ペトリコール・ランデブー -SideCASE1 血塗られた誕生日-
全ての始まりの日。全ての終わりの日。
『一人じゃさみしいでしょ?』
あの日、ナツミが声をかけてくれなかったら。
降りしきる雨の中、ケンヤは遠い記憶を思い返していた。
『ウチに来なよ。ママもきっと、喜んでくれる』
いきなり両親が他界して、状況の整理がまるで出来なくて、ただ無性にイライラして。
そんな状態のケンヤをナツミとその両親は嫌な顔せずに受け入れ、本当の家族のように過ごした。
小学校を卒業して中学に上がっても一緒。まるで兄妹のようだった。
「ナツミ……」
始まりはいつだったか。その日もこんな雨だったような気もする。
ケンヤは目の前の現実から目を逸らすように、いつしかの記憶に意識を落とした。
*****
「ナメた口聞いてんじゃねぇ!」
校舎の陰に隠れた場所で、高校生が取っ組み合いになっている。
暇を持て余した学生たちは遠巻きにその様子を見ながら盛り上がっていた。
「徹底的にシメなきゃ、そのバカな頭じゃ理解できねぇか」
ケンヤはいかにも不良風といった出で立ちの生徒の胸倉を掴み、これでもかと睨みつけていた。
「良いか? 教師に挨拶すんのは当たり前のことなんだよ。てめぇみたいにヘラヘラ笑って敬意を払わねぇやつが一番ムカつくんだ」
「へへッ……バカはお前だ。真面目ぶりやがって……あんなカス野郎に口聞いてやる必要はねぇんだよ」
「まだ言うか」
言うや否や、自身の頭を思い切りたたきつけ、そのまま右ストレートをその頬に叩き込んだ。
生徒はきりもみ回転しながら綺麗に吹き飛び、そのまま動かなくなってしまった。
「ちょ、ちょっとケンヤ! またあんたはそんなことして!」
人ごみをかき分けるようにして一人の女生徒がケンヤに近づいてくる。
「ナツミ!? 何やってんだこんなところで」
「それはこっちのセリフよ! 生徒指導なんて風紀委員か先生の仕事なんだから、あんたが出しゃばんなくて良いの!」
「お、おい、離せ!」
ナツミはケンヤの腕を引っ張りながら、人ごみの中へ戻っていった。
周りで見ていた生徒たちは巻き込まれないようすぐに道を開けた。
「またこのパターンか、相変わらずだな、あの二人は」
「あれでまだ付き合って無いって話だぜ?」
「マジで!? まだチャンスあるかも……」
話し声が聞こえてくる。
ナツミはそんな声もお構いなしにケンヤを校舎へ引きずっていった。
「だいたい、金髪頭のヒョロガリに言われたって、あいつらも懲りないって」
「うるせぇよ! これは細マッチョって言うんだ。……それに、どんなバカでも殴られりゃわかるだろ」
「そういうものなの?」
「それに、髪染めてんのはお前もだろ。ブリーチ入れてインナー赤じゃねぇか」
「いいでしょ、別に。髪型自由なんだし、それに……」
「それに?」
「……ケンヤ、こういうの好きかなって。可愛いし」
ナツミはごにょごにょと話している。
「あ? ハッキリ言えよ。聞こえねぇから」
「うっさい! ていうかそんな話するためにあんたを探してたんじゃないの」
引きずっていたケンヤを廊下に捨て、ナツミは何かを取り出した。
「なんだよ、それ」
「進路希望調査票よ。あ ん た の」
そして寝転がったままのケンヤの顔に持っていたA4の紙をたたきつけた。
「他の人に構ってないで、自分のことをもっと考えたらどうなの?」
ナツミは呆れたように言いながらしゃがみ込み、ぺちぺちと紙でケンヤの顔をたたく。
「……見えてんぞ」
「うっさい見んな唐変木。ちゃんと将来を見ろ」
ぐしゃ、と紙がケンヤの目をふさいだ。
「将来、か」
ケンヤが呟くと、ナツミは立ち上がりこう言った。
「屋上、行くわよ」
雨が続き、しばらく閉鎖されてから誰も使っていない屋上。緑色のフェンスに囲まれた、圧迫的でそれでいて開放的な場所。
"止まない雨"は異常気象として認知され、今や様々な街を海の底へ沈めるに至っている。ここ最近はずっと雨だ。
だが今日は珍しく夕日が雲の間からこちらを覗いていた。
「今日は晴れてて良かったわね。やっぱりここは何かを考えるにはちょうどいいもの」
水たまりを避けながら、ナツミは誰もいない屋上をフラフラと歩いている。
「……ナツミは、将来どうするんだ?」
「んー、あたし?」
ケンヤに問いかけられ、ナツミは夕日を背にして振り返った。
「あたしバカだからさ、どこの企業も欲しがらないと思うんだよね。だからフリーターやって、それなりに幸せに暮らしたいかな」
「フリーターか。それも良いかもな。バカだし」
「一言余計」
ナツミは頬を膨らませている。
「そういうケンヤはどうすんのよ。もう来月にはあたしたち、卒業すんのよ?」
「そうだな」
喧嘩ばかりに明け暮れていたケンヤは、この先どうしていくかなんて考えたことがなかった。
いつ死んでもおかしくないような、ヤバい奴らを相手にしたこともある。だがそれも全て自分の納得と筋を通すために自ら選んでやっていたことだった。
そんな刹那的な生き方をしてきたケンヤには、将来という漠然としたものはあまりにも遠い存在だった。
「……でもまずは、お前の両親に恩返しがしたいな」
それでも何をするべきなのかはすぐに見つけることができた。
「そんな。良いよ、幼馴染なんだし。当然のことをしただけだって」
「幼馴染だからってだけじゃなく、ちゃんと義理を通さないと」
「ほんとあんたって、そういうところはちゃんとしてるって言うか……」
やれやれとナツミは肩をすくめた。
「……俺は身体を動かす方が得意だし、現場で働くよ。給料は安いかもだけど、コツコツ貯めて、いつか返したいんだ」
「うん。良いと思う」
ナツミはそう言って笑った。夕日に負けない明るい笑顔だと、ケンヤは素直にそう思った。
*
「石動先輩! 私、ずっと先輩に憧れていたんです! つ、付き合ってください!」
卒業式の日。廊下で呼び止められたケンヤは、後輩の女子生徒からの告白を受けていた。
「ありがとう、気持ちを伝えてくれて。うれしいよ」
だがケンヤはこう続けた。
「でもキミとは付き合えない。ごめんね。今はそういうのは……考えられないんだ」
一転、表情を暗くした後輩は、涙を光らせ走り去っていった。
ケンヤは追いかけることも引き留めることもなく見送っていた。
「ふーん、今の子、かなり可愛かったのに、断っちゃうんだ」
そんな様子を伺っていたナツミが、ケンヤの背後から姿を現した。
「……盗み聞きとは趣味が悪い」
「たまたま聞こえてきただけよ」
今日のナツミはいつも以上に気合が入ったメイクをしている。卒業式だったからだろうか、とケンヤはぼんやりと考えた。
「な、なによ?」
「なんでも。お前も何やってんだよ、こんなところで」
「うっさいわね! あんたを待ってたのよ!」
顔を赤らめてナツミは声を荒げた。
「待たせて悪かったな。別に先に帰ってくれて良かったのに。友達とか、呼ばれなかったのか?」
「それじゃあ意味がないの! あんたじゃなきゃ、意味ないの」
珍しくナツミは取り乱している。いつもと違う様子のナツミに、ケンヤは困惑を隠せなかった。
「な、なんだよ、どうしたんだ? 俺に用事か?」
「そうよ! あんたに用事! だから待ってたの!」
息を切らしたらしいナツミが落ち着くまで、ケンヤはどう声をかければいいか分からずオロオロしていた。
「……あの子、なんで振ったの?」
徐にナツミがケンヤに問いかけた。
「なんでって……聞いただろ? 付き合えないって」
「"そういうの"って何? 何が考えられないわけ?」
「あれは……あの子と付き合うとか、そういうのは想像できなかったっていうか……」
「じゃああたしは!」
「……っ!?」
ナツミが一歩、ケンヤに近づく。
「あたしはどうなの!? あたしと付き合うのは……想像、できない?」
そして一歩、ケンヤから離れた。
「"家族"みたいなものだから……付き合えない?」
「それは……」
ナツミとの関係を聞かれたときにケンヤがいつも、言い訳のように使っていたセリフだ。
聞かれていると思っていなかったケンヤは何も言い返せず、無言の時間が流れた。
「……ごめん、やっぱり、今日のあたし、なんか変。やっぱり先に帰る」
ナツミはもう一歩下がり、振り返ってしまう。
「ま、待てって!」
ケンヤは一歩踏み込んで、ナツミの腕をつかんだ。
「やだ、離してよ!」
涙声でナツミは抵抗する。
ケンヤは訳もわからないまま必死にその腕をつかんでいる。
「離さない」
「もうイヤなの! あんたがいつか、どこかに行っちゃうんじゃないかって、そんな思いをするのは!」
「……!」
「でもあたしとは"家族"だから付き合えないって! なのにあんたは何人も振って!」
「見てたのか……」
「いいの、もう! これ以上こんな思い、したくない! だから――」
ケンヤは暴れるナツミの腕を引きその身体を抱き寄せ、そのままその口を自身の口で塞いだ。
「――!? ~~~ッ」
やがてケンヤの腕の中のナツミの力が抜け、抵抗できなくなったころ、ケンヤはようやく口を離した。
居場所を失い開いたままの口から漏れる呼吸音だけがしばらく二人を満たした。
「……な、なんなのよ」
ケンヤはナツミの目をまっすぐに見つめる。
「俺は怖かっただけなんだ。お前との関係が壊れてしまうのが」
「……っ」
「だから逃げてたんだ。答え合わせをすることから」
「でも……」
「……それでお前を苦しめていたなんて思っていなかった。だからもう、逃げない」
ナツミの肩に手を置いた。
「ナツミ!」
「ひゃっ、ひゃい」
「お前が好きだ! お前以外考えられない。……これからは恋人として、付き合ってくれないか」
すっかり目を丸くしてしまったナツミは、またその瞳を涙で潤ませた。
「うん……うん、もちろんよ!」
けれど、最高の笑顔だった。
*
「また感謝状? いったいどういう巡り合わせなんだか」
ケンヤとナツミは恋人同士になったわけだが、だからといって生活がすぐに変わるということもなかった。いつものようにナツミの両親と四人で食卓を囲んでいる。
「ケンヤくん、また何か危ないことに首を突っ込んでない?」
ナツミの母から心配されているが、ケンヤは笑ってごまかした。
「なぜか目に付くんすよね。窃盗犯とか」
「だとしても、これで何件目よ? そんなにこの辺、治安悪いとは思わないけどね」
呆れたような口ぶりでナツミは言う。
『――続いて、気象情報です。連日の異常気象は収まる気配を見せず、異様に発達した雨雲は現在も空を覆っています……』
「雨と言えば、水没都市の上に建てられた"水上都市アトランティス"ってもう住めるの?」
ナツミがナツミ母に尋ねている。
「まだほとんどが開発地域らしいけど、避難していた人たちの受け入れは済んだとか聞いたわよ」
そこまで言ってナツミ母は手をポンとたたいた。
「そうだ。二人とももう社会人なんだし、引っ越しなんてどう?」
あまりの唐突な提案に、ナツミとケンヤは顔を見合わせた。
「そろそろナツミも親離れしないと。ね、お父さん」
ナツミ父もうなずいている。
「……毎晩騒がれてはこっちもかなわん」
「ちょ、ちょっと、お父さん!」
ナツミ母がツッコむも遅く、ナツミは顔を赤らめて俯いてしまった。
「でも俺たち、そんな余裕ないというか……」
ケンヤはそう言うが、ナツミ母は止まらない。
「職場もあっちの方なんでしょ? 今と距離感も変わらないと思うし、ちょうどいいと思うの。お金も私が出しますから。ね、お父さん」
ナツミ父は"それは聞いてない"といった顔でナツミ母を見ている。
「良いの? 父さん」
ナツミが問いかけると、ナツミ父は困ったように頷いた。
「やった! ねぇケンヤ。あとで部屋探そ!」
ナツミは楽しそうにしている。確かにいつまでも両親に世話をかけっぱなしにするのも悪いかとケンヤは納得した。
「……でも、今晩からはちょっと声とか、控えめにしようね」
コッソリとケンヤに耳打ちするナツミ。ケンヤは何も言えず、頷くしかできなかった。
*
「おい新人! 頑張ってんなぁ!」
「うっす」
ケンヤは声をかけてくれた先輩に軽く会釈する。先輩がそのまま近づいてきたので、ケンヤは作業の手を止めた。
「聞いたよ。引っ越したんだって? 気合入るよなぁ」
豪快に笑う先輩はケンヤの背中をたたく。だがケンヤは先輩が担いでいる鉄骨が当たりそうで気が気ではなかった。
「……しっかし、雨ばっかりで嫌になるなぁ。特にここ、アトランティスじゃ止まない日は無いってくらい降ってやがる」
「そうっすね」
「それによくない噂も多いしなぁ」
「良くない噂?」
先輩は頷き、鉄骨を地面に置いてその上に座った。
「最近、妙な力を持った奴が多くてよぉ。警察も手をこまねいてんだとよ」
手を広げて、先輩は続ける。
「まるで飛んでるみたいに移動したり、あり得ない怪力でパトカー投げ飛ばしたり、電撃走らせて停電を起こしたり」
「……いや、漫画の読みすぎじゃないっすか?」
「それが、ほんとにあんだって! ……噂だけどよ。どうもそいつらが出始めたころ、"青い雨"が降ったんだってよ」
「青い、雨?」
「見たやつが居んだ。青く光る雨と霧。偶然にしちゃ出来過ぎだろ?」
雨とその能力に関係がある。先輩はそう言いたげだ。ケンヤはとてもその話を信じられなかった。
「青い雨にはもうひとつ、面白い噂があるんだけどよ」
先輩の話は続く。
「その雨とか霧の中に、天使が居たって言うんだ。オレは流石に飲み過ぎただけだろうって笑ったんだけどよ。そいつが絶対に見たって聞かねぇんだ」
「天使って、どんなすか?」
「そりゃあお前、天使っつったら、羽生えた可愛い女子だろうが。……だからオレはそいつに言ってやったんだ。酔った勢いで可愛がりすぎて、女子がイッちまったんじゃねぇかってな! ガッハッハッハ」
いまいち信用できない話だが、所詮は噂。ケンヤは話半分にしておくことにした。
(力を持ったやつが警察の手から逃れてる……か。気にしておくか)
*
「どう? ケンヤ。この街にも慣れた?」
ケンヤがリビングでゆっくりしていると、ナツミがカップを持って入ってきた。
「そっちこそ。バイト、大変じゃないのか?」
「それはもちろん。……だけどケンヤも頑張ってるし、この生活続けるためにも、頑張らないと」
はいこれ、とナツミがカップの一つをケンヤの前に置く。中身はホットミルク。これは"一緒にいたい"というナツミからのサイン。実家に居た頃からナツミは決まってこれを出す。
「……こっちおいで」
ケンヤはナツミの肩を抱き寄せる。ここは二人だけの空間。もう誰の目を気にする必要もない。
「……ねぇ、ケンヤ」
いとおしいその頬に手を添えて顔を近づけたケンヤを、珍しくナツミは制した。
「もう危ないこと、してないよね?」
「…………仕事は危険と隣り合わせだけど?」
「茶化さないで。警察の真似事はもうやめてって言ってるの」
それは正義感と言うべきものがそうさせるのだろうか。ケンヤは犯罪行為を感知し、犯人逮捕に協力することが多くあった。その功績から贈られた感謝状の枚数はもう数えていない。
「犯人捜しなんて警察の仕事なんだから、あんたが出しゃばんなくていいの」
ナツミは頬を膨らませ、ケンヤの額を指先で突いた。
「……ははっ、なんか前にもこんなこと、あったよな」
「そう? まぁあんたが余計なことに首ツッコむのは、今に始まった話じゃないか……」
ナツミは優しく微笑み、瞳を閉じた。
*
同棲生活は上手くいかないものだという話を聞いていたが、幼いころから一緒に過ごしていたからか、ケンヤは特に今日まで不満なくナツミと暮らしていた。
アトランティスの開発地区の仕事も慣れてきて、ケンヤの活動範囲もかなり広がっていた。
「おい、あれ見ろよ!」
そんな時だった。昼休憩にご飯ついでに街を歩いていたケンヤは、耳に入った声に上を見上げた。
「あれが"空飛ぶ鯨"か! RAINは本当に存在するんだ!」
その声に次々に街の人々が足を止める。
(空飛ぶ鯨……RAINか、ますます訳の分からんことになってきたな……)
最近のトレンドはもっぱらこれ。青い雨の中に見える幻覚……もとい、RAINの一種、空飛ぶ鯨。
青い雨が降る上空に現れるその鯨は、集団幻覚としか言いようのない、なんとも現実離れした光景を見せている。
あの鯨が現れてから、青い雨が見せる幻覚にRAINと名前が付き、今や社会現象となっていた。
「おい! 誰かそいつを捕まえてくれ!」
そんな鯨に視線を奪われていたケンヤの横を、何かを抱えた男が凄まじい速度で走り抜けていった。
「強盗だ! 頼む、誰か!」
ケンヤはその声を聴くが否や走り出していた。
防水の作業服を着ていたのが幸いし、全力で走ることができる。
だが雨の降りしきる街は、昼時というのもあって人が多く、視界が悪い。
「きゃあ!? なに!?」
「雷か!?」
だが、そいつの行く手はすぐに分かった。街中でいきなり電撃が走ったのだ。
(嘘だろ……まさか、あれが噂の?)
引っ越してすぐ先輩に聞かされた話を思い出す。妙な力を持った奴が居るとか――
――――!!
けたたましい音を立てて雷撃が街を襲う。一瞬にして街はパニック状態に。
だが、なんとか人をかき分け、犯人の背中を追いかけるケンヤ。
ついに開発区の路地で犯人に追いついた。
「止まれ! 逃げても無駄だ!」
ケンヤの声が届いたのか、犯人は足を止めた。
そしてケンヤの方へ振り向き、何かを突き出した。
(あれは――拳銃!?)
パンッ――――
肩を何かに殴られたかのような感覚にケンヤは足を止めた。
パンッ、パンッ、パンッ――――
続けざまに三発。衝撃に耐えかねたケンヤは後ろに倒れる。
(ああ――――クソ)
雨が地面を叩く音に混ざり聞こえる犯人の足音が遠のいていく。
(顔はしっかり見たからよぉ……次会ったら覚えとけよ、クソが)
痛みというよりは、寒気の方が強い。指一本動かせない。ケンヤはただ、空を見上げる事しかできなかった。
(あれは……鯨……か? じゃあこれは、青い……雨……)
不思議と辺りが青っぽく光り始めた。
だがそんな光景もケンヤの目にはほとんど映っていない。
(すまねぇ、ナツミ……)
重すぎる瞼に抗う力も残っていない。ケンヤは落ちていく意識に身を任せ、目を閉じた。
*
「……っは」
死んだと思っていた。だから目が覚めたら天国か地獄か、どちらにいくのか証明できると思っていた。だがケンヤの想像に反して、そこにあったのは白い天井。
「もう、何やってんのよ、このバカ!」
そして目を赤く腫らしたナツミの顔。
「ここ、は……?」
「病院よ。あんた、血まみれで倒れてたって」
起き上がろうとするが、ケンヤはその激痛に再び身体を寝かすことしかできなかった。
「ほんっとバカね。あれだけ言ったのに」
ナツミは呆れたように笑って、ナースコールをした。
飛んできた医者に、とてつもない回復力の持ち主と称されたが、ケンヤはまだピンと来ていない様子だ。
「傷口は瘡蓋で塞がっていて……輸血しただけでここまで回復するなんて」
弾丸の摘発手術をしてくれた医師も困惑の声色だ。
銃弾を四発も撃ち込まれたのに、輸血だけで生還。確かにそう言われると、とてつもない回復力というのも頷けるかもしれないと、ケンヤは医師の話に相槌を打った。
「……ともあれ、銃弾で撃たれたのは間違いないんです。傷口が完全に塞がるまでは絶対安静でお願いしますね」
そこで反省してなさい、とナツミは帰ってしまった。
仕方ないのでケンヤは再び目を閉じて、己の身体の修復を待つことにした。
*
「話があります」
ナツミはいつになく真剣な顔でケンヤを呼び止めた。
「……おう」
たった3日ですっかり傷の治ってしまったケンヤは、すでに仕事にも復帰していた。
だが、ナツミはあの日の銃撃の件についてはケンヤに何も聞かなかった。
だからケンヤも何も話していなかったが、ついに問いただされるのかと覚悟を決め、いつものローテーブルの座る位置から変え、ナツミの正面に正座した。
「ど、どうしたんだよ」
「ケンヤ」
「……」
「あのね、言いたいことはいっぱいあるけど、今日は、そろそろケンヤに落ち着いてもらいたいなって話をします」
こんな他人行儀なナツミはこの長い付き合いで初めて見たかもしれない。ケンヤはどことなく感じる嫌な予感から必死に目を逸らしていた。
「あの日、何をしてたとか、何があったとか、今更聞く気はないけど、約束して欲しいの」
「約束……」
「そう。約束して。もう金輪際、そういう犯罪に首を突っ込まないって」
相当怒っている。いや、かなり無理して感情を抑え込んでいる。ケンヤは長年の付き合いからくるカンでそう察した。なにか言い間違えるとナツミは爆発してしまう。そう確信した。
「……分かったよ。誓う。もう危ない真似はしない」
「本当でしょうね? ……頼むわよ、あんたももう、お父さんになるんだから」
「え……?」
そう言ってナツミは何かを見せてきた。
プラスチックの棒……妊娠検査薬だ。
「嘘だろ……本当に?」
ナツミは何も言わずに頷いた。
思わず立ち上がったケンヤは、ナツミの方へ駆け寄り、そのまま抱きついた。
「ああ……その、なんて言えば良いのか……」
「大丈夫。分かるから。落ち着いて」
ケンヤは言われて深く呼吸をした。そしてナツミの両肩に手を置いてまっすぐに目を見つめた。
「……結婚しよう。ナツミ」
「……うん」
「絶対にキミを守る。必ずキミを幸せにしてみせるから」
「うん……うん」
ナツミは頷きながらも、あふれ出る涙を抑えることができなかった。
ケンヤもつられて瞳を潤ませながら、再びナツミをその腕に抱いた。
*
「今日も精が出るなぁ、ケン! ガッハッハッハ」
「うっす」
新人に指示を出し、ケンヤは先輩の方へ振り返った。
「なんかいつも以上に張り切ってるなぁ。なんか良いことあったか?」
言われて自分の頬が緩んでいたことに気づいたケンヤは、とりあえず笑ってごまかすことにした。
結婚指輪は作業中に破損するのが嫌で外しているので、結婚生活に浮足立っているとは分からないはずだ。
「いやぁ、あはは……給料日も近いんで」
「そうさなぁ! ケンも頑張ってっから、ちっと色付けて貰えるよう言っとくからなぁ!」
豪快に笑う先輩。ケンヤはありがとうございます、とお礼を返す。
「そんでたまには飲みに行くかぁ! 最近また可愛い女子が増えてきてっからなぁ!」
肩に腕を回して笑う先輩に、ケンヤも相変わらず元気だなぁと笑い返した。
――――ビュウッ
瞬間、体が吹き飛ぶかと思うほどの強風が辺りを疾走った。先輩がいなければ本当に飛ばされていたかもしれない。
「おい!! 避けろ!!」
頭上から叫び声が聞こえてきた。見上げると、クレーンで持ち上げていたはずの鉄骨が何本も降り注いできていた。
「嘘だろおい!!」
急速な死の予感に鼓動が激しく警告音を鳴らしている。ケンヤは咄嗟に先輩の身体を突き飛ばした。
先輩とケンヤの対格差なら先輩が少しよろけるくらいが関の山だが、火事場の馬鹿力なのか、先輩の身体はいとも簡単にケンヤから離れていき、遠くでしりもちをついたのが見えた。
(こんなところで死ねるかよ……!!)
体内の血が沸き立つような衝動的な感覚がケンヤを襲うが、身体は思うように動かない。
「何やってんだ! ケン!!」
先輩の叫びは届かなかったのか、ケンヤを取り囲むように砂煙を上げながら、鉄骨が地面に突き刺さっていく。
何本か刺さったところで、煙から何かが飛び出した。
「クソ痛ぇ……!!」
鉄骨の雨から転がり出てきたのは、腕を押さえた状態のケンヤ。鉄骨と接触したようで、腕から流血してしまっている。
「お、おいおい、大丈夫かよ!?」
慌てて先輩と周りにいた数人がケンヤのもとへ駆け寄った。
「ちょっと見せてみろ……って、なんだこりゃ!?」
ケンヤが押さえていた腕を見ると既に血は止まっており、傷口を覆うように血液が固化している様子が見られた。
「石みたいになってんじゃねぇかよ……どうなってんだ?」
先輩の驚きでケンヤもようやく事の重大さを理解し、自身の腕を確かめた。
水晶のように光沢のある状態で固化している血液。触れると自分の体内に血液が戻ってきているような感覚があった。
「頭からも血が出てんぞ! ケン、立てるか?」
言われてケンヤは頭を押さえた。たちまち傷口が何かに覆われる感覚がケンヤを襲った。
「……何が起きてるんだ?」
ケンヤは押さえていた手のひらを見る。
鮮血がべっとりと付いているが、固化する様子はない。
何気なく手を握ったり開いたりしてみると、細かい結晶になった血がボロボロと手のひらからこぼれていった。
「ほら、肩、貸してやる」
反応の鈍いケンヤを見かねて、先輩は屈んでケンヤの腕を肩に回した。
なんとか立ち上がったケンヤは、遠くから聞こえてくるサイレンの音をぼんやりと聞いていた。
*
「これは、あなたの能力だと思われます」
銃撃にあった時からケンヤの担当医になってくれている医師は、結晶化した傷口を見てそう言った。
「ギフト……?」
「そうです。……"青い雨"。心当たりはありませんか?」
ケンヤは言われて思い出す。銃撃にあったあの日、空には"空飛ぶ鯨"の姿があった。
心なしか、降る雨は青かったように感じる。
「あの雨の影響で、RAINからの贈り物……GIFTを得ることがあるそうです。あなたもその可能性が非常に高い」
曰く、"空飛ぶ鯨"が出始めてから頻繁に降るようになった"青い雨"によって、GIFTという特殊な能力を発現することがあるらしい。その能力者たちを"ギフテッド"と呼んでいて、研究が盛んに行われているとかなんとか。
「あなたの場合、同時に命も救ってもらったわけですから運がいい。RAINには感謝しないといけませんね」
血液の結晶化や超回復、そういった特殊能力をRAINは授けてくれたらしい。ケンヤはすっかりきれいになった手のひらを見た。
(……人間やめちまったってことだよな? ナツミになんて説明すんだよ、これ……)
ケンヤの浮かない表情を見てか、医師は続けてこう言った。
「確かに特異な能力を持った人間は、それなりに怪奇の目で見られるでしょうが、普通にしていればただの人間です。むしろ、マジックやドッキリの類で隠し玉として使われることもあるそうですよ」
たまにGIFTを悪用した犯罪者もいますが、と医師は漏らしているが、どうも安心させようとしているらしい。ケンヤは頷き、医師に礼を告げて病室を出た。
*
「……と、言うわけらしい」
家に帰ったケンヤは何も思いつかなかったため、ナツミにそのままありのままを伝えた。
「ふぅん、才能ねぇ。……うまいこと言うじゃない」
キッチンで夕飯の準備をしているナツミは感心している。
「よくわかんないけどさ。ケンヤがすごい力を手に入れたってことは分かった」
「おいおい……」
「まぁ良いじゃない。現にこうして生きてるわけだし」
言われてみてケンヤは確かにとうなずいた。
あの鉄骨事件では奇跡的に死者0、負傷者数名という軽めの事故で済んでいた。
突発的な暴風のせいというのと、安全ネットなど落下防止策は施されていたこともあり、不慮の事故として大事にはならなかった。
だが事故は事故なので、とりあえず1週間の休暇が言い渡されている。警察が立ち入って状況確認を行っていて現場に立ち入れないのもあり、ケガの療養に使ってほしいとのこと。
「あたしも今のバイト先には産休って言ってて。明日からは内職なの」
「へぇ」
「……久しぶりに、1日中ゆっくりできそうね」
ナツミは嬉しそうに話している。
「痛っ!」
だが手元が狂ったのか、小さな悲鳴が聞こえた。ケンヤは慌ててキッチンに入っていく。
「大丈夫か?」
「平気よ。ちょっと切っちゃっただけ」
「見せてみろ」
ナツミの細い指先から鮮血が流れている。どうやら包丁で切ってしまったようだ。
「こんなの、舐めたら治るから。絆創膏とるから……」
ケンヤは何も言わずにその指を口に含んだ。
「ちょ、ちょっと……やっ、舐めないでよ」
ナツミは困った顔をしているが止めない。
「恥ずかしいって、もういいでしょ」
言われてケンヤは口を離した。そして指先で傷口を軽くなでた。
「ほら、治った」
「え……?」
唾液で濡れた指先からはもう血が出ておらず、傷口は何か固いもので塞がれていた。
「……すごい。どうやったの?」
「わからん。でも触れた血液は固められるらしい。自分のしかやったことなかったが」
「これが、能力……」
未だ信じられないといった様子でナツミは指先を見ている。
「ねぇ、名前つけましょうよ」
「名前? なんの?」
「その能力のよ。せっかくケンヤだけの能力なんだし、カッコいい名前があった方がいいじゃない?」
ナツミは楽しそうに笑っている。そこまでウキウキされると無下にもできない。ケンヤはあきらめて名前決めに付き合うことにした。
「そうねぇ、血を操る能力だから、"ブラッド"とか、どう? カッコよくない?」
「ブラッド……」
ケンヤはその名前を口にしてみた。
「……安直だが、良いんじゃないか?」
「一言余計」
ナツミは頬を膨らませ抗議している。
「……ついでにこっちの名前も考えようか」
ケンヤはナツミの膨らんできたお腹を手でさする。
「まだ男の子か女の子かもわからないのに、気が早いんじゃない?」
「きっとあっという間だぞ? 今何か月だっけ」
「もう5か月よ。産婦人科の人も、来月の検査で男の子か女の子かわかるかもって」
ナツミの頭を抱き寄せ、ケンヤはその体温を確かめた。
そう、思い返せばあっという間だ。この間までつわりで大変だったが、今はもういい思い出になっている。
「じゃあどっちでも良いように、男の子の名前と女の子の名前を考えようか」
「そうねぇ……」
ナツミは愛おしそうに自身のおなかに手をやり、うーん、と頭を捻っている。
「……やっぱり今は決められないわね。あたしが男の子の名前を考えるから、あんたは女の子の名前、考えて」
「良いのか? 普通、そういうのって逆なんじゃ」
「良いの。あたしの生まれ変わりだと思って、ちゃんと考えて来て。あたしもあんたの生まれ変わりだと思って考えてくるから」
縁起でもない。だが、考えるスタンスとしては確かに一つあるかもしれない。ケンヤはうなずいた。
「リミットはこの子が生まれてくるまで。良いわね?」
返事の代わりに、ケンヤはナツミと口付けをした。
*
それから3か月、ケンヤとナツミは平穏な日々を送っていた。
仕事に復帰したケンヤは先輩に改めて結婚していたことを告白し、子供ももうすぐ生まれると伝えたところ、上司に掛け合ってくれ、育休として長期休暇を取ることになった。
補助金だとか祝い金の前払いだとかで大量の金銭が贈られてきたが、先立つものは必要だとケンヤはありがたくそれらを受け取ることにした。すべてが終わったら、貰った分しっかり働こうと心に決めた。
ナツミの方はと言うと、バイト先とのトラブルも特になく産休に入り、できる範囲の内職をして、生活費の足しにしていた。
体調も頗る良く、産婦人科の担当医からも太鼓判を押されていた。
「ケンヤ、もう名前決まった? 来月出産予定だって」
ナツミはもう待ちきれないといった様子。ベビーカーなど赤ちゃん用品のカタログを机の上に広げている。
「あたしはもう決めたよ。"トウヤ"にする。才能を磨く人って意味」
一生懸命調べたのだろう。随分と大きくなったおなかに向かって語り掛けている。
「ケンヤも早く決めなよ? 『はやくなまえきめろー』って、おなかの中で騒いでるんだから」
ほら、蹴ってるよ、とナツミは嬉しそうにしている。
だがケンヤは結局名前を決めそびれていた。ナツミが生まれ変わっても、ナツミのままでいて欲しい。そしてきっとまた恋をする。そう思ってしまい、良い名前が浮かばなかった。
「あ、だからって適当に決めないでよ? わかってると思うけど」
「ああ、分かってるよ」
ケンヤは机上に広げられた雑誌を見て、この先の未来を想像することにした。
*
だが、その時は突然来てしまった。
朝まで元気に日課をこなしていたナツミが床で倒れているのをケンヤが発見した。
「お、おい、しっかりしろ!」
何とか抱え起こすと、ナツミは額に汗を滲ませ、苦しそうに顔をゆがめていた。
「えへへ……おかしいな、あと3週間はあったはずなのに……」
その言葉ですべてを察したケンヤは、『ともかく何かあれば産婦人科』とナツミが言っていたのを思い出し、すぐに電話をして指示を仰いだ。
『えぇ!? 陣痛もう来ちゃったんですか!? わ、分かりました。今から言う番号でタクシーを呼んでください……』
焦る気持ちをなんとか抑えて、言われた通りにタクシーを呼び、インターホン前でナツミの手を握りながらタクシーが来るのを待つ。
震えて汗の滲むナツミの手を握っていると、抱きかかえてでも連れて行った方が早いのではないかと考えてしまう。
だがタクシーはケンヤが飛び出してしまう前に到着し、運転手の人に手助けされながらも移動の準備が整った。
「お父さんはとにかく落ち着いて。大丈夫ですから」
乗り込むなり何か言いかけたケンヤを運転手はなだめる。ケンヤが座り直したのを見て、タクシーは音もなく走り出した。
休日の昼間ということもあり車も多い。裏道を器用にすり抜けてくれているが、それでも通らないといけない大通りでつかまってしまう。
「こんな時に……」
雨の止まない街とはいえ、ここまで渋滞するのも珍しい。ケンヤは車列の先を確認した。
「……? なんだ、ありゃ」
見れば、交差点の真ん中で人が立っている。
フードを目深に被った、背の低い男。
そこまで見れた次の瞬間――――
――――!!
雷撃が襲った。
「おいおい、あいつ、まさか……」
あの雷撃、そしてフードの奥の顔。確かに見覚えがあった。あの日ケンヤを撃った窃盗犯だ。
「知合いですか? ともかく、ここを迂回しないと」
運転手が咄嗟の判断で車列を抜けようとするが、前後の車が一斉に動き出し、車の列が乱れ、身動きが取れなくなってしまった。
「ぐぅ……ッ!」
「だ、大丈夫ですか!?」
激しい衝撃に運転手が顔をしかめる。足が前の車両に押されて運転席に挟まってしまったらしい。
「しっかりしてください、出血は止めますから……!」
ケンヤはすぐさま"ブラッド"を発現させ、運転手の足を結晶化させた。
「……お父さん、あなたは一体……」
「良いから、救急車を呼んでくれ。タンカーでも何でもいい。ともかく移動手段を確保してくれ」
「それは……ええ、もちろん。ですが、あなたは」
「俺は、やることがある」
タクシーの扉に手をかけたケンヤの袖を、横になったナツミが引っ張った。
「……ダメ。いかないで」
ナツミの苦しそうな声にケンヤはたじろいだ。
ドン――――ッ!!!!
近くで爆発が起きた。車が引火したのだろうか。雷撃は鳴りやまない。
「……あいつを止められるのは、俺しかいない」
「でも……」
言いかけたナツミの声は、外の爆発音と振動で遮られてしまった。ケンヤは混乱する頭でなんとかナツミに落ち着いてもらおうと、笑顔を作った。
「大丈夫だ。俺のブラッドでなんとかする。……安心しろ。必ず帰ってくる」
何か言いかけたナツミの頭をなで、ケンヤは親指の爪を無理やり砕いた。
同時にタクシーのドアを蹴破り、大混乱の幹線道路に飛び出した。
「この間はよくもやってくれたなぁ」
ケンヤは逃げ惑う人々の流れに逆らって、騒ぎの中心へ歩みを進める。
手は自身の血で染まり、何かを形作ろうとしている。
「……っ!」
フードの男がケンヤを目で捉えた。ケンヤの目に映るその窃盗犯は、腕がいびつに変形してしまっていた。まるで別の生き物の腕が途中から繋ぎ合わされたかのような腕だ。
「うぉ!? あぶねッ!」
真っ直ぐに雷撃が飛んでくる。ケンヤは何とか躱しながら距離を詰めていく。
「ハッ……!」
間合に入ったタイミングで短く息を吸い、ケンヤは拳を振りかぶった。
バッッッーーーー
その拳が血液の結晶を纏うのと、その攻撃が電撃の壁により塞がれたのはほとんど同時だった。
「この……ッ!」
凄まじい音と光に包まれ、ケンヤは自身の意識を保つのに必死になっていた。気を抜けば持っていかれる。そんな確信が拳を通じて伝わっていた。
「ぐ……お……!」
服が裂け、腕が裂け、肩が裂け、それでもケンヤは退かなかった。
ブラッドの能力でケンヤの傷はみるみる回復していくが、痛みだけは蓄積されていく。
(なんだ、この感じ……? 身体中が沸騰してるみたいだ)
無限の回復力があるとはいえ限界があった。ケンヤの拳が一瞬引いてしまう。
窃盗犯はケンヤのその一瞬の隙を見逃さず、瞬時に回し蹴りでケンヤを突き放し、雷撃の雨を放った。
「……ッ! ぐぉあああああああ!!!」
防御姿勢は間に合わず、ケンヤはその攻撃をモロに喰らってしまう。
そのまま地面に叩きつけられるようにして転がったケンヤは動かