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義妹に婚約者を奪われて家を追い出されましたが、知の力でのしあがります!

「お姉様。わたくしのリボン、踏みましたわよね?」


 そう言った瞬間、アウリスの頬に乾いた音が鳴った。


 ぱしん――という音とともに、体が揺れた。

 頬がじんと熱い。だが、痛みは感じなかった。もう慣れてしまったのだ。


「はしたない……まったく、前妻の娘はこれだから嫌なのよ」


 背後から義母が鼻を鳴らす。ソファに優雅に腰かけたまま、扇子を軽く振りながら、まるで汚物を見るような目を向けていた。





 アウリス・グレイア。伯爵家の長女でありながら、家の中での立場は使用人以下だった。


「ごめんなさい、ラシェル。わざとでは……」


「でも、お姉様っていつも無表情だから、わざとなのか偶然なのか、分からないんですもの」

「それに……このドレスも、お姉様のせいでほつれてしまいましたわ。母様、これはもう着られませんわね?」


「ええ。アウリス、ラシェルの新しいドレス代は、あなたの持ち物を売って補填しなさい。……まだ書庫に本を隠していたわね?」


 扇子がパタンと閉じられる音が、妙に冷たく響いた。


 アウリスは何も言わなかった。ただ、目を伏せ、唇をかたく結ぶ。





 本を、売れと――?

