新曲リリース。そして、私の妹の物語
——2033年8月4日。
東京は蒸し暑さの残る夏の夜。
美香は学生寮の一室、机の上に五線譜とMacBookを広げ、真新しいジャズのスコアに静かに指を走らせていた。
夜風がカーテンを揺らし、部屋の片隅でキャンドルライトが小さく揺れる。
美香:
「21歳って、なんか特別な気がする……もう子どもって言えんし、大人って言い切るには、まだ未完成。でも、だからこそ出せる音があるって、信じたい」
ふとピアノの鍵盤に手を置く。
静かに鳴り始めるのは、しっとりとしたテンポのジャズバラード。
ベースのラインは低く深く、
サックスは囁くように語りかけ、
メロディーにはどこか儚さと優しさが宿る。
――タイトルは、《Midnight Gift》。
夜の静けさに包まれてこそ聴こえてくる、自分だけの“贈りもの”。
完成した音源を、すぐさま双子ちゃんに送信。
そしてその夜、博多・小倉家。
光子:
「……!これ……えらい大人っぽいやん……」
優子(目を丸くして):
「ふわ〜っ……!これ、美香お姉ちゃんの音やね。うち、夢ん中で踊りたくなる〜♡」
光子:
「大人の夜っち感じやね。うちも、はよ大人になりたか〜!」
優子:「でも、うちらもちゃんとお祝いせなやろ?」
——次の瞬間。スマホの画面の向こう、美香に届く動画メッセージが送信される。
\動画スタート/
光子・優子(声を揃えて):
「美香お姉ちゃん、お誕生日おめでとうございますっ!!」
光子:「21歳っち、にーに超えとるやん!」
優子:「もう、立派なレディやね〜♡ その曲、うちの“寝る前ランキング”第1位ばい!」
光子:「博多でまたコンサートやってね!……あ、今度は夜の部も希望っちゃん!」
優子:「その時は、かっこいいドレス着て来てね♪うちらもオトナの顔して、うしろでうっとりしとくけん♡」
\動画おわり/
美香、スマホを抱きしめながら、にこりと微笑む。
美香:
「……最高の、プレゼントやん……」
東京の夜に、小さく鳴るジャズ。
それは、ひとりの女の子が大人になる瞬間に生まれた音楽。
そして、それを真っ先に聴いてくれる小さな家族たち。
――この音は、きっと明日へつながっていく。
――《Midnight Gift》、リリース。
美香が21歳の誕生日に合わせて発表したこの新曲は、ジャズ・バラードのしっとりとした質感と、大人びた色気を帯びた音使いで、彼女のこれまでのイメージに新たな深みを加える一曲となった。
音大の仲間や関係者の協力で、配信とCD同時リリースという形に。
美香自身もトロンボーンとピアノを担当し、アレンジとプロデュースを手がける。録音は、都内の落ち着いた雰囲気のスタジオで、夜の空気を封じ込めるように丁寧に進められた。
リリース当日――。
SNSにはファンや関係者のコメントが次々と上がる。
「まるで夜に咲く花みたいな曲……」
「彼女の成長と“覚悟”が音に滲んでる。これからがますます楽しみ」
「前は“少女の切なさ”だったけど、今回は“女性の余裕”。いい意味で、変わった」
一部のジャズ系ネットラジオや音楽ブログでは、
「若き女性作曲家が描く“夜”の世界」
「21歳の転機を刻んだ傑作」と取り上げられ、注目度はじわじわと高まっていった。
中でも、印象的だったのは、とある音楽評論家の一言。
「この曲は、“音で書かれたラブレター”だ。宛先は、自分自身か、それとも――」
そして美香は、この曲について尋ねられるたび、こう微笑むだけだった。
「……ふふ、それは秘密です」
寮の部屋、窓辺に腰掛けて夜の東京を眺めながら、
トロンボーンのマウスピースをそっと拭う。
どこかに届いてほしい音。
どこまでも深く、優しく。
この“贈り物”が、聴いた人の心の奥に灯ることを、ただ願いながら。
ファイブピーチ★の新曲、タイトルは《秋色ステップ》。
作曲は奏太が担当。夏の終わりから秋にかけての、少し物憂げで、それでもどこか高揚感のあるメロディ。
コード進行にはジャズのテイストも織り交ぜられ、奏太らしい、繊細かつ芯のある楽曲に仕上がっていた。
歌詞は光子・優子・小春の三人が共同で手がけた。
それぞれの想いが交錯する中、「秋の女の子」「風に舞うスカート」「木の葉のかさなる音」「背伸びしたマニキュア」などのフレーズが次々と生まれた。
最終的に三人の間でテーマとしてまとまったのは――
