誘って犬のおやつでも買って戻ろう……そんなことを考えて緊張感を紛らわせていた時だ。
「あっ」
小さな呟きにはっと顔を上げると、扉の前に立つ近衛騎士が驚いた顔で私を見つめていた。小麦色の髪に、きれいな青い瞳――
「あっ!」
胴長犬の……! ギャンギャンと響くジョゼの声が一気によみがえる。
けれどまさかあの青年が近衛騎士だったとは想像もしなかった……。しかも国王の移動に合わせて配置されるということはそれなりの立場。
――そして彼がここにいるということは、私が招かれた理由も知っているということ。
その事に私はひどくショックを受けた。
婚約者に逃げられたということは、なぜか彼には知られたくないと思ってしまったのだ。
私は何か言いたげな彼の眼差しを避けるように、軽く会釈をして目を伏せたまま先を行く父の背中を追った。
国王陛下を交えての聞き取りは穏やかに進行した。
終始、私の事情に気遣ってくれたのは申し訳なくも有難かった。ちょうど私と同じ年頃の王女がいることもあってか、リカルドと浮気相手に対しては批判的な印象を持っているようだった。そして何より男爵家に関しては、犬を置き去りにしていたという所で国王陛下の怒りが爆発した。どうやら国王陛下も犬に対しては並々ならぬ思いがあるらしい。
父と国王陛下の犬談義で予想よりも長引いた聞き取りは、陽が傾き始めた頃にようやく終わった。
「すっかり話し込んでしまったな。ロディが待っているし、早く戻ろうか」
「陛下と犬の話ができてよろしゅうございましたね。でも、まさか陛下もあれほど犬好きとは知りませんでした」
そんな会話をしながらぐったりと部屋を出ると、もうあの青年はいなかった。先に退室した国王陛下に合わせて彼も移動したのだろう。顔をあわせずに済んで良かったという気持ちと、ほんの少し残念な気持ちが入り混じる。
いや、彼に会いたかったというわけではない。彼に漂う犬の雰囲気を感じたかっただけだ。
けれど、馬車に乗り込もうとした時、私たちを呼び止める声が響いた。
「バレントス卿!」
その声に弾かれたように振り返ると、小麦色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる青年の姿が見えた。
私たちの足が止まったのがわかると彼はパッと顔を輝かせた。後ろにぶんぶん振り回される尻尾が見えたような気がしたが、当然気のせいで……。
だがそこで、駆け寄る彼の姿を認めた父が声を上げた。
「お、君はジョゼちゃんの!」
「お父様、お知り合いでしたの?」
「ああ、散歩中に何度か会ったことがあるんだ」
驚くことに父は彼と犬繋がりですでに顔見知りだったらしい。さすがは犬伯爵……。驚いていると、息を切らした青年が私たちのもとにたどり着いた。
「ネオ・フロッドと申します。ジョゼがいつも申し訳ありません」
「おお、そうでしたか。あなた様がフロッド閣下の! これはご挨拶が遅れまして、大変失礼しました」
彼の名を聞いた父の姿勢がピッと正される。不思議に思っている私の耳元に、父が早口で囁いた。
「フロッド公爵閣下の甥御さんだ。先日、公爵家の後継者として養子に入られた」
つまりこの青年――ネオは次期フロッド公爵。私たちよりも格上の身分。私も慌てて父に倣い、姿勢を正した。けれどネオは穏やかに微笑むと首を横に振った。
「いえ、僕こそ公爵家での生活に慣れることに必死で、皆様にご挨拶もできずに申し訳ありませんでした」
そう言い、手にしていた紙袋を私たちの前に差し出した。
「会えたらこれをお渡ししたいと思っていたんです」
「これは?」
「犬のおやつです。うちの犬が気に入っていまして」
「おお、なんと!」
父の声が一段階大きくなり、犬伯爵の表情に変わる。
「ジョゼは警戒心が強すぎるようで、なかなか友だちができなくて。ぜひ、うちのジョゼと仲良くなっていただけたら嬉しいです」
「そうでしたか! それならうちのロディはぴったりかもしれませんな」
父とそんなやり取りを交わした後、ネオは嬉しそうに会釈をして去って行った。一瞬、去り際のネオと視線がぶつかる。慌てて逸らすと満足げな父と目が合った。
「覚えておきなさい、アレシア。犬好きに悪い奴はいない」
「え、ええ。わかりました……」
そんなわけはないだろうと思いながらも、ひとまず頷いておく。