 あれは、母が残してくれた唯一の形見。たった一冊だけ、誰にも渡さず隠していた、魔導理論の古書だった。


「物が欲しければ、働けばいいのよ。ねえ、アウリス。あなた、最近“お嬢様”って呼ばれること、あるの?」


「……ありません」


「そうよねぇ。もう、召使いにでもなったつもりでいれば?」


 ラシェルが笑う。透き通った声で、天使のような顔で。


 アウリスは笑い返さなかった。ただ、床に落ちたリボンを拾い、ゆっくりと差し出した。


「……踏んでしまって、ごめんなさい」


 ラシェルはそれを受け取り、わざとらしく「ふふ、いいですわ」と言ってから、

 そのままアウリスの手の上にわざと落とすようにして紅茶をこぼした。


「あら、手が滑ってしまって。お姉様、拭いてくださるかしら? 指、使って」







 アウリスの部屋は、屋敷の西の端、かつて使用人が使っていた納戸だった。

 壁はカビだらけで、天井には雨漏りの跡。ベッドの代わりに干し草が敷かれ、毛布は一枚きり。

 冬は凍えながら眠り、夏は蚊と鼠に囲まれて眠る。


 夕食は与えられなかった。朝と昼に、パンの端切れとぬるい水が出るだけ。

 台所でこっそり何か食べようものなら、「盗み食い」としてまた平手が飛ぶ。


 でも、それでもアウリスは黙っていた。


 母の形見の本がある限り、自分は自分でいられる――そう信じていた。


 そして、運命の日。




 王宮から舞踏会の招待状が届いた。アウリスは読んだ瞬間に悟った。


 これは、婚約破棄を“公開処刑”のように発表する舞台だと。

 アウリスは王太子と婚約しているのだ。

 母が生きていたころは優しかった王太子も、今は冷たく会うことも滅多にない。


 義母は微笑みながらドレスを手渡した。黄ばんだ、サイズの合わない、昔ラシェルが着古したものだ。


「さあ、お姉様。王太子の仮初の婚約者らしく、堂々と振られてらっしゃいな」






 その夜、アウリスは埃まみれの鏡を前に、指先でそっと髪を梳かしながら、静かに呟いた。


「――よく覚えておいて、ラシェル。母様も。王太子も」


「あなたたちが私を見下したことを。……後悔する日が、必ず来る」



ーーーーーーーー



 宮廷の大広間は、まばゆい光に包まれていた。

 白大理石の床、金の装飾が施された柱、豪奢なシャンデリアが煌々と照らす中で、アウリスはただ立っていた。


 古びたドレスの裾は擦り切れていて、つま先に届かない。髪は自分の指で結っただけ、顔色は悪く、頬の痣はうまく隠しきれていなかった。


 周囲の貴族たちは、彼女を見て、あからさまにひそひそと囁き合った。


「まるで召使いのような格好ね……」

「まさか、あれが王太子の婚約者だなんて」

「ラシェル嬢のほうが、はるかに妃にふさわしいわ」





 そんな声の中、王太子セイランが壇上に立ち、微笑を浮かべて手を広げた。


「皆さま。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。

 本日、私はこの場で――新たな婚約者をご紹介いたします」


 隣に立っていたのは、ラシェルだった。金糸を編み込んだピンクのドレスに身を包み、薔薇の髪飾りを揺らして、完璧な笑みを浮かべている。


「わたくし、ラシェル・グレイアは、セイラン様のご意志に感謝し、このご縁を光栄に思います」


 拍手が広がる。ざわめきの中、アウリスは動かなかった。




 セイランが、まるで忘れていたかのようにアウリスへ視線を向け、口元だけで笑った。


「アウリス・グレイア嬢との婚約は、本日をもって解消とします」


 その言葉に、誰かが息を呑む音がした。




「理由を、述べていただけますか」


 アウリスは、静かに言った。会場に響き渡るような声ではなかったが、明瞭だった。


 セイランはわずかに眉を動かし、淡々と口を開いた。


「君は……妃としてふさわしくない。地味で無口で、感情が読み取れない。隣に立っていても、誰の印象にも残らない」

「君と話しても、いつも本の話ばかり。僕は、君との会話が、退屈だったよ」




 会場の空気が冷える。

 それでもセイランは構わず言葉を続けた。


「ラシェルのように明るく、気遣いのできる女性が、王太子妃にふさわしいと、私は判断した。それだけだ」


 ラシェルは隣で、芝居がかった申し訳なさそうな顔を作る。


「お姉様、本当に……ごめんなさい。でも、わたくしたち、自然と心が通じ合ってしまって……」


 会場の貴族たちは、気まずそうに視線を逸らした。

 あまりにも露骨な“乗り換え劇”に、賛同する者などいない。

 だが、誰も声を上げようとはしなかった。


 アウリスは一歩、壇上へと進み出た。


 どこかで使用人が止めようと動いた気配がしたが、それを無視して、王太子と義妹の正面に立つ。


 そして、指にはめていた婚約指輪を、静かに外した。


 銀の輪が、王子の足元に落ちて、ころころと転がる。






「……よくわかりました」


 アウリスはまっすぐにセイランを見た。頬の傷も、やせ細った手も、その目だけは揺れていなかった。


「あなた方にとって、私は“王太子の婚約者”という称号以外、何の価値もなかったのですね」


「ならば、その称号はお返しします。あとは……どうぞ、好きにお使いください」


 そして、ラシェルに向き直る。


「あなたに一つ、忠告を。

 セイラン殿下の好意を得たと思っても、それがあなたの価値を保証するわけではありません」

「“選ばれた”と勘違いしている女ほど、転がり落ちるのも早いものですわ」


 ラシェルの顔から、作り笑いがすっと消えた。






 アウリスはくるりと背を向け、まっすぐに会場を歩き出した。誰も止めなかった。誰も、声をかけようとしなかった。


 けれど、彼女の足取りは誇り高く、毅然としていた。


(私は……必ず、生き延びてみせる)


(この屈辱を、この夜を、終わりの日にしない)


(いつか、私を見捨てたこの国が……私の名を、必要とする日が来る)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 追放は、実にあっさりとしたものだった。


