美香の語り
【美香の幼少期と救いの瞬間】
朝と夜の境がわからないほど、家の中は常に重たい空気が流れていた。
父は美香が幼い頃に体を壊して仕事を辞めてから生活が一変した。パチンコにのめり込み、金が尽きれば暴力を振るい、家は怒号と沈黙の繰り返し。母に金を要求し、金がないとわかると、怒鳴り声と共に鈍い音が響いた。家具が倒れ、食器が割れ、美香の名前が罵声の中で呼ばれた。
「お前のせいで、俺の人生は台無しや……死ね……ほんとに死ね!」
無慈悲な言葉。痛みよりも心に残ったのは、その呪いのような言葉だった。
何度も聞いた「殺すぞ」は、もはや恐怖ではなく、日常の一部だった。
殴られるのは見えない場所――服を着れば隠れる腕の内側や太もも、背中ばかりだった。
母は暴力から守ってくれるどころか、逃げるように家を空けた。何日も帰らず、冷蔵庫には空気だけが残った。泣いても誰も来なかった。叫んでも隣から声がかかることもなかった。
ひとり。
ひとりで寒さと空腹と絶望の中にいた。
やがて心の中に湧き上がったのは、**“もう、終わりにしたい”**という願いだった。
橋の上に立った日のことは今も夢に出てくる。
ゆっくりと欄干を越え、両手を広げ、水面を見下ろした。
吸い込まれるような黒い水面は、不思議と優しく見えた。あの底に行けば、痛みも苦しみも全部なくなる。そう思った。
「……どうしたの、そんなとこで?」
背後からかかった声が、世界の色を変えた。
NPO法人の女性スタッフだった。優しいけれど真剣な声。近寄ってくる気配に、美香は体を強張らせた。
「ね、ちょっとこっち戻ろうか。寒かろ?」
その声の温度に涙がこぼれた。無意識に泣きながら戻っていた。
それから保護された日々はまるで別の世界だった。
最初は誰も信じられなかった。寝るときは部屋の角に背を向けて丸まった。ご飯を出されても一口も口にしなかった。
それでも、NPOの人たちは変わらなかった。怒鳴らなかった。殴らなかった。夜になってもひとりぼっちにしなかった。
やがて美香の児童手当などの給付金もNPO法人が管理し、黒木家には一切届かなくなった。
金が入らなくなった父親は怒り狂い、母親と共に美香の所在を探し始めた。中学校の前に現れ、下校する美香の後をつけ、ついにはNPO法人の事務所を突き止めた。
そしてある日――
事務所の前で大声を上げ、「美香を返せ!」と喚き始めた。児童手当を取り戻すための強引な返還要求。
その日、偶然にも小倉ファミリーが事務所を訪れていた。お笑いネタを披露していた最中だった。
「おい、誰の許可でこんなとこにおるとや。早う戻って来いや、美香!」
美香は足がすくんだ。心臓が締め付けられるように痛くなった。
もう無理だ……そう思ったその時。
ガタン、と大きな音と共に立ち上がったのは、美鈴だった。
「子どもば道具に使うとやめんね!」
その声は鋭く、でも母のように温かく――決して誰も美香に向けてくれなかった、守る人の声だった。
優馬も美鈴も職員と共に美香をかばい、父親の前に立ち塞がった。
そして美鈴は――あの時、封印していた「幽霊モード」で立ち向かった。
“私はね、一度死にかけた人間やけん。もう、あんたらみたいな奴、絶対に許さんとよ”
そう叫び、父親の攻撃を交わし、背後から強烈な一撃を加えた。
「博多女の底力ば、なめんじゃなかっ!!」
あの瞬間、美香の中で何かが溶けた。
誰かが自分のために怒ってくれた。
誰かが自分のために傷つこうとしてくれた。
その日から――美香の心に小さな「灯り」が灯った。
それは家族の温もり。
そして、「私も、生きていていいんだ」という希望の証だった。
【美香の語り】
あの日のことは今でもふと思い出す。冷たい風、濁った水面、そして欄干の感触。
あれが私の人生の終わりになるはずやった。
でもあの時、
背中から聞こえた優しい声に、私は“生きててもいい”って初めて思ったとよ。
それまでの私は、生まれてきたこと自体が罪みたいに感じとった。
お父さんは仕事もせんでパチンコばっか。金が尽きたら暴力。
お母さんも疲れ果ててて……もう私に愛情なんてなかったっちゃろうね。
ご飯もなか、着る服もボロボロ、殴られても誰も助けてくれんかった。
学校でも誰とも目を合わせんようにしとった。
卒業式も入学式も一人で立っとった。制服は先輩の古着。
