プロローグ:森で迎える最初の昼寝
気が付いたときには、机の上に大きな山ができていた。
山といっても、富士山ではない。紙の山だ。請求書、報告書、申請書、見積書。四角い紙の小山が、俺のデスクの上に積み上げられている。
「……ふぁあ」
盛大なあくびがもれた。時計の針は午後二時を指している。会議も終わり、上司も席を外している。オフィスにはコピー機の稼働音と、隣の課の電話応対の声だけが響いていた。
つまり、これは――絶好の昼寝タイムだ。
俺、綿守晴人、三十歳。
社会人歴八年。昼寝歴はおそらく三十年。生まれ落ちてから今日に至るまで、昼寝への執念だけは誰にも負けたことがない。
就職してからもそれは変わらなかった。むしろ、変わるどころか、昼寝への愛は日々深まっていった。昼休みに机に突っ伏すのは当たり前。ちょっとした休憩時間にも気を抜けば夢の世界へ。
「おい、綿守。また寝てたろ」
「はっ、いや、資料を目で追ってただけです」
「追いすぎて白目むいてたぞ」
なんてやり取りは、もはや日常茶飯事だった。
俺にとって昼寝はただの癖ではない。生きるための行為だ。昼寝をしなければ効率は落ちるし、気力も湧かない。だからこそ、昼寝を確保するための努力は惜しまない。電車通勤ではわざわざ端っこの席に座り、吊革の陰に隠れて首を垂れる。会議では資料の裏に要点を書き込みながら、まぶたを半分閉じる訓練を欠かさない。
完璧な布団で寝られる夜はもちろん至福だが、真の昼寝好きにとっては「いかに不完全な環境で安眠できるか」が重要なのだ。俺はその道を突き詰め、ある種の達人になりつつあった。
……なのに。
「晴人、例のプロジェクトの件、進んでる?」
部長の声で飛び起きた俺は、慌ててパソコン画面をスクロールさせた。やばい。スクリーンセーバーが出ている。寝落ちしていたのがバレバレだ。
「えっと、その、進めてはいるんですが、先方の返答待ちで」
「ふーん……。まあいい、明日までになんとかまとめろ」
ふぅ、危ないところだった。
結局、俺の会社員生活はこうだ。昼寝を貪り、そのしわ寄せで残業をし、翌日また昼寝をしてやり過ごす。悪循環。でも、これが俺のリズムだ。
――そんな俺に、転機は突然訪れた。
その日は取引先との打ち合わせで午前中から外出していた。昼過ぎに帰社し、直帰でも良かったが、デスクに残っている書類を片付けないと後が怖い。腹も減ったので、途中で立ち寄った定食屋で「かつ丼」を頼んだ。
出てきた丼から立ちのぼる湯気。卵でとじられたとんかつ。ふわりと鼻をくすぐる出汁の香り。俺は迷わず箸を伸ばした。
「……ああ、うまい」
その瞬間だった。
ガタン、と大きな音がして、俺の視界が歪んだ。かつ丼の湯気がぐにゃりと曲がり、店内のざわめきが遠ざかる。
「は?」
思わず声が漏れたが、もう遅かった。足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、視界が真っ暗になった。
――そして、目を覚ましたときには。
俺は見知らぬ森の中に横たわっていた。
目を開けると、頭上には木漏れ日が揺れていた。葉の隙間から差し込む光が、俺の顔に点々と模様を描く。空気はひんやりとしていて、湿った土と枯れ葉の香りが鼻腔をくすぐった。耳を澄ますと、遠くで小川のせせらぎと鳥のさえずりが混ざり、かすかな虫の羽音も重なる。
「……ここは……」
膝を抱えて周囲を見渡す。木々の間隔が広く、視界には緑の絨毯のような地面が広がっている。あたりは静寂に包まれているが、同時に生命力にあふれ、息をするだけで胸が少し高鳴るようだ。
手を伸ばすと、柔らかい苔が掌に触れた。石や枝も混ざっているが、背中を押しつければ少しは寝られそうだ。
「……まぁ、とりあえず横になるか」
そう思った矢先――頭上の枝から何かが落ちてきた。
「わっ!?」
間一髪でよけたが、足元に転がったのは拳大の丸い実。黒くてつややかで、見た目は堅そうだ。手に取ると、硬すぎて石のように重い。
「なんだこの硬さ……まさか食べ物じゃないよな」
けれど、腹が減っているせいか、ちょっと興味が湧く。
「いや、まずい……触るだけで怪我するかもしれん」
そんなことを考えながら、俺はふと手を伸ばすと、なんだか実がわずかに浮いたような感覚があった。
視界の端で空間がゆがむように見える。
「……え?」
実は浮いたまま、俺の手元でゆらゆら揺れた。まるで、見えない糸に吊るされているかのようだ。
恐る恐る力を込めると――
パキッ、と小さな音を立てて実が割れた。
「うわっ!?」
割れた中から現れたのは――熱々のかつ丼。卵でとじられたカツが湯気を立て、甘辛い出汁の香りが漂う。
「な、なんだこれ……?」
どうやら俺の手に伝わった「空間の感覚」が、硬い殻を割る鍵だったらしい。
ただの偶然か、異世界的な奇跡かはわからない。だが、腹は正直だ。箸を伸ばし、一口食べる。
サクッ、と衣が音を立て、肉汁と出汁が口いっぱいに広がる。
「……うまい」
しかし調子に乗ると、すぐにトラブルは訪れる。
近くに転がっていた別の実に同じように力を入れると――
――バキィィィンッ!