ネオにもらった紙袋には、干し肉と固いビスケットがたっぷりと詰められていた。父は「しっかりお返しをしないといけないな」と新たな犬友との出会いに張り切っていた。
しかしその父が、翌日からしばらく領地に向かうことになろうとは――
*
領地にいる執事から届いた手紙の内容はわからない。けれど父が一目見るなり飛び出していったのだから、相当重要な内容だったのだろう。
父が家を離れて一週間。領地の父からは何通もの手紙が届いた。そのどれもが犬が寂しがっていないか……とか、犬のリードにピッタリの素材を見つけた……だの、全部犬に関わることだった。
一方、父の心配をよそに犬は元気いっぱいだ。毎日よく食べ、よく遊び、よく眠り、よく出し……そして今日もまた私は散歩に駆り出されていた。
でも、少しだけ変わったことがある。
「本当にお一人でよろしいのですか?」
「ええ今日も一人で行ってみるわ。だいぶみんなと顔見知りになったし、犬の扱いにも慣れて来た気がするから」
「ワフッ!」
心配そうな侍女に、犬が「大丈夫だ」とでも言うように返事をする。
この数日、私は侍女をつけずに散歩に出るようになっていた。犬の散歩に付き合わされるようになってから、散歩途中で出会う人々と世間話が出来るくらいには仲良くなっていたし、体力が戻ってきたのか外に出ることも億劫ではなくなっていた。
それにもしジョゼとネオに会ったら、もらったおやつのお返しもしなければならない。そう考えると私と犬だけの方が気楽な気がしたのだ。なぜかはうまく説明できないけれど……。
とはいえ、あの日以来ジョゼに会えていない。念のためにお返しの品はいつも持ち歩いているものの、渡せないままでは落ち着かない。
早く渡してしまいたいのに……。そんなことを考えていると、ピタリと犬の足が止まった。犬はキョロキョロと辺りを見回しはじめる。
「どうしたの?」
「ワッフ!」
声をかけると小さく犬が鳴いた。同時に遠くから「ギャンギャン」と犬の吠える声が聞こえて来た。
この声、もしかして――その場で待っていると、背後から犬の声がだんだん近づいて来る。次の瞬間、曲がり角からひょいっと胴長犬が姿を現した。続いてピンと張ったリードに引っ張られるように、息を切らしたネオが現れる。
「ジョゼ、急にどうし――あっ、こんにちは!」
「ギャンギャンギャンギャン!」
「ごきげんよう!」
「ギャンギャンギャンギャン!」
「ジョゼ、それじゃ聞こえないよ」
声を張るも足下で興奮気味に吠えるジョゼの声にかき消されてしまう。ネオがやれやれと言ったふうにジョゼを抱き上げると、途端に静寂が戻って来た。
「いつもすみません……今日はお一人なんですね」
「は、はい……だいぶ散歩にも慣れたので」
「そうでしたか」
青い瞳が柔らかく細められる。なんだかくすぐったいような気持ちだ。ほわほわした気分のまま、持って来ていた包みを渡す。
「あの、先日はおやつありがとうございました。会えたらお礼をしようと思っていて」
「これは……」
「ロープを編んだおもちゃです。うちの庭師がそういうのを作るのが得意で……」
おやつのお返しに準備したのは犬用のおもちゃだ。ロープを編んで太くしたものと、球状に丸めたものを準備した。うちの犬も良く遊んでいると伝えると、ネオは顔を輝かせた。
「嬉しいです! 仕事の日はあまり構ってあげられないので助かります」
ジョゼもしきりに包みのにおいを嗅いでいる。吠えていないので、ひとまず合格というところだろう。
「気に入っていただければ嬉しいです。では、私たちはここで――」
「あ!」
これで目的は達成できた。飽きて地面に伏せてしまっている犬を起こしながら、先に進もうとするとネオが声をあげた。
「名前、聞いていいですか。すっかり聞くタイミングを逃してしまって……」
「名前?」
「クゥ~?」
ネオの問いかけに犬が不思議そうな声を上げ、首を傾げた。
そういえば……とハッと犬を見る。この犬はロディやらビビちゃんやらアレクサンドロスやら……いろいろな名前で呼ばれているものの、私は名前を決めていなかった。名前をつけることで、負けを認めるような気すらしていたからだ。
期待に満ちた黒い宝石のような瞳と視線がぶつかる。かといって今ある三つの名前のどれかを選べば、後々三人が揉めることは必至……ここは正直に答えた方が良いだろうと、私は腹をくくった。