笑ったことなんて、あの頃は一回もなかったかもしれん。
でも――
小倉さんたちに出会ってね。
あの人たち、もう最初から全開でドタバタしとって、ギャグばっか飛ばしてきて、何がなんやらわからんかった(笑)
光子ちゃんと優子ちゃん、ちっちゃいのにツッコミが鋭すぎて正直ビビったもん。
でもね、ふっと笑った自分に気づいたとき、
「あ、私……笑えるんや」って涙が出たとよ。
その時初めて、生まれてきてよかったかもしれんって思えたと。
それからやね。
光子ちゃんと優子ちゃんがぎゅーって抱きついてきて、
「みかおねーちゃん、だいすきー!」って。
あの時、胸の奥がキュンってなって、ほわって温かくなったん。
あぁ、これが“家族”なんかなって。
血は繋がってなくても、
私にはもう家族ができたっちゃん。
優馬さんは頼れるお兄ちゃんみたいで、でもたまにボケるし。
美鈴さんはどんなときも私の味方でいてくれる、本当のお母さんみたい。
光子ちゃんと優子ちゃんは私の宝物。大事な妹たち。
私ね、いま幸せよ。
学校にも行けるようになったし、友達もできた。
そして音楽と出会った。
あのとき、山口の吹奏楽部の演奏聴いたとき、涙止まらんやった。
音って、こんなにも人の心ば包んでくれるんやって知ったと。
だから、私もトロンボーン始めて、今じゃ演奏会でもソロば任されるようになったっちゃ。
夢?
プロの音楽家になること。
そして昔の私みたいに、辛い思いしとる子たちに音で寄り添いたい。
「一人やないけん、大丈夫」って音で伝えたいと。
私を救ってくれた、小倉家みたいに。
あのときの私に、いまの私が声をかけられるなら、こう言うっちゃ。
**「大丈夫。いつか、心から笑える日がくるけん。生きて、待っとこうね」**って。
【心をつなぐ、音の手紙】
春先のやわらかな風がNPO法人の事務所のカーテンをそっと揺らしていた。
昼休み、スマホの通知音が鳴る。
《郷子:今日は高校の吹部の演奏会、無事終わったよ~! 美香ちゃんも元気しとる?》
美香は思わずにこりと微笑みながら返信する。
《美香:おつかれさまです!今、ちょうど次の演奏会に向けて、ルパン練習中です あのとき聴いたルパン三世のジャズ、まだ耳に残ってます》
そこへもう一つ通知が。
《温也:そうそう、うちのトロンボーンの後輩がさ、美香ちゃんの演奏動画見て「めっちゃカッコいいです!」って言いよったよ!》
《美香:うそ!?うれしすぎます~》
郷子から笑いの絵文字付きで続く。
《郷子:トロンボーン姉弟ここに極まれり、やね 今度、うちの高校に来て、一緒に練習せん?》
《美香:行きたい!!ほんとに、音で繋がってるって、すごく幸せなことですよね。》
メッセージのやりとりのあと、美香はふと、トロンボーンケースに手を置く。
音を楽しむことで、人と人が繋がる。
それを教えてくれたのは郷子と温也だった。
――数日後。高校の吹奏楽部の練習室。
「お~っ、やっと実物の美香ちゃんに会えたばい!」
「ほんとよ~。Zoomでも話してたけど、やっぱ生は違う!」
笑顔で出迎えてくれる2人に、美香も満面の笑顔で応える。
初めての練習室。知らない後輩たちにも少し緊張していた美香だったが、温也が
「ま、美香ちゃんが吹けば、みんなビビるけん!はよ魅せちゃってーや!」
と場をほぐし、郷子は
「うちのホールのエコー、今日いちばん響かせてよ~」
と軽やかに手を振った。
音が鳴り始める。
互いの音に耳を傾け、寄り添うように重なっていくハーモニー。
それはまるで長年の仲間のような一体感。
練習後、教室のベンチで冷たい麦茶を飲みながら、美香がぽつりとつぶやく。
「……私、ね。あのとき、ルパンの演奏聴いてなかったら、音楽やってなかったかもしれん。
温也くんと郷子ちゃんが届けてくれた“音の手紙”、ちゃんと届いてたよ。」
郷子は少し目を潤ませながら笑う。
「そげん言ってくれたら、こっちまで泣きそうなるやん。
でも、あれはうちらの音じゃなくて、美香ちゃんの心が開いたけん、届いたとよ。」
温也も、ちょっと照れた顔で、でもまっすぐに言った。
「美香ちゃん、今度はあんたが誰かに手紙ば届ける番やん。
音楽のバトン、しっかり繋いでいこうぜ。」
美香は強くうなずいた。
――この出会いも奇跡。
そして、奇跡のその先に続いていく音が、確かにここにあった。