 舞踏会の翌朝、義母はまるでゴミでも捨てるように言い放った。


「王太子から婚約破棄された娘に、我が家の屋根の下で寝泊まりする資格はないわ。今すぐ出て行きなさい」


 使用人に持ち物をまとめるよう言われたが、アウリスには持っていくほどの物などない。


 唯一、母の形見である魔導書だけを腰に巻いた布に包み、背に抱えた。ドレスは舞踏会で着たボロ、靴は片方の底が破れている。




 屋敷の裏口から馬車に乗せられ、見送りもなく、出発を告げるベルの音さえ鳴らされなかった。


 道中、アウリスは何も語らなかった。使用人が冷たい視線を向けようと、道中の村人が「乞食の娘か」と囁こうと、彼女はただ前を見ていた。


 辿り着いた先は、国の最果て――セネリア辺境領。


 数年前の疫病と土壌の枯渇で人口が激減し、「死にかけの村」と呼ばれる場所だった。


 村長が一応迎えには来たものの、アウリスを見て目を細め、ぼそっとつぶやいた。


「また“捨て子”か。まあ、ここじゃ貴族の血も腹の足しにはならんがな」


 案内されたのは、空き家というにはあまりにも廃れた、崩れかけの家屋。屋根には穴、床は軋み、窓には板が打ち付けられていた。


「ここの管理を任せる。働く気があるなら、井戸掃除でも薪割りでも何でもやるといい。ないなら……知らん」


 それだけ言って、村長は去った。




 アウリスは、静かに息を吐いた。濁った空気が肺を焼くようだった。


 夜が来る前に、屋根の穴をふさいだ。土と藁と板を使って、応急処置にすぎないが、雨をしのぐには十分だ。

 拾った枝をくべて、小さな火を起こし、持参した水袋で顔を拭いた。


 冷たい水に触れた頬が痛んだ。まだ、昨日の義母の平手の跡が残っている。


 鏡はない。けれど、炎に照らされた自分の影が、あまりに痩せて小さく見えて、アウリスは少しだけ唇を噛んだ。


 それでも、泣かなかった。




 母の本を取り出し、火のそばに置いた。

 ページは擦れていたが、内容はすべて、頭に焼き付いている。


 だが、今日はあえて、声に出して読んだ。


「“知とは、刃なり。だが剣ではなく、世界を切り開く鍵となる”――」


 母がいつも読み聞かせてくれた言葉。




 そのとき、外から音がした。ガタ、ガラ、という小さな物音。


 誰かが、家の前に何かを置いた気配。


 そっと扉を開けると、そこには、くすんだ麻袋が一つ。中には、乾いたパンとくたびれた毛布が入っていた。




 近くに誰の姿もない。ただ、風に乗って、遠くからかすかな声が聞こえた。


「……あの子、かわいそうだよ。まだ若いのに」


「でも、貴族なんでしょ。関わらない方がいいって……」


 アウリスは、麻袋を抱きしめるように持ち上げた。


(私は、ここで生きる。施しでも、情けでも――今は、ありがたく受け取る)


(でもいつか、ただの“かわいそうな娘”ではなく、ちゃんとこの地で……役立つ存在になる)


ーーーーーーーーー



 セネリア辺境村に来て、三日が経った。


 朝は井戸の掃除、昼は薪拾い、夜は火を絶やさぬように板の隙間を塞ぐ。

 誰もアウリスに話しかけてはこない。けれど、誰も邪魔もしなかった。


 ──いや、一人だけいた。




「これ、昨日の残りだけど。……いらなかったら、捨てていいから」


 声の主は、村の鍛冶屋の息子・ユン。アウリスと同じくらいの年の少年で、いつも顔に煤をつけていた。


 その手には、冷めた野菜スープと硬いパン。


「……ありがとう。捨てたりしない」


 アウリスは、初めて村で笑った。




 その日の午後、薪を運んでいたアウリスは、村のはずれにある半壊れの小屋に気づいた。


 看板には、かすれて読めない文字。

 扉を開けると、そこには埃まみれの本棚が、何列も並んでいた。


(……書庫?)


 誰にも使われていない、古い“村の図書室”だった。


 本は破れていたり、湿気で読めなくなっていたりしたが、中には貴重な文献もあった。

 かつてセネリア村が薬草の交易地として栄えていた頃に使われていた、薬草辞典や土壌の記録――それらが、かろうじて残っていた。




 アウリスはページをめくり、目を見開く。


「……この土地、死んでなんかいない。ちゃんと息をしてる」


 彼女の母の魔導書と照らし合わせれば、土地の魔力循環が“偏っているだけ”だとわかった。


(腐敗しているのではない。流れが詰まっているだけ……なら、私でも修復できる)




 それからのアウリスは、村人の目を盗んで、図書室に通い詰めた。


 夜明け前に起きて水路を調べ、昼は作業をして、夜は古文書とにらめっこ。




 数日後、小さな畑の一角で、アウリスは薬草の栽培に成功した。


 芽が出たとき、彼女はほんの少しだけ涙をこぼした。

 それは誰にも気づかれない、静かな“反撃の始まり”だった。




 村の年寄りがつぶやいた。


「この村の畑に緑が戻るなんて、何年ぶりだろうな……」


「……あの子、もしかして、ただの“捨てられた貴族”じゃないのかもな」


 誰かがパンをそっと戸口に置いていく。

 ユンは堂々と毎日スープを運んでくれるようになった。


 アウリスは少しずつ、人の温もりを知っていく。

 そしてそれが、やがて村の運命を変える“始まり”になるとは、まだ誰も知らなかった。


——————————————-




 その日もアウリスは、村の図書室の埃まみれの棚を調べていた。


 本棚の裏に、板が一枚だけ外れかけている場所を見つけた。

 指をかけて引くと、カコンと空洞ができ、中から小箱がひとつ現れた。


 蓋には、あの印が刻まれていた。

 彼女の母の形見の魔導書と、まったく同じ印。――“アリュナの環”。


(……やっぱり、ここだった)


