笑って、泣いて、立ち上がる
2022年8月笑って、泣いて、立ち上がる
リハビリ病棟の窓際で、車椅子に座る美鈴は、リハビリ担当の理学療法士とストレッチをしていた。まだ体に力が入りにくく、長く寝ていた分、筋肉も衰えていたが――
「んしょっ、んしょっ……! イッタイッタッ! 太ももって、こんなに痛かったっけ!?」
「頑張れ美鈴! 脳みそだけじゃなくて、筋肉も記憶喪失かー!?」
「うるさい、エロ大魔王! リハビリ室で“悩殺ポーズ!”とか叫んだの、誰のせいか分かってんの!?」
――ツッコミ大魔王、今日も健在。
そんなやり取りを、理学療法士さんはニヤニヤしながら見守っていた。
「……おふたり、仲良しですね。ていうか、漫才ですか?」
「いやぁ〜、こいつとはもう、前世どころか“幽世”の縁でつながってたんで!」
「うまいこと言うなっちゃ! でも……そうだね、あの時ほんとに、優馬しか私に気づいてくれなかったんだもん」
ふと、美鈴が遠くを見つめる。
まだすべての記憶が戻ったわけじゃない。でも、彼と交わした言葉、笑った瞬間、怒った顔、手をつないだ感覚――それらが、少しずつ心の奥から浮かび上がってくる。
リハビリが終わった後、美鈴はベッドに戻る途中で、ふと足を止めた。
「ねぇ優馬。私、思い出してきた。あの夏の夜、二人で花火大会行ったでしょ? 浴衣着て、手つないでさ……」
「おぉっ、それ! そのあと、風呂で一緒になって……いや、これは病院で言う話じゃないな」
「……こらっ!」
軽く拳で優馬の胸を小突きながら、美鈴はくすっと笑った。
「でもね、どんな記憶よりも、私……あなたといる時間の空気が、好きだったんだなって思った」
「……うん。オレも」
不意に、美鈴の目から一筋の涙が零れる。
「……怖かったんだ。生きて戻れないかもしれないって。でも今、こうして笑って、またツッコめてる。――幸せだよ、私」
優馬は美鈴の涙をそっと拭いながら、にっこりと笑った。
「なーんだ、オレとおると、幸せでツッコミたくなるとか、オレ、幸せ製造機かいな」
「……自分で言うなっちゃ!!」
――バチン!!
病棟中に響く、愛のあるツッコミ。
それが二人の「いつもの音」だった。
看護師も患者も職員も、知らず微笑んでいた。
ただいまと、永遠を
退院の日。病院の正面玄関前には、花束を抱えた優馬が、少しソワソワしながら立っていた。
季節は春。桜が風に揺れ、花びらがふたりの未来を祝福するように舞っている。
ほどなくして、美鈴が車椅子に乗せられて、看護師に押されながら姿を現す。病衣ではなく、優馬が選んだ淡いピンクのワンピース姿だ。ほんのり紅潮した頬に、春の陽差しが反射して眩しかった。
「お待たせ〜……!」
優馬はゆっくりと歩み寄り、花束を差し出す。
「美鈴、おかえり」
「……うん、ただいまっちゃ」
そして、胸に飛び込む。
その瞬間、優馬の胸ポケットから、ひとつの小さな箱がするりと取り出された。箱をパカっと開けると、中には細い銀の指輪。小さなダイヤがひとつ、さりげなく光っている。
「……美鈴。オレ、本気で言うぞ。これからも、ずっと一緒にいたい。ギャグも、ボケも、エロ大魔王も、コチョコチョ大魔王も全部セットやけど……」
美鈴の目に、涙がにじむ。
「……それでも、オレと夫婦になってください」
その瞬間、車椅子から立ち上がり、彼女は言った。
「ばかっ……! そんなの、ずっと言おうと思ってたくせに……!」
涙を流しながら、手を差し出す。優馬は震える手で指輪をはめる。
「……へへ、似合っとるっちゃ。かわいい」
「……へへ、じゃあ、婚約祝いに――コチョコチョ返しじゃ〜っ!!」
「うわっ、ちょ、や、やめろ、わき腹はっ……ぎゃははははっ!」
――風に舞う桜の中、二人は笑い転げた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、双方の両親を交えての顔合わせ。
優馬の母はちゃきちゃきの博多弁で、
「うちの子が……やっと人並みに幸せになれるごたぁね〜!」
と涙しながら手を握り、美鈴の父は硬い表情ながらも、
「君がいてくれて、本当によかった。ありがとう」
と頭を下げた。
が、その感動ムードもつかの間。
「なぁなぁ、美鈴。この場で“悩殺ポーズ”やってみ? 両家の親公認でっ」
「……はぁ!? どさくさに紛れて何言っとるんね!」
――バチーン!!
