1. 異世界転生とか絶対無理ぃぃぃ!!
「あー、もう無理ィィィィィ……」
コンビニの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、宇佐美るなは夜風に震える細い肩をさすった。時計は午前2時47分を指している。11時間連続勤務。休憩なし。時給は最低賃金以下の850円。
「バイトリーダーのクソ田中、絶対パワハラで訴えてやる……」
スマホの画面に映る自分の顔は、疲労で目の下にクマができ、髪はボサボサ。まるで生ける屍だ。
『るなちゃん、明日も朝7時から入れる? 人手不足なんだよね~』
田中からの悪魔的LINEが画面に踊る。
「は? 明日って今日じゃん。3時間しか寝られないじゃん。人として無理でしょ、絶対無理ィィィ……」
呟きながら歩く深夜の住宅街。街灯が少なく、影がやけに長い。
大学の学費、一人暮らしの生活費、そして何より奨学金の返済。全部背負ってブラックバイトに搾取される日々。これが現代女子大生のリアルかよ、と自嘲する。
「もういっそ、異世界にでも転生して、チート能力でも貰って楽に生きたい……」
そんな愚痴を呟いた瞬間だった。
足元がふらつく。立ちくらみか? いや、違う。視界がぐるぐる回り始める。
「え? なに? ちょっと待っ——」
意識が落ちた。
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気がつくと、るなは真っ白な空間にいた。
「……夢?」
そう思った瞬間、目の前に眩い光とともに現れたのは——めちゃくちゃイケメンの男性だった。古代ギリシャの彫刻のような完璧な顔立ち、金髪に碧眼、そして後光まで差している。
「汝、宇佐美るなよ」
重厚な声が響く。
「は? 誰ですか? というか、ここどこですか? まさかナンパ? 無理ですから」
「我は創造神アルティメシウス。汝を異世界へと導く者なり」
「……え?」
るなの脳内で、読んだことのある無数の異世界転生小説がフラッシュバックした。
「ちょっと待って。まさか、本当に異世界転生? トラックに轢かれた記憶ないんですけど」
「過労死だ」
「は?」
「汝は過労により心停止を起こした。現代日本の労働環境の犠牲者よ」
「…………無理ィィィィィ!!!」
るなは絶叫した。まだ20歳、しかも学生が本業なのに、バイトで過労死って、人生ハードモードにも程がある。
「安心せよ。汝には新たなる使命を与える。異世界『モラリウス』にて——」
「無理無理無理! 異世界とか絶対無理! 言葉通じるんですか? 衛生環境は? スマホ使えるんですか? Wi-Fi環境は? Amazon Prime見られるんですか?」
神様の眉がピクリと動いた。
「……汝、現世に未練がありすぎではないか?」
「当たり前でしょ! まだYouTubeで見てない動画山ほどあるし、推しのライブだって来月あるし、単位も取らなきゃいけないし——」
「単位など取る必要なし! 汝はもう死んでいる!」
「だから無理だって言ってるんですぅぅぅ!!」
神様は深いため息をついた。
「……とにかく、モラリウスは道徳的に非常に問題のある世界でな。権力者による理不尽、弱者への搾取、不正義がまかり通っている。そこで汝には——」
「聞いてません! 帰らせてください!」
「帰れない。もう肉体は火葬された」
「え?」
「享年20歳。死因は過労死。新聞にも載った。『ブラックバイト問題を象徴する悲劇の女子大生』として」
るなは新聞の端っこに乗っている自分の死亡記事を読んで愕然とした。死んでる。本当に死んでる。そして社会問題になってる。
「うわぁぁぁぁ……人生終了じゃん……」
「終了ではない。新しい始まりだ。汝には特別な能力を授けよう」
神様が手をかざすと、るなの胸元に温かい光が宿った。
「その名も『理不尽センサー内蔵型ボディブロー』」
「…………は?」
「道徳的に問題のある行為、理不尽な仕打ち、弱者への搾取などを感知すると、自動的に拳が発動する。一発で相手を改心させる威力を持つ」
「ボディブロー? 拳? 物理攻撃?」
「そうだ」
「……なんで魔法とかじゃないんですか? 他の転生者はみんな魔法使えるじゃないですか」