 小箱の中には、革表紙の古びた魔導書。

 そして一枚の羊皮紙に、こう書かれていた。


「この地に知は眠る。奪われ、隠され、封じられた“女たちの知”」


 アウリスの心臓が、高鳴った。


 それはかつて、帝国が“魔女狩り”と称して消し去った、知識と力の痕跡。

 母が命を賭して守った一冊の本も、その一部だったのだ。


(……なら、私は守る。母の意思を)





 その頃、王都では、王太子セイランの婚約生活に早くも綻びが見え始めていた。


「ラシェル、お前はまた舞踏会に遅刻したのか」


「だって、あのドレス……お姉様が着たやつに似ていて、嫌だったんですもの」


「……もう“お姉様”と呼ぶな。彼女はお前の姉ではない。君が追い出したのだろう」


 ラシェルの顔がひきつった。




 当初は“完璧な王太子妃”として周囲に持ち上げられていたが、ふたを開けてみれば、気まぐれとわがままの連続。


 セイランの母である王妃は既に不満を漏らし、重臣たちの間でも“前婚約者アウリス嬢のほうが相応しかった”という噂が広がっていた。




 そんな中、辺境・セネリア村での“土地再生”の報告が届く。


「……まさか、あのアウリスが?」


「殿下、現地には母親の魔導家系の痕跡もあるとか。“叡智の継承者”として報告が上がっております」




 セイランの手が小さく震えた。


 忘れていたつもりだった。あの灰色のドレスに身を包んだ娘。無表情で退屈だと決めつけた、無垢で誇り高い少女。


 ――今でも、夢に出る。


 もう一度会いたい、などと思ってしまう自分が、滑稽だった。




 王室は視察団を送り込むことを決定した。

 セネリア村の“知”が、本物であるかどうかを確かめるために。


 その同行者には、王太子と、その“現妃候補”ラシェルの名があった。




 一方アウリスは、図書室の地下に隠された文書からこの地にかつて存在した「女性たちの魔導自治圏」の記録を見つけていた。


 国が隠したかった真実――

 それは、かつてこの村が、知識と魔力で治められた“自由な女たちの国”だったこと。


(奪われたものを、取り戻す)


 アウリスはゆっくりと立ち上がった。


 母が守りたかった知。自分が蔑まれ、虐げられてなお信じてきた“学び”の力。


 この村を、“終わった地”ではなく“始まりの地”に変えるのだ。


ーーーーーーーーーーーーー



 王太子の視察団が、セネリア村に到着したのは、曇天の午後だった。


 供を連れて立ち並ぶ金の馬車。その中から、豪奢な緋のドレスに身を包んだ少女が降り立つ。


「なにこれ、田舎すぎる……空気が臭うわ。馬の匂いかしら?」


 ラシェル・グレイアは、白いハンカチを鼻に当てながらつぶやいた。

 村人たちは無言で彼女を見つめていたが、何も言わなかった。




 王太子セイランもまた、辺境の空気に不安を覚えながら、アウリスの姿を探していた。


(……どんな顔をすればいいのか、わからない)




 けれど、その不安は、次の瞬間に吹き飛んだ。


 村の奥――小さな図書室の前に立つ、青灰のローブ姿の女性が目に入った。

 やせ細っていたはずの彼女は、背筋を伸ばし、凛とした面差しで視察団を見つめていた。


 淡い銀髪を後ろで束ね、瞳には冷たい光。


「……まさか」


 セイランは思わず息を呑む。




 それはかつて、“退屈な妃候補”と呼んだ少女――アウリスだった。


 村の集会所にて、視察団と村人、アウリスが顔を合わせる。

 アウリスは落ち着いた口調で、土地の再生計画と、失われた魔導技術の成果を説明した。




「この村は、かつて“女たちの自治圏”でした。

 私はその知識を復元し、ここを再び自立可能な領に戻そうとしています」


 重臣たちは唸り、村人は静かにうなずいた。




 だが、ラシェルがそれを遮った。


「ふふっ……何を偉そうに。村に草を生やしたくらいで、自分が“何かになった”つもり?」


 視線を冷たく向けられても、彼女は止まらなかった。


「アウリスお姉様は……そう、いつだって地味で陰気で、本ばかり読んでて、つまらない女だった。

 この人が追放されたのは、当然の結果ですわ。殿下だって、そうでしょう?」




 視線が王太子に集まる。


 だが、セイランは何も言わなかった。むしろ、険しい目でラシェルを見ていた。


 その沈黙に、ラシェルは戸惑う。




「……ね? セイラン様? 私を選んだのは、間違ってなかったでしょう?」


 その問いに、村人の中からぽつりと声が上がった。


「だったら、なぜ王太子の婚約者としての務めを果たせなかった?」


「視察に遅刻、報告を偽造、貴族の舞踏会での振る舞い……皆、殿下が謝罪されていたぞ」


「村を見下し、土地を汚いと言った。あなたは“王太子の婚約者”としても、人としても失格です」


 次々に、村人が声を上げ始めた。


 


顔を青ざめさせるラシェル。手が震え、視線が泳ぐ。


「違うわ……わたくしは、妃にふさわしいのよ。

 だって、ドレスも、立ち居振る舞いも、勉強したの。お姉様より、きれいに……っ!」




「――“きれい”は、外側にしか宿らないのですか?」


 アウリスが静かに言った。

 声は静かだったが、会場にしんと響いた。


「あなたは何も学んでいない。誰かを踏みにじって得た地位は、やがて自分を壊す」




 ラシェルはその場で泣き崩れ、王太子もまた、何も言えなかった。


 ただ、黙ってアウリスを見ていた。彼女が、かつての自分とはまったく別の存在になったことを、否応なく思い知らされていた。





 その夜、王太子はアウリスに一人、頭を下げた。


「君を……傷つけた。許してほしいとは、言えない。

 でも、どうしても言っておきたかった。君は、僕が思っていたような人じゃなかった」


「ええ、違います」


 アウリスはまっすぐに答えた。


「私は“誰かに選ばれるため”に、生きているのではありません」


「私は、もう私のために、生きています」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 村の広場に、人が集まっていた。


 視察団の報告を受けた王都の重臣たちは、正式に提案を出したのだ。

「アウリス・グレイア嬢に、セネリア辺境自治領の“管理責任”を委任すること」を。


「この地を、再び生かしたのは君だ。

 ならば、君の名で未来を築いてほしい。それが……我々の出した答えだ」



 そう告げたのは、王都の老練な文官だった。王妃からの“黙認”も伝えられた。


 アウリスは静かに答えた。


「私はこの村で、生きる価値を見つけました。

 誰かの飾りではなく、誰かの影でもなく――自分自身として、必要とされたことを」




 彼女の言葉に、村人たちが頷く。

 かつて冷たかった目は、今は温かく、敬意に満ちていた。



 あの鍛冶屋の少年ユンが、こっそり袖を引っ張った。


「アウリスさん、村を……お願いできますか? オレ、この村好きなんだ。あんたが来て、変わったから」


 アウリスは微笑んで頷いた。




 視察団は撤退することになった。


 王太子セイランは、最後まで何も言わなかった。ただ、遠くからアウリスの背を見つめていた。



 一方、義妹ラシェルは、王宮での妃候補から正式に“失格”とされ、

 その日のうちに実家へ引き戻されることとなった。


 豪奢なドレスも、取り巻きも、もう彼女のそばにはいない。



「どうして……どうして、あんな地味で取り柄のないお姉様が……」


 泣き叫ぶラシェルの声は、王宮の誰にも届かなかった。






 アウリスはその夜、村の小さな丘の上に立っていた。


 見下ろす村は、いまだ荒れた家々も多く、課題だらけだった。


 けれど、薪を運ぶ者、畑に立つ者、火を焚く者――

 みな、彼女の“仲間”となっていた。




 その傍らに、小さな女の子がいた。

 破れた服を着て、片目に痣を隠している。かつてのアウリスのように。


「……お名前、あるの?」


「ううん。お母さんに“あんたなんていらない”って言われた」


 その言葉に、アウリスはそっと手を差し伸べた。




「じゃあ、私が名を与えるわ。君が“ここにいていい”っていう、証になるような名前を」


「え?」


「世界は残酷。でも、知識と誇りがあれば、生き抜ける」


「私もそうだった。だから今度は、君の番よ」


 少女の目が、はじめて光を帯びた。




 アウリスはその丘の上で、静かに言葉を刻む。


「私は、アウリス・グレイア。

 前妻の子であり、捨てられた娘だった。

 けれど今――私は、“女辺境爵”として、この地に立つ」


「私の名で、世界を変えていく。もう誰の影にもならない」


 そう告げた彼女の声は、風に乗って、静かに辺境の空を渡っていった。

 



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― 新着の感想 ―
自分の力で立つのってカッコイイよね!
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