実だけでなく、周囲の枝や小さな岩まで巻き込んで弾け飛んだ。鳥たちが一斉に飛び立ち、森に大きな轟音が響く。
「ぎゃああああっ! やばっ!」
必死で頭を抱えながら避けるが、背中や肩に枝が当たる。
痛みに顔をしかめつつも、笑わずにはいられなかった。
「……これ、使いこなせれば便利すぎるな」
そう思った瞬間、ふと気付く。
この力――空間をいじれる感覚――は、昼寝生活を極める俺にとって、夢のような力かもしれない。
頭を冷やし、森を見渡す。まだまだ安全な寝場所は決まっていない。けれど、空間操作があれば、自分好みの快適な環境を作ることもできる。
「よし……まずはこの森で昼寝できる場所を確保しよう」
そう決めた瞬間、森の奥でまた黒く硬い実がひとつ転がった。
「……こいつ、また練習台か」
晴人は苦笑しながら手を伸ばした。
森の奥で転がる黒光りした実を手に取ると、先ほどよりも硬く感じた。
「……これは簡単には割れなさそうだな」
しかし、空間操作を意識して掌に力を込めると、指先にわずかな圧の違和感が伝わった。
その瞬間、実がゆらりと浮き、まるで空気に溶け込むように手元に来た。
「なるほど……これで俺専用の引き出しみたいな扱いか」
うまく割れる感覚を思い出し、軽く力を入れると――バリッ、と音を立てて割れた。
すると、中からカレーライスが湯気を立てて現れる。
「か、かつ丼だけじゃないんだな……!」
驚きと同時に、笑いがこみ上げる。昼寝のために森で生活する俺にとって、これは予想外のボーナスだ。
そして、この実が単なる食料ではなく、「この世界の不思議の入り口」でもあることを無意識に理解していた。
次に、目の前に小さな草むらを見つけた。少し引き寄せてみると――
「……薬草?」
鑑定能力が正式に発動した瞬間だ。文字が脳裏に浮かび、草の効能や用途がわかる。
“非常用の回復、軽い傷の手当てに有効”
そう表示されると、普段の面倒くさがりな自分でも、ケガや病気に備えて確保しておこうと思えた。
「なるほど、薬草は自分専用の非常食みたいなものか」
空間操作を駆使して慎重に摘み取り、手元にまとめる。
先ほどの空殻果と同じく、引き出しにしまい込むようにすると、すぐに安全に保管できた。
「ああ、これは便利すぎる……」
次に、昼寝スペースを整えるために周囲の苔や小枝を集め、空間操作で柔らかく盛り上げる。
少し傾斜を作って頭の位置を安定させ、周囲の湿気や風の流れも計算する。
「完璧……いや、初めてにしては上出来だな」
そう思った瞬間、またもや小さな実が目の前に転がった。
「またか……」
しかし今回は空間操作の練習を兼ね、少し意図的に力を抜く。
すると、実はふわりと浮き、空中で小さく揺れる。
指先の感覚に集中し、掌で受け止めると――バリッ、と小さな音を立てて割れた。
中から出てきたのは、またしても食べ物だった。
今度はかつ丼ではなく、熱々のカレーライス。
「やっぱり、この森は昼寝生活のためだけにあるんじゃ……」
嬉しさのあまり、思わず笑みがこぼれる。
森の奥で迎える最初の昼寝。
柔らかな苔と自作の枕状の盛り土の上で、晴人はゆっくりと目を閉じた。
周囲は静かで、木々の間を抜ける風が髪をそっと撫でる。
鳥のさえずりや、虫の羽音も心地よく耳に入る。
空間操作や鑑定能力の偶然の発動による大惨事も、今となっては笑い話だ。
「よし……これで森生活スタートだな」
腹も満たされ、非常用の薬草も確保し、昼寝の環境も整った。
晴人はゆっくりと深呼吸する。
「……やっぱり、昼寝最高だ」
森での生活はまだ始まったばかりだ。
でも、ここから先は、自分だけの理想空間を作る日々が待っている――。
そして、昼寝を極めるための不思議な冒険が、静かに幕を開けたのだった。
暇つぶしに書いてみました。いや文章書くって難しいですね。
一応、プロローグだったので次が第一話です。
そんなに長続きはしないんじゃないかな…