「汝の前世での怒りのエネルギーが物理攻撃に特化したのだ。ブラックバイト店長を殴りたかった記憶が残存している」
確かに田中の顔面にパンチを叩き込みたいと毎日思っていた。
「でも暴力はダメでしょう? 話し合いで解決すべきです」
「綺麗事を言うな。汝の世界でも、結局は権力と暴力がものを言うではないか。ブラック企業、パワハラ上司、政治家の汚職——言葉で何か変わったか?」
「それは……」
確かに。バイト先の田中も、大学の教授も、政治家も、みんな権力を笠に着て好き勝手やっている。
「まあいい。とにかく汝はモラリウスで理不尽と戦うのだ。健闘を祈る」
「ちょっと待っ——」
再び意識が遠のいていく。
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気がつくと、るなは草原の真ん中に立っていた。
青い空、白い雲、緑の草原。まるで童話の世界だ。
「……本当に異世界なんだ」
自分の体を見下ろすと、現代の服装のまま。ジーンズにパーカー、スニーカー。髪型も変わらない。
「せめて衣装くらい用意してくれればいいのに……」
そんな愚痴を呟いていると、遠くから声が聞こえてきた。
「もっと早く運べ! のろまどもが!」
「すみません、すみません!」
「謝るな! 手を動かせ!」
声の方向を見ると、立派な馬車と、その周りで荷物を運んでいる人たちが見える。近づいてみよう。
歩いていくと、状況が見えてきた。
豪華な馬車の前で、中年男性——明らかに貴族風の格好——が、若い女性を罵倒している。女性は村娘の格好で、重そうな荷物を必死に運んでいる。
「お嬢様の荷物を落とすな! 傷がついたらどう責任を取るつもりだ!」
「申し訳ございません、領主様!」
「謝罪など要らん! 今夜は食事抜きだ!」
「そんな……昨日も食事を……」
「文句を言うのか!?」
領主と呼ばれた男性が、村娘の頬を平手打ちする。
パァン!
鋭い音が草原に響いた。
「!!!」
その瞬間、るなの胸の奥で何かが熱くなった。
理不尽だ。
明らかに理不尽だ。
力のある者が、力のない者を一方的に痛めつけている。これは搾取だ。パワハラだ。
ブラックバイト先での田中の行動と全く同じ構図だ。
「あ……」
るなの右拳が、勝手に握られていく。
「え? なにこれ? 勝手に……」
体が勝手に動き出す。足が領主の方向に向かっている。
「ちょっと! 止まって! 私、喧嘩とか無理だから!」
でも体は止まらない。理不尽センサーが全力で反応している。
気がつくと、領主の目の前に立っていた。
「……お前は誰だ? なんだそのみすぼらしい格好は」
領主がるなを見下ろす。180センチはありそうな大男だ。るなは155センチしかない。
「あの……すみません、通りすがりの者ですけど……」
「なら立ち去れ。ここは私有地だ」
領主は再び村娘に向き直る。
「さあ、荷物の整理を続けろ。今度失敗したら鞭打ちだ」
「はい……」
村娘が涙目で作業を再開する。
るなの胸の熱さが頂点に達した。
——無理。
——これは無理。
——絶対に無理。
「……無理ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
るなの絶叫が草原に響き渡った。
同時に、右拳が勝手に動く。
信じられないほどのスピードで領主の腹部に向かって伸びていく。
ドゴォォォォォン!!!
轟音が響いた。
領主の巨体が宙に舞う。5メートル、10メートル、15メートル……遥か彼方まで吹き飛んでいく。
そして着地した場所は——領主の屋敷だった。
ドガァァァァン!!!
屋敷の壁を突き破り、さらに奥の壁も、その奥も突き破って、ついに屋敷は崩壊した。
「…………え?」
るなは自分の拳を見つめた。さっきまで普通の、か弱い女子大生の手だったはずなのに。
「り、領主様ぁぁぁ!!」
村娘と護衛の兵士たちが慌てて屋敷の瓦礫に駆け寄る。
瓦礫の中から這い出してきた領主は——なぜか涙を流していた。
「私は……私は……何ということを……」
「領主様?」
「私は間違っていた! 村民を苦しめるなど……領主として、人として最低の行為だった!」
え?