「あの実は、この子色々な名前で呼ばれているのですが、私は特に決めていなくて……」
「あ、えっと、それもなんですが……そうじゃなくて」
「え?」
思いもよらぬ返答に勢いよく顔を上げる。するとジョゼに頬を舐められながら、顔を真っ赤にしたネオがまっすぐに私を見つめていた。
「あなたの名前が知りたいんです」
*
ネオは元々辺境伯家の次男で、自然豊かな土地でのびのびと動物に囲まれて育ったらしい。
将来は兄を支える形で、騎士として辺境伯家に仕えるつもりだったそうだ。しかしどんな運命のいたずらか、伯父の公爵家に養子として引き取られることになった。
近衛騎士としての任も得たものの、慣れない王都での生活はやはり負担が大きかった。そこで、塞ぎがちになっていたネオを心配した養母が迎えたのがジョゼだそうだ。
お返しを渡した日から一週間が経った。
あの日、しどろもどろになりながら自分の名前を名乗った私に、彼は次の非番の日を教えてくれたのだ。今度は一緒に散歩しよう――と。
「少しずつ慣れてくれればいいわね」
「ワフッ!」
私の前を行く犬が尻尾を大きく振って答えた。何も知らない犬はいつものように意気揚々と歩みを進めているが、私は一歩進むごとに心臓の音が大きくなっている。
ネオと約束している……それは家族にも言い出せず、犬と私だけの秘密だった。
もちろんネオに他意はなく、犬友だちとして誘ってくれたはずだ。そうでなければ困る。婚約者に逃げられてしまう私なんかが期待していいはずがないのだから。
「……って、あれ?」
「クンクンクンクン……」
「あなた、この道来たことないじゃない。さあ戻るわよ」
色々考えていたせいか、私は犬がいつもと違う道を進んでいることに気づかなかった。気づけば人目のない裏道に入り込んでしまっていた。犬は何かのにおいにつられたのだろう。しきりに地面のにおいを嗅いでいる。なかなか歩き出さない犬に、私はリードを引いた。
「ねえ、ちゃんと歩いてちょうだ――」
「アレシア!」
「――っ!?」
突然呼ばれた名前。
思い出さないようにしていたその声に、私は弾かれたように振り向いた。
「リ、リカルド……」
そこに立っていたのは無精ひげに覆われたリカルドだった。
しかしその姿は私の記憶の中にいる彼とはだいぶ変わっていた。身なりもだらしなく、髪も乱れている。やつれた頬と目の下に刻まれた濃い隈に、彼が幸せとは言えない生活を送っていたことが伝わってきた。
「アレシア、久しぶりだね。なんだか前よりも綺麗になったんじゃない?」
そう言って心底嬉しそうに笑う彼の姿に寒気が走る。私は思わず犬を後ろに隠した。
今日に限ってどうしてこんな裏道に入ってしまったんだろう。気を遣うとか考えずに、侍女をつけて出かけてくればよかった。自然と震え出す膝に後悔ばかりが募る。
どうにかして逃げ出さなければ……。そんな私の焦りに気づいているのかいないのか、リカルドはうっとりとした表情で話し続けている。
「君にずっと謝りたかったんだ。一度は間違ってしまったけれど、やっぱり俺には君しかいないんだってわかったよ。さみしい思いをさせてごめん。これからはずっと一緒にいられるからね」
リカルドはまるで私が胸に飛び込むのを待っているかのように手を広げた。その口元にはねっとりとした笑みが浮かんでいる。まだ自分が特別な存在であると信じて疑っていないようだった。
じりじりと近づいてくるリカルドに私は思わず後ずさりする。しかしリカルドは構わず私に手を伸ばした。
「嫌っ! こっちに来ないで!」
私の口から拒絶の言葉が飛び出した。その瞬間――
「バウッ! ガウッ!」
「なんだこの犬!」
「グルルルルル……」
私の背後からそれまで大人しかった犬が飛び出した。鼻先に皺を寄せ、牙をむき出しにして喉の奥から唸り声をあげている。おだやかでいつも笑顔だった犬が、獰猛な狼のようだ。
一方で犬に睨まれたリカルドの顔から笑みが消える。
「おいアレシア。この犬、退けろよ」
「バウバウッ!」
しかし犬に吠え返され、リカルドの頬が怒りに震えるのがわかった。
「なんだお前! 俺の邪魔するならぶちのめしてやる!」
「止めて!」
目を血走らせたリカルドが犬を足蹴にしようと足を大きく振り上げる。私は思わず犬に覆いかぶさった。その時「ギャンギャン」と、あの鳴き声が聞こえた気がした。