「エロ大魔王、討伐完了!」とばかりに、美鈴のツッコミが優馬の後頭部に炸裂!
「はいはい、今度はコチョコチョ大魔王のターンっちゃ!」
「うひゃははっ! や、やめろ〜、お義父さんの前で〜〜っ!!」
笑いの渦の中で、両家の顔合わせはなごやか(?)に終了。
◇ ◇ ◇
帰宅後、ふたりで並んで入った湯船。
「……なんか、いろいろあったね」
「うん。でもさ、こうしてふたりで風呂入って、バカみたいなことで笑ってられるのが、やっぱ一番幸せっちゃ」
「おーし、じゃあ今夜は、久々に“悩殺セクシータイム”いってみっかぁ?」
「……コチョコチョ大魔王、発動じゃー!!」
「ギャー!」という悲鳴と笑いが、夜空に響いた。
――これが、小倉優馬と元・幽霊教師、黒崎美鈴の、最高で最低で最愛な婚約ストーリー。
そして、まだまだ続く「ボケとツッコミと、愛の生活」の始まりだった。
、生きてる。あなたと、笑ってる。
退院から数日。春の柔らかな風が頬をなでる中、美鈴は優馬と並んで歩いていた。リハビリで鍛え直した足取りは、まだ少しぎこちないけれど、確かに自分の意思で進んでいる。
「……私、きついリハビリ、ほんっっとに頑張ったっちゃ……」
ぽつりと漏れたその言葉に、優馬が振り返る。
「ん? どした、急に」
美鈴は空を見上げ、笑った。
「頑張った先に、こんな幸せが待ってるなんて、ほんと夢みたいやなって。あんとき幽霊で、床すり抜けるたびに床にぶつかってた私が、今こうして地面の上歩いとるんやもん」
「なつかしっ……って、床にぶつかるって表現おかしくない?」
「すり抜けた先に掃除機あったんよ、ガツンて。あれは痛かったっちゃ〜」
「幽霊なのに物理痛覚あるんかい!」
まるで昔のような、息の合ったボケツッコミ。ふたりの笑い声が、春の風に溶けていく。
◇ ◇ ◇
「ここ、覚えとる?」
美鈴が指さしたのは、福岡の天神にある、あのランジェリーショップ。
「ああ……思い出したくない黒歴史スポットやな」
「なによ〜、私のビキニに鼻血吹いたくせに〜」
「いやあれ、破壊力ヤバかったやん!? 黒ビキニ! ほぼ布なかったやん!」
「じゃあ今度、悩殺セクシー“改”で行くけん!」
「おい、鼻血で輸血必要になるからやめい!」
その後は、ふたりで訪れた海の中道。優馬が美鈴の手を引き、砂浜をゆっくりと歩く。波打ち際でじゃれ合いながら、何度もすっ転び、何度もコチョコチョされて、何度も笑い転げたあの頃。
「ほんと、幽霊だった頃のほうが、自由に動けとった気がするっちゃ」
「いやいや、すけすけモードで電車乗るのとか、オレのメンタル限界やったぞ」
「え〜、だって〜、幽霊でも通勤ラッシュは疲れるとよ? 電車乗っただけで、“痴霊”扱いされるのも地味にショックやったし」
「新語作るな! “痴霊”て!」
そして、夜はあの定番。
ふたりで並んで入る湯船。
「ほれ、コチョコチョ返しや!」
「ちょ、足の裏はあかん、アカンって〜! お腹ちぎれるぅ〜!」
「ギャハハハッ、弱点健在やん! やっぱ優馬は“笑い大魔王”やね」
「違う、オレは“被害者”やねん……!」
すっかり日常を取り戻したように見えて、でも――美鈴の頬には一筋、静かに涙が流れていた。
「……ほんとに、生きてるって、すごいことやね」
「……うん」
そしてその夜も、当たり前のようにふたりで布団に潜り込み、顔を見合わせる。
「なぁ、美鈴」
「ん?」
「こうして一緒におれるの、ほんまに奇跡やな。なんか、全部ギャグみたいな人生やけど」
「……それ、最高の褒め言葉やね」
「そやな。――これからも、ボケて、突っ込んで、笑い飛ばして、生きていこうな」
「うん。あんたのこと、ツッコミながら大事にするけん!」
――こうして、ふたりの“ギャグで繋がれた愛”の物語は、笑いながら続いていく。