「今日からは村民の生活向上に全力を尽くそう! 税金も半分にする! 労働環境も改善する! みんな、許してくれ!」
領主が土下座を始めた。
村娘も兵士たちも、そしてるな自身も、ポカンと口を開けて立ち尽くしている。
「あの……これって……」
るなは神様の言葉を思い出した。
『一発で相手を改心させる威力を持つ』
「……まじで?」
その時、どこからともなく神様の声が響いた。
『その調子だ、宇佐美るな。モラリウスの理不尽を、その拳で正していけ』
「いやいやいや! ちょっと待ってください! 人を殴るとか無理ですから! それに屋敷まで壊しちゃって……弁償とかどうするんですか?」
『案ずるな。理不尽への制裁に副作用はつきものだ』
「副作用って! 建造物破壊は犯罪でしょ!?」
でも領主は全く怒っていない。それどころか感謝さえしている様子だ。
「あなたは……私を救ってくださったのですね……」
「は?」
「私はあなたの拳によって、心の闇から解放されました。ありがとうございます!」
領主が再び土下座する。
村娘も涙を流しながらるなに駆け寄ってきた。
「ありがとうございます! 私たちを助けてくださって!」
「いえ、あの、私は別に……」
『心配するな。汝の行動は正しい。理不尽に苦しむ者たちを救ったのだ』
神様の声に励まされても、るなの困惑は深まるばかりだった。
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その日の夕方、るなは改心した領主に招かれて豪華な夕食をご馳走になっていた。
壊れた屋敷は領主が「改心の証」として放置し、村の集会所で食事会が開かれている。村民全員が参加する歓迎会だった。
「本当にありがとうございました!」
「領主様が変わってくださって!」
「もう重税に苦しまずに済みます!」
村民たちが次々とるなに感謝の言葉をかけてくる。
「あ、はい……どういたしまして……」
正直、まだ状況が飲み込めない。
自分が一発殴っただけで、領主が改心して、村の問題が解決して、みんなが幸せになった。
「でも、これでいいのかな……」
隣に座っていた村娘——エリカと名乗った——が心配そうに声をかけてきた。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ……ただ、暴力で解決するのってどうなのかなって……」
エリカは首を振った。
「暴力じゃありません。これは正義です」
「正義?」
「私たち、何年も苦しんできたんです。領主様に相談しても無駄、国に訴えても無駄、神様にお祈りしても無駄……誰も助けてくれませんでした」
エリカの声が震える。
「でも、あなたが来てくださった。一発で領主様の心を変えてくださった。これが正義でなくて何でしょう」
「……」
るなは自分の右手を見つめた。この手で人を殴った。でもその結果、理不尽が正された。
『汝の迷いは理解できる。だが、時として力なき正義は無力だ』
再び神様の声が頭に響く。
『言葉だけで世界が変わるなら、汝の前世でブラック企業はとうに絶滅しているはずだ』
確かに。日本でも散々「働き方改革」だの「ブラック企業撲滅」だの言われているのに、現実は何も変わっていない。
「……分かりました」
るなは立ち上がった。
村民たちの視線が集まる。
「私、この世界で理不尽と戦います。でも——」
るなは大きく深呼吸した。
「私は別にヒーローじゃありません! 人を殴るのは基本的に嫌です! できれば話し合いで解決したいです! でも、どうしても理不尽が許せない時は——」
右拳を握りしめる。
「『無理ぃぃぃ!』って叫んで殴ります!」
村民たちから大きな拍手が湧き上がった。
「ただし!」るなは慌てて付け加えた。「基本的に面倒事は嫌いなので、できるだけ関わりたくありません! 平和に生きたいです! あと、チップとかお礼とかくれるなら嬉しいです!」
村民たちが笑い声を上げる。
領主も立ち上がって言った。
「宇佐美るな様、あなたは我々の恩人です。どうか、この村を拠点にしてください」
「え?」
「家も用意します。食事も支援します。お礼もたっぷりと」
るなの目が輝いた。
「本当ですか? 家賃とか食費とか無料ですか?」
「もちろんです」
「Wi-Fiは……まあ、ないですよね……」
こうして、宇佐美るなの異世界生活が始まった。
理不尽センサー内蔵型ボディブローを武器に、今日も誰かがどこかで「無理ぃぃぃ!」と叫んでいる——。