「まだ子どもだけど、大人のまねごとをしてみたい、そんな秋の午後」
三人で顔を寄せ合いながら歌詞を書いた日のこと。
途中、光子が「『つま先立ちの夢』って入れたらよくない?」と提案すると、優子が「それ、なんかええやん……詩やん」と小春と目を見合わせ、そこから一気に詞が形になった。
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《秋色ステップ》歌詞の一節より:
つま先立ちの夢
まぶたの裏に 描いた秘密
木漏れ日にそっと願った
あの人のようになれるかな
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レコーディングも、寮のスタジオと音大のレッスン室を借りて行われた。
奏太がピアノとギターを演奏、美香がトロンボーンでサビにアクセントを加え、ドラムは寮の仲間・由美が担当。
歌唱はファイブピーチ★の3人。
光子のまっすぐな声、優子の柔らかさ、小春の透明感。
三人の声が溶け合って、まるで秋の空に浮かぶ淡い雲のような浮遊感を生み出していた。
リリースは、美香の《Midnight Gift》とほぼ同時期。
両方を聴いたファンの間では、こんな比較も――
「《Midnight Gift》は夜の女神。《秋色ステップ》は午後の妖精たち」
「姉と妹たち、それぞれの“秋”の表現に痺れる」
「トロンボーンが両方に出てるのが最高のリンク感」
そんなふうに語られながら、
この秋、彼女たちはそれぞれの「音」で、静かに、しかし確かに成長の階段を登っていくのだった。
《秋色ステップ》完成記念・東京お祝いナイト
レコーディングを終えたその晩。
スタジオ近くの小さなレストランを貸し切って、ささやかだけれど心のこもった打ち上げパーティーが開かれた。
集まったのは、
光子・優子・小春の《ファイブピーチ★》三人に、作曲を手がけた奏太、
そしてレコーディングでトロンボーンを吹いた美香、
さらにはドラムとして参加した音大の先輩・由美。
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店内には、秋の花・コスモスのアレンジが飾られ、控えめな間接照明とアコースティックジャズが流れるお洒落な空間。
誰かが「大人の階段の踊り場っぽくて、今の私たちにピッタリかも」とつぶやくと、双子ちゃんが即座に食いついた。
光子:「ようし!ここで階段ダッシュ選手権ば開催しますっ!」
優子:「せんどって〜!踊り場で転げたら階段ば降りるどころか、逆戻りやけん!」
小春:「そもそも、踊り場で“走る”っていう発想がもう小学生よ……」
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そんなやりとりで笑いが起こる中、
店の奥では、パーティープレートやノンアルコールカクテルが並ぶテーブルが用意されていた。
由美は早速ドリンクコーナーで、「グレープフルーツのスカッシュがめちゃウマ!」と連呼。
その横で、美香が音大の話をしながら、さりげなく小春の髪を整えてあげていた。
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乾杯の音頭は、奏太。
奏太:「みんな、お疲れさま。…正直、曲作りってこんなにしんどくて楽しいって、初めて知った。
光子、優子、小春、詞ありがとう。美香、由美さん、演奏も最高でした。
この曲が、誰かの“秋”に寄り添えたら嬉しいです――乾杯!」
全員:「かんぱーい!!」
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そのあとは、それぞれが完成した楽曲について語ったり、スマホで再生して「あっ、この部分好き!」と盛り上がったり。
光子と優子は、歌詞に入れた「つま先立ちの夢」の意味を熱弁しはじめ、止まらない。
光子:「これはな、うちらの世代が大人ぶるときに、ほんとに“つま先立ち”するって話を詩にしたっちゃん!」
優子:「スニーカーでも、ヒール風の歩き方になるんよ、なんか知らんけど!」
由美:「わっかる〜、そういうの。中学生のとき、めちゃくちゃ“カッコつけ足音”やってたもん」
小春:「それ、学校の廊下で禁止されとったやつ……」