「――ジョゼ、行けっ!」
「ギャンギャンギャン!」
掛け声と共に、激しい鳴き声が裏道に響く。顔をあげると牙をむいた胴長犬がリカルドの足の周りをグルグルと、目にもとまらぬ速さで駆け回っていた。
「な、なんだ! くそっ! ちょこまか動きやがって!」
「ギャンギャンギャンギャン!」
「バウバウッ! ワフッ!」
私の腕の間から犬も負けじと激しく吠えたてる。
「黙れ! この――」
リカルドが声を張り上げた瞬間、彼の顔がぐにゃりと歪んだ。
「いだだあああ!? は、放せぇっ!」
悲鳴をあげたリカルドが膝から崩れ落ちる。その背後には彼の左腕をねじり上げるネオの姿があった。
「アレシアさん、お怪我はありませんか!」
「ネ、ネオ様」
「間に合ってよかった……!」
肩で息をするネオの小麦色の髪は乱れている。ネオの押さえ込む力が相当なものなのか、地面に伏せたリカルドはうめき声を上げることしかできないようだった。
助かった――けれどホッとした途端、全身に震えがこみ上げた。激しい恐怖心に呼吸が浅くなる。もしネオが来てくれるのが、あと少し遅かったら……。
「アレシアさん!」
「――っ!」
突然、強く呼ばれた名前にびくっと肩が揺れた。きれいな青い瞳がまっすぐに私を見つめている。
「もう僕がいます。だから心配はいりません」
「あ……」
「この子たちも無事です」
それまで吠え続けていた犬たちも、荒い息を吐きながらも静かに私に寄り添ってくれている。
「クゥン」
「――いたっ!」
その時、顎に犬の頭がごちんと当たった。けれど犬は頭突きをするつもりではなかったようだ。すぐに同じように犬が頭をすり寄せて来た。ふわふわとした小麦色の毛が鼻先をくすぐる。腕の中に視線を戻せば、黒い宝石のような瞳に私の顔が映っていた。
「よかった……」
「ワフッ」
気づかないうちに私の目からぽろぽろと涙がこぼれ出していた。
犬は一度ぺろっと私の顔を舐めると、その後はそっと私に身を寄せてくれていた。
*
リカルドは男爵令嬢と共に逃げたものの、彼女の恋人だという人物が現れ、男爵令嬢と有り金を奪われたそうだ。いわゆる美人局だったのではないかと見られている。
王都に戻って来たのは、私が自分を待っていると思っていたかららしい。尋問官に「どうして浮気した挙句、結婚式当日に駆け落ちするような相手を待っていると思うのか」と問われると、「アレシアは俺を愛しているから、全て許してくれるはずだ」と胸を張ったという。尋問官もこれには頭を抱えるしかなかっただろう。
そして男爵家に関しては父がしっかりと仕留めてくれた。
あの日、領地から父に届いた手紙に書かれていたのは「最近、新たに住みついた一家が不審だ」という内容だった。男爵家の面々は明らかに一般では手に入らない品物を質屋に持ち込み、金に換えようとしたらしい。
見慣れぬ顔と不審な品物を怪しんだ質屋から情報提供された執事が父に報告。その品物にピンと来た父が自ら取り押さえにいったそうだ。置き去りにした犬の事も含め、必ず自分の手で捕まえてやろうと思っていたのだろう。
窃盗を皮切りに、リカルドと男爵一家には次々と罪状が積み上げられていった。
最終的な裁きを下すのは国王陛下だ。特に陛下の心証は最悪で、通常よりも重い罪が課せられるだろうと噂されていた。
ロディール家は嫡男を失いたくない一心からリカルドの無罪を主張していたものの、陛下の様子を聞くなり一変。巻き添えを恐れ、全ての訴えを取り下げた。さらには我が家への賠償も全て受け入れたという。
――それから一ヵ月後。
久しぶりのコルセットの苦しさに辟易しながら、私はフロッド公爵家主催の夜会に出席していた。隣には正装姿のネオが立っている。
「よかった。じゃあ正式にあの子の所有権を得られたんですね」
「ええ。男爵家から手放さないと言われた時は信じられませんでしたが、無事にうちの子になりました」
ネオのエスコートを受けながら、私は屋敷でおなかを丸出しにして寝ているであろう犬の姿を思い浮かべた。
なんと男爵家は最後の最後に、置き去りにした犬の所有権を主張し始めたのだ。国王陛下が犬好きと知り、自分たちにも犬がいると主張することで、少しでも心証を良くしようと考えたのだろう。
「けれどかえって陛下の怒りを買うことになった、と。自業自得ですね」
「ええ、そう思います」
そう呟くネオはうんざり顔だ。私も彼と同じような顔をしていたはずだ。
気を取り直すように、私はちらりと横を見上げた。今夜のネオは小麦色の髪をきっちりセットし、形の良い額と青い瞳がよく映えている。元々整った顔立ちのネオが、普段よりもいっそう輝いて見えるのは、今夜私たちの婚約を発表するからかもしれない。
ネオから思いを告げられたのは、リカルドの襲撃から少し経った頃だ。私とリカルドの間に起きたことを聞いてもネオの気持ちは揺らがなかった。
――あなたの隣にいたいんです。一緒に隣を歩いていきたいんです。
真っ赤な顔でそう告げてくれたネオに、驚きながらも私はすぐに頷いた。
もちろん相変わらずジョゼは激しく吠えていたし、私の隣には機嫌よく尻尾を振る犬がいた。私の視線に気づいた犬は額に皺をよせ、上目遣いに私を見上げて笑っていた。
「ネオ様」
「うん?」
小さく呼びかけると彼は眉を少し上げて、私に柔らかな眼差しを向けた。穏やかな笑顔。まるであの子のような表情が嬉しくて、私も自然と笑顔になる。
私は少し背伸びをして、ネオの耳元に囁いた。
「今さらなのですが、あの子の名前を決めたんです。あの子の名前は――」
*
ぼくは犬。
今はロディとか、ビビちゃんとか、アレクサンドロスとか呼ばれているけど、本当の名前は「犬」。
小さい頃に「犬を飼っていると金持ちそうだ」ってことで、前のおうちにもらわれたんだ。
でもあの人たちはぼくのことが嫌いだったみたい。はじめはおうちの中にいれたのに、だんだん外に出されることが多くなっていった。
雨が降って、汚れちゃったらもっと嫌いになったみたいで、もう二度と家の中には入れてもらえなかった。
ごはんもいじわるなおばさんがくれる、ほんの少しだけのパンと野菜だけ。お腹がすいて、力が出なくて……だからぼくはずっと寝ていたんだ。
そしたらある日、家の中が急にうるさくなった。かと思ったら静かになって……あの人たちのにおいもしなくなって、ぼくは置いて行かれたんだってわかった。
きたなくて暗い場所につながれたままで、また雨も降ってきて、寒くて、冷たくて。
ぼくはきっとこのままずっとこのままなんだ――そう思って、最後に思い切って言ってみたんだ。
さみしいよ。だれか来て。ぼく、ここにいるよ……って。
そうしたらなんか良いにおいがしたんだ。
温かくて、優しくて、でも悲しそうなにおい。
だれだろうって目を開けたらね、いたんだ。
真っ白なきれいな服を着てる、とってもきれいな人が。
だから僕、女神さまが来たと思ったんだ。ほんとはね、もう死ぬのかなって思ったんだ。
女神さまは服が汚くなっちゃうのに、ぼくを抱っこしてあの家から連れ出してくれた。
そしたらなんと女神さまは人間で、人間の家に連れて帰ってくれた。
ぼくは助かったんだ。
お父さまさんは「ロディは世界一かしこい」って言ってなでてくれる。
お母さまさんは「かわいいかわいいビビちゃん」ってキスしてくれる。
子分は「アレクサンドロスは最高にたよりになるな」ってうれしそう。
でもぼくが世界一好きなのは女神さま。
命の恩人だし、いっしょに寝てくれるし、さんぽもいっしょに行ってくれる。
友だちもたくさんできたんだ。
ああ、でもあのジョゼとかいう、長くてうるさい犬は気に入らない。友だちになりたいくせに吠えてくるんだもん。
でもネオに会えると女神さまが嬉しそうだから特別にゆるしてあげてる。
それにネオ、なかなか見どころのあるやつだよ。
たぶんあいつぼくと同じくらい強いもん。
悪いやつが現れたときも、あっという間に倒しちゃったし。
でもさ、かしこくてかわいくてたよりになるぼくは知ってるんだ。
ぼくは犬で、女神さまは人間。
犬は人間よりも強い。
でも人間にはなれない。
ぼくだけじゃ女神さまを守れないことがあるってことくらい、ぼくは知ってるんだ。
ジョゼに聞いたら、どうやらネオも女神さまを守りたいんだって。
だから悔しいけどあいつに隣を少しだけゆずってあげる。
ぼくは女神さまが世界で一番大好きだからさ。
ぼくは犬。
ロディとか、ビビちゃんとか、アレクサンドロスとか呼ばれているけど、本当の名前は「犬」
女神さまとネオとジョゼと、お父さまさんとお母さまさんと子分と、それからそれから……とにかく、みんなで一緒にいるのが大好きなんだ!
胴長犬、愛……
大型犬、愛……
すべての犬が幸せになりますように。