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第三話 街再訪 ― 枕と静寂と屋台の音

森を出る朝は、少しだけ気が張る。

晴人は寝袋の中で身じろぎし、まだ薄暗い木漏れ日の中でひとつ息を吐いた。枕の柔らかさが、いつもの冷たい土とは違う感触を伝えてくる。


「……いい。これ、いいわ」


小声で呟くと、まだ新品特有の香りが微かに鼻をくすぐった。先日手に入れたその枕——森綿もりわたで作られた高級寝具——は、ユルネルのギルドで受け取った仕事の報酬でもあり、晴人の生活を一段階引き上げる品でもあった。

とはいえ、枕ひとつで暮らしが完結するわけではない。今は床に敷くものも薄い寝袋のままだし、掛布も薄手の布切れ一枚。あれほど森での暮らしに満足していた晴人も、最近は夜の冷え込みに少し耐えがたさを覚えていた。


「……掛布団、ほしいな」


呟いてみて、自分で苦笑する。

森で一人暮らしを始めてから、ずいぶん人間的な欲が戻ってきた気がする。最初はただ寝転べる場所さえあればよかった。けれど今は、眠りの質だとか、起きたときの首の角度だとか、そんな細かいことまで気になるようになった。


それもこれも——この枕のせいだ。


ふわりとした森綿の感触は、まるで体を包み込むようで、寝返りを打つたびにゆるやかに形を変えて支えてくれる。

最初は贅沢だと思ったが、いざ使い始めると、もう以前の石ころみたいな寝袋には戻れそうにない。


「よし……今日は街に行くか」


久しぶりに重い腰を上げ、晴人は寝袋から抜け出した。

森の朝の空気は澄んでいて、木々の葉から落ちる露がきらりと光っている。焚き火の灰を軽く片づけ、荷物を背負い直す。手には例の枕——もう手放す気などない愛用品——がしっかり抱えられていた。


道中、晴人は思い出していた。

ギルドで受付嬢が言っていた言葉。

「この街の名前? ああ、“ユルネル”ですよ。旅人さん、記録に書いておきますね」

あのときは何気なく聞き流したが、今思えば、それが初めてこの街の名を知った瞬間だった。


「ユルネル……か。なんか、ゆるい名前だな」


森の緑の間を抜けながらつぶやくと、口元に小さな笑みが浮かぶ。

彼にとって街の名前なんて、今までどうでもよかった。用があるときに立ち寄って、必要なものを買って、さっさと森に帰る。それだけだった。だが今は違う。寝具という文明の香りを知ってしまった晴人にとって、ユルネルは「ただの通過点」ではなくなっていた。


昼前には街の門が見えてきた。

相変わらず石造りの高い壁と、頑丈そうな鉄扉。その前には数人の商人と旅人が並び、検問を受けている。


晴人は列の最後尾に並び、静かに順番を待った。

先頭で門番が誰かと話している。聞き覚えのある低い声だ。


「お、あんた……この前の昼寝野郎じゃねぇか」


予想通りだった。門番のグレインだ。

以前、晴人が日向で昼寝していたのを見て呆れていた男である。今日は少し汗をかいていて、陽気に笑っている。


「また来たのか? あれから森で冬眠でもしてたんじゃねえのか?」


「まあ、そんな感じです。今日は寝具の買い足しに」


「寝具? お前……まさかまた“あの枕”買ったギルドの依頼の続きか?」


「いえ、もう受け取りました。今度は掛布とか敷布とかを探そうかと」


「……本格的に森を家にする気だな、こりゃ」


呆れ半分、感心半分の声。

晴人は軽く会釈して、通行証を見せた。グレインはそれを確認し、ニヤニヤしながら扉を開ける。


「ユルネルへようこそ、“昼寝の賢者さん”」


「その呼び方はやめてください」


軽口をかわして門をくぐる。

昼のユルネルは人で賑わっていた。石畳の大通りには露店が並び、焼き串やパン、果実水の香りが入り混じって漂ってくる。商人たちの声、子どもの笑い声、馬の蹄の音——それらが交錯して、街に独特の生命感を生んでいた。


晴人は少し眩しそうに目を細める。

人の多い場所は苦手だが、それでもこの喧噪にはどこか懐かしさがある。

あの世界——地球で暮らしていたころの、商店街のざわめきを思い出すのだ。


まず向かうのは寝具を扱う店だ。

ギルドの資料で見た通り、ユルネルの北区には「リネア織工房」という老舗があるという。森綿製品の卸先としても知られており、職人たちが丹念に織り上げた布地は貴族の間でも評判らしい。