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最後に、店の人がサプライズでケーキを持ってきた。
プレートにはチョコペンで――
「祝・《秋色ステップ》完成!ファイブピーチ★のみんなへ」
光子:「おおぉ〜〜っ!お店の人、センス神かっ!」
優子:「うちら、いつから“ケーキ似合う女”になったっちゃろね?」
美香:「いやいや……ケーキがあなたたちに合わせて背伸びしたんよ、きっと(笑)」
由美:「それな!“つま先立ちケーキ”や!」
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そんな感じで、夜はふけていく。
でも、どこか満ち足りたような、少し切ないような、
まさに“秋”を感じさせる夜――
光子たちは、大人になる階段の、
その一段を、たしかに登った気がした。
月曜日、福岡は晴れ。にぎやかだった東京でのレコーディングと祝賀の余韻を胸に、光子と優子はいつものように制服を着てランドセルを背負い、笑いながら登校した。
教室に入れば、「昨日テレビ出とったやろー!」「東京行ったっちゃろ?」とクラスメイトに囲まれたが、ふたりは「んー、まぁちょっとだけね」と笑って受け流す。
そして、午前中の道徳の時間。
先生が読み上げたのは、『私の妹』という短い作品だった。重いテーマだった。
姉が妹を助けられなかったこと、いじめの加害者にも傍観者にもなってしまったことへの後悔、そして妹からの最後の手紙。
――読み進むうちに、光子の顔がゆっくりと曇り、優子の目にも涙が浮かんできた。
やがてふたりは、声も出せないまま、ぽろぽろと泣いた。
教室に静寂が落ちた。
普段は、どんな時もギャグを飛ばして笑わせてくれる光子と優子。
ふざけてばかりのふたりが、泣いていた。
クラスの空気が変わった。
真面目でおとなしい子も、いたずらっ子も、いつもは遠巻きにしていた子も、目を伏せたまま何かを考えていた。
授業の終わりに先生がぽつりと言った。
「涙を流した人が、弱いわけじゃないんです。大切なことに、心が動いた証拠です」
その日、給食の時間も、教室はいつもより静かだった。
光子も優子も、ふだんのテンションには戻らず、静かにごはんを食べた。
でも、昼休み。
ふたりはぽつんと校庭の隅で話し合って、しばらくして――
「よっしゃ!あたしらが明るくせんと、あかんばい!」
「うん、やっぱうちらの役目っちゃん。笑いと優しさの、ミックスジュースやけんね!」
そう言って、ふたりは笑顔で立ち上がり、再び“いつもの小倉姉妹”に戻った。
でも、ほんの少しだけ、大人びた優しさが、ふたりの中に芽生えていた。
道徳の時間――
読み聞かせられた作品『私の妹』は、決して長い話ではなかった。けれど、その一文一文が胸に刺さった。
いじめられ、助けを求めながらも救われなかった妹。
見て見ぬふりをした姉の、悔恨と赦しをめぐる手紙。
教室が静まり返る中、光子のほおを一筋の涙が伝い、優子の肩が小さく震えた。
ふたりが黙って泣いている。
その様子を見て、周囲の空気も変わった。
そして――
「……っ、う゛っ、うわあぁぁあああん!」
柳川拓実くんが、声を上げて泣き始めた。
机に顔を伏せ、肩を揺らして、こらえきれず、涙と嗚咽があふれていった。
優子がハンカチをそっと渡すと、拓実は顔を上げ、ぐしゃぐしゃの顔で「ありがとう…」とだけ言った。
普段は元気で、おちゃらけて、光子や優子ともよくはしゃいでいる拓実。
けれどこの日、彼の涙もまた、教室中の子どもたちにとって衝撃だった。
「……なんで、あんなことになるんやろね」
「気づいとったはずやのに、見て見んふりしてしまうんやろか……」
授業が終わっても、誰もすぐには立ち上がらなかった。
沈黙と、ぽつりぽつり交わされるつぶやきだけが、静かに教室を包んでいた。
先生は、教壇の前でしばらく黙ったあと、こう言った。
「泣いてくれて、ありがとう。それが、心の中に届いたという証拠です。
――今日、きっと、皆さんの中に大事な種がまかれました。
これから時間をかけて、その種がどう育つか、先生は信じて見守ります」
そして昼休み。
光子と優子は校庭の片隅で、拓実と肩を並べて座っていた。
誰もふざけなかった。けれど、誰も目をそらさなかった。
