そして、阿蘇への温泉旅行
2022年8月湯けむりの約束 〜幽霊だって温泉入りたいっちゃ!
「温泉、行きたいっちゃ〜〜……」
その夜、いつものようにリビングでビール片手にダラけていた美鈴が、突然ぽつりとつぶやいた。
「また唐突やな。今度はなんの番組見とったん?」
「旅番組……。ええなぁ、ああやって湯船にちゃぽんってつかって、肩までお湯に包まれて……あ〜、うちも入りたいっちゃ〜〜!」
「いや、お前……幽霊やん。物理的に無理やろがい」
「えー。でも最近、実体化もけっこう自在になってきたっちゃよ?触れるし、匂いもあるし、なにより——汗もかくし!!」
「……幽霊の定義とは……」
「もう、行くっちゃ!温泉っちゃ!優馬、車出して!」
「いや、勝手に決めんなや!」
しかし、結局、強引な幽霊の情熱に押されて、週末、福岡から阿蘇方面へドライブが決定されたのだった。
──
「見て見てっちゃ!この山!雲の上歩いてるみたいやん!」
助手席の美鈴は、もうハイテンション。窓から顔を出してはしゃぎすぎて、何度も実体がスーッと透けかけている。
「おい、透けとる透けとる!」
「えへへ〜、興奮したら制御が〜〜♡」
「やかましいわ!」
ようやくたどり着いたのは、小ぢんまりとした温泉宿。幽霊同伴なのでチェックインは裏口からこっそりと。宿の人も、優馬が「妻が体調悪くて……」と苦しい言い訳をしてなんとかごまかす。
貸切の家族風呂に案内され、いざ入浴タイム!
「ふふっ、さぁ……幽霊美鈴の、実体化ちゃぽんっちゃ!!」
「だからその“っちゃ”語尾はなんやねん……あっ!」
ぱあっと光ると、美鈴が完全実体化。タオル一枚でドヤ顔しながら湯船にゆっくり腰を沈めた。
「ひゃぁぁ〜〜〜、最高っちゃぁ〜〜〜……これこれ、これが生きてるってことやっちゃ〜〜!」
「いやいや、生きてへんて」
「も〜、せっかくの温泉に冷や水ぶっかける気ぃ?そういうの一番ダメっちゃよ?」
「幽霊がぬくもってるって、世界で一番矛盾してるけどな」
だけど……そのとき、優馬はふと思った。
たとえ生きてないとしても、こうやって笑って、触れて、一緒に湯に浸かっている今が、どれほどかけがえのない時間か。
「……なぁ、美鈴」
「ん〜?」
「お前が戻ってきたらさ、また一緒に温泉、来ようや。今度は、ほんまの“生きてる”お前と」
「……」
美鈴が、少しだけ目を細める。そして、湯けむりの向こうで、静かにうなずいた。
「……約束やっちゃ。絶対、生きて帰る。そしたら——そのときは、混浴じゃなくて、もっとすごいこと……してあげるっちゃ♡」
「なっ……! 何想像させんねん!!」
「へへ〜、優馬、鼻血、鼻血〜〜♡」
──
こうして、湯けむりと笑いに包まれた温泉の一夜が、更なる“未来の希望”を育む約束の場所になったのだった。
一筋の涙 〜想いは届く
午後7時過ぎ。
優馬は、今日もいつものように市内の病院の一室をそっとノックした。
返事はない。だが、それがもう日常だった。
「ただいま、美鈴……今日もめっちゃ疲れたわ〜」
個室のベッドには、静かに眠り続ける黒崎美鈴がいた。
白いリネンと、かすかに機械の音だけが響く病室。
優馬はいつものようにリュックから缶コーヒーとおにぎりを取り出し、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「今日はさ、朝から上司に怒鳴られてん。まぁ俺が資料送るの忘れてたんやけどさ……。それでも怒鳴られると、やっぱ腹立つよな」
とりとめのない話を、優馬はぽつりぽつりと語っていく。
笑えるような話も、ちょっとしんどかったことも。
まるでそこに、美鈴がいつものように隣でツッコミを入れてくれるかのように。
「お前が目を覚ましてくれたらなぁ……」
「また、あのバカみたいな日々を……笑って過ごせるのになぁ……」
視線を落としたときだった。
——光の中で、ほのかに揺れるものが見えた。
美鈴の左頬を、一筋の涙が静かに伝っていた。
「……え……?」
優馬は思わず息をのんだ。
脳波は変化していない。モニターにも変化はない。
けれど、確かに今、彼女の頬を涙が伝ったのだ。
「美鈴……聞こえとるんか……?」
震える手で、美鈴の手をそっと握った。
「お前……もしかして……ずっと、聞いとったんか?」
優馬の声が少しだけ、かすれた。
「俺な、お前が目を覚ましたら、ちゃんと言うつもりやったんやけど……」
「生き返って、リハビリ終わったら……結婚しような」
「正式に。ちゃんと、籍も入れて。お前の親御さんにも、挨拶する。……そのために、俺、待ってるから」
言葉を絞るように、でもまっすぐに。
その声が病室に、やさしく響いた。
——もう返事はないかもしれない。
でも、それでも優馬は毎日ここへ通い続ける。
彼女が目を覚ますその日まで。
それが、生きてる人間にできる、一番まっすぐな愛のかたちだと信じて。
──
その夜。
誰もいない病室に月明かりが差し込む。
眠る美鈴の目元が、もう一粒、そっと濡れていた。