「寝具専門店なんて、前の世界でも行ったことないのに……」


ぽつりと呟きながら店の前に立つ。

木の看板には柔らかな筆致で「リネア」と書かれ、店先には白と淡い茶の布が風に揺れている。

店に入ると、軽い鈴の音。香草のような爽やかな匂いが鼻をくすぐった。


「いらっしゃいませ。あら……旅の方ですか?」


出迎えたのは銀髪の女性だった。年の頃は三十代前半くらい。淡い青のエプロンをつけ、微笑んでいる。

晴人は軽く頭を下げて言った。


「はい。森で暮らしていまして。前にギルド経由で森綿の枕を買ったんですが、今度は敷布と掛布を探してます」


「まぁ、森綿の枕を? でしたら、リネアのものですね。あれはうちの主力製品なんですよ」


どうやら直営店らしい。女性は目を細め、店の奥に案内した。

並んでいるのは淡い色の布ばかり。柔らかな白、霞がかった青、森の影を思わせる緑。どれも触れるだけで空気が抜けるような軽さがあった。


「森綿は、繊維がとても細くて軽いの。けれど、保温性は抜群。冬でも夜の冷えを気にせず眠れますわ」


「へぇ……確かに、枕だけでもずいぶん変わりました。あれがなかった頃の自分には戻れませんね」


「ふふ、皆さんそう仰るんですよ。では……こちらなど、どうです?」


差し出されたのは、淡い灰色の布地でできた掛布団。

光の角度で柔らかく色が変わる。触れると手のひらが少し沈み、内側からほんのりと温もりが伝わってくるようだった。


「……これ、ちょっと高そうですね」


「品質は保証します。ですが、お値段もそれなりに。森綿の純度が高いものほど、採れる量が少ないんです」


晴人は唇を噛む。財布の中身を思い浮かべた。

ギルドの報酬で手にした銀貨は、ほとんどが生活費に消えかけている。残るはわずかに数枚。


——けれど、買う価値はある。


そう思わせるほどの柔らかさだった。


「すみません、取り置きできますか? 少し考えたいんです」


「ええ、もちろん。ではお名前を——」


女性が帳面を開いたとき、晴人は一瞬言葉を詰まらせた。

異世界に来てから自分の名前を正式に名乗る機会は少ない。

だが、迷う理由もない。


「綿守……晴人です」


「まあ、綿守さん。綿を守るなんて素敵なお名前。森綿と縁がありますね」


彼女の柔らかな笑みに、晴人も思わず照れ笑いを浮かべた。


外に出ると、日は傾き始めていた。

街角では屋台が立ち並び、夕食の匂いが漂ってくる。

串焼きの香ばしい香り、スープの湯気、甘い果実酒の匂い。

その中に、以前食べた「かき氷屋」の声も聞こえた。


「おーい! 昼寝の人! また来たのか!」


氷魔法で氷を作る青年が、手を振っていた。

晴人は笑って手を振り返す。


「今日は金がないんで、見るだけですよ」


「またそんなこと言って! こないだは“森の冷気”の話、面白かったぜ。今日は新しい蜜もあるんだ」


「……蜜?」


森果しんかの蜜。ほら、甘い香りがするだろ?」


差し出された器から漂う香りに、晴人の鼻がくすぐられた。

ほんの少し焦げたような、木の実の香り。

思わず喉が鳴る。


「……一口だけ。見本で」


「へいよ。サービスな」


スプーンで掬った氷が口の中で溶ける。

ひんやりとした冷気が喉を通り、代わりにふわりとした甘みが残った。

森綿の香りにも似た、どこか懐かしい味。


「……やっぱり、ユルネルって不思議な街だな」


ぽつりと呟いたその言葉は、誰にも届かなかった。

けれど晴人の胸の奥では、確かな余韻を残した。

森に戻る前にもう少しだけ、この街を歩いてみよう。

そう思いながら、彼は小さく伸びをした。


ユルネルの街を歩くうちに、空の色は少しずつ群青へと変わっていった。

露店の明かりが一つ、また一つと灯りはじめ、行き交う人々の笑い声が遠くまで響く。

昼間は賑やかだった通りも、今はどこか温もりを帯びた静けさに包まれていた。


晴人はその景色を眺めながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。

異世界に来てからというもの、こんなふうに「夜の街」をゆっくり歩くのは初めてだった。

森の中では陽が沈めば焚き火を囲んで休むだけ。誰かの話し声や、遠くの灯りを見つめる時間などなかった。


「……こういうのも、悪くないな」


ポケットに手を突っ込みながら、ぽつりと呟く。

風が頬をなで、枕を包んだ布袋が腰に当たって揺れた。

あの森綿の枕。いまや彼にとって、それは森と街をつなぐ小さな“絆”のような存在だった。


通りを抜けると、ギルドの建物が見えてきた。

二階建ての石造りで、昼間は冒険者たちの喧騒に満ちているが、夜は窓から漏れる明かりがやわらかく道を照らしている。

晴人はその前で立ち止まり、少しだけ考えた。

——このまま森へ帰るか、それとももう一晩、街で過ごすか。


「森綿の掛布団、取り置きしてもらってるし……やっぱりもう一回来た方がいいな」


思いながら、ギルドの扉を押した。


中はまだ賑やかだった。

酒場を兼ねたカウンター席では、冒険者たちがジョッキを打ち鳴らし、武勇伝や失敗談を笑い合っている。

壁には依頼書が並び、受付嬢たちが淡々と処理をしていた。

その中の一人が、晴人に気づいて顔を上げる。


「あっ……綿守さん。こんばんは」


柔らかな笑みを浮かべたその女性は、第二話で枕依頼の報酬を手渡してくれた受付嬢——リリアだった。

肩までの栗色の髪、薄いピンクの制服、そしてどこかのんびりした口調。

晴人は軽く手を挙げて挨拶した。


「こんばんは。あの、ちょっと報告をと思いまして」


「報告、ですか?」


「はい。前回の森綿採取地、少し気になる現象があって……」


「少し、気になる……?」


リリアが小首を傾げる。

晴人は頷いて説明を始めた。

森綿の群生地の一角で、妙に枯れかけた個体がいくつか見つかったこと。

そしてその周囲では、通常より濃い“魔素”が漂っていたこと。

鑑定能力を使って確認した際、そこに「魔瘴ましょう」という文字が一瞬だけ浮かんだのだ。


「魔瘴……ですか?」


「はい。でもほんの一瞬だけで、深くは見えませんでした」


「それはちょっと、気になりますね。森綿の育つ土地は魔力の流れが穏やかなのが普通ですし……」


リリアの表情が一瞬だけ引き締まった。

だがすぐに柔らかく微笑み直す。


「詳しい報告、ありがとうございます。ギルドで確認班を出しておきますね」


「お願いします。あ、あと……次の依頼を探してまして」


「次、ですか? 寝具関係ですか?」


「……どうして分かったんです?」


「ふふっ、だって綿守さん、名前からして寝具の申し子みたいですし」


思わず苦笑する晴人。

確かに、最近はすっかり“寝具探索者”みたいな活動しかしていない。

森綿の採取、森での寝床改良、そして今度は掛布団の素材探し。


「いえ、でも寝るための環境づくりって、案外重要ですよ。命にも関わります」


「わかります。うちの冒険者たちも“良い寝床が戦力を上げる”って言ってますから」


リリアは笑いながら依頼掲示板の一角を指さした。

そこには「素材採取」「護衛」「調査」など、様々な紙が貼られている。

晴人の目に留まったのは、その中でも一枚——


《南丘地帯・夜光苔の採取依頼。報酬:銀貨5枚》


「これ……夜光苔って、寝具に使えますか?」


「直接は無理ですけど、乾燥させると芳香成分が残るので、枕や布団の中に入れると癒し効果があるとか。香り袋にも使われてますよ」


「それ、いいですね。じゃあ、これを受けます」


「はい、承りました。——あ、そうそう。ユルネルの外での活動ですから、門番さんに報告しておいてくださいね」


その言葉に、晴人はふっと笑った。

(門番さん、か……またグレインに茶化されそうだな)


手続きを終えてギルドを出ると、夜の空気がひんやりと肌を撫でた。

街の灯りが遠くでまたたき、満月が静かに照らしている。

遠くからは屋台の片付けの音と、子どもたちの笑い声がかすかに聞こえた。


晴人は腰の枕袋を軽く叩き、森へ帰る道を歩き出す。


森に戻るまでの道のりは、昼間よりもずっと静かだった。

虫の声と風の音、そして時折フクロウの鳴き声が響く。

晴人は鑑定能力を使いながら、道端の草や実を確認して進んだ。

その中で、以前も見つけた「薬草」をいくつか採取しながら歩く。


「鑑定——っと」


淡い光が草に宿り、淡々と情報が浮かぶ。

《名称:リフレ草》《効果:軽度の疲労回復》《備考:煎じて飲むとやや苦い》

どれも特別なものではないが、森での生活には欠かせない。

晴人は丁寧に袋へと詰めていった。


やがて森の入口に辿り着いたころ、東の空がわずかに白み始めていた。

一晩中歩き通してしまったらしい。

それでも疲労よりも心地よい達成感の方が勝っていた。


「ただいま、森」


思わず口に出していた。

森綿の木々が風に揺れてざわめく。

まるで返事をしてくれているように思えた。


焚き火を起こし、湯を沸かして草茶を淹れる。

森の空気と香草の匂いが混ざり合い、静かな朝を作り出す。

そして、抱えてきた枕を取り出し、丁寧に地面に置いた。


「やっぱり、これが一番だ」


腰を下ろし、体を預ける。

森綿の枕は相変わらずふかふかで、頭を包み込むような柔らかさ。

彼の頬には、自然と笑みが浮かんだ。


「次は……掛布団だな」


空を見上げれば、木々の隙間から朝日が差し込んでいた。

黄金色の光が森綿の葉を透かして輝く。

晴人は目を細め、その温もりにまぶたを落とした。


まるで、森そのものが彼を包み込んでいるかのようだった。


その日、森の奥では誰も知らぬ小さな異変が起きていた。

夜光苔が群生するはずの岩場の周囲——そこに漂う淡い紫の靄。

それはゆらゆらと漂いながら、森綿の根元へと流れ込んでいく。


けれど、晴人はまだ知らない。

自分が再び街を訪れる頃には、この森の静寂が少しずつ形を変えはじめていることを——。


風がそっと吹き抜け、森綿の葉が揺れる。

晴人はその音を子守唄のように聞きながら、静かに眠りへと落ちていった。

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