やがて、光子がぽつりと言った。
「……うちら、泣くんって、わるかことやなかっちゃんね」
優子がうなずき、拓実がうつむいたまま「ほんと、そうやね」と言った。
そして、午後の授業が始まるころには、光子と優子はほんの少しだけ背筋を伸ばし、
「さーて、午後も真面目にいくばい!ふざけんのは明日からね!」と、笑いながら言った。
それを聞いて、拓実も少しだけ笑った。
道徳の授業が終わった後も、教室にはいつもの賑やかさがなかった。
教室の片隅では、いつも元気な拓実くんが、涙をぬぐいながらぽつりとつぶやいた。
「……うちも、姉ちゃんおるけどさ。小さいころ、よう泣かせたっちゃね……。でも、本当は大好きやったっちゃん……」
その言葉に、誰もがじっと耳を傾けた。
静まり返った教室の中で、誰かがすすり泣く声が聞こえた。
ふだん、笑いでクラスを明るく包んでいる光子と優子の目には、まだ涙が残っていた。
「……いじめっち、ぜったいいかんよね」
優子がぽつりと、だけど力強く言った。
「うちは……うちは、誰かが泣いとったら、すぐに行くけん。ほっとかんけんね」
光子も、鼻をすすりながら言葉をつなぐ。
その日、クラスの誰もが「いじめ」という言葉を、他人ごととしてではなく、自分の問題として初めて真正面から受け止めた。
先生も、それをただの授業で終わらせず、一人ひとりに静かに語りかけてくれた。
帰り道、優子がふと光子に聞いた。
「みっちゃん……あの物語の“お姉ちゃん”って、どげんな気持ちやったっちゃろうね」
光子は、少し考えてから答えた。
「きっと……苦しかったけど、それでも、妹のことば大好きやったっちゃろうね……。だから、守りたかったっちゃろうもん」
優子はうなずいた。
「うちも……みっちゃんば守るけんね。ずっといっしょけん」
「うちこそやん。ず〜っと、やけんね」
ふたりは、いつものように笑って指切りをした。
夕暮れの博多の空に、オレンジ色の光が優しく差し込んでいた。
数日後。
昼休み、校庭の隅の、誰もあまり通らない裏庭のような場所。
光子と優子は、ひとりでトコトコ歩いていく男の子を目にした。
「……あ、あの子……」と気づいたときには遅かった。
草の生えたあたりの陰で、すでに数人の男子が、その子を取り囲んでいた。
「おまえ、また先生に告げ口したやろ!」「生意気なんよ!」
そう叫びながら、ひとりが肩を押し、もうひとりが足を蹴る。
「や、やめて……やめてください……」
細い声が、草の向こうから聞こえた。
――その瞬間、駆け出していた。
光子と優子が、ふたり同時にその輪の中に飛び込んだ。
「やめんかぁーーっ!!!」
光子の怒声が、校庭中に響いた。
「なにしよーとね!? 暴力やん! 人ば殴って、強くなったつもりかいな!? そげんとは強さやなかっちゃ!」
男子たちは一瞬、目を見開いた。
普段はギャグばっかり言って、クラスの笑いの中心にいるふたりが、真剣な目でにらみつけてくるとは思っていなかった。
優子が、涙をこらえながらその子のそばにしゃがみこむ。
「大丈夫? もう、うちがついとるけん。怖くなかよ」
光子は一歩前に出た。
暴力をふるっていた男子のひとりに、はっきりと言い放つ。
「人ひとり 泣かせて何が 面白か?
笑い取れんと 拳ば使うとか」
男子が一瞬、ぎょっとする。
「言葉の刃で笑い取らんと、拳で人ば黙らせるっち、そげん情けなかこと、うちにはできんっちゃん!」
もうひとつ、啖呵を切る。
「拳より もっと強かと 知っとーね
やさしか心 ばり強かとよ」
その場に、しんとした空気が流れる。
ふだんならケラケラ笑っている優子が、真顔で言った。
「うちはね、みっちゃんと約束しとると。泣いとる子がおったら、そっちに行くっち。絶対見捨てんっち。それが、うちの“やさしか子”の生き方やけん!」
男子たちは何も言い返せず、ひとり、またひとりと、うつむいてその場を離れていった。
残された子は、まだ震えていたが、優子の手を握りしめた。
「ありがとう……」
光子と優子は、ふたりしてその子の手を両側から握った。
「もう、だいじょうぶ。これからは、うちらがそばにおるけん。心配せんでよかよ」
その声は、優しさの中に、しっかりとした強さが宿っていた。
そして――
それを、廊下の向こうからじっと見ていた担任の佐伯先生の目にも、静かな涙が浮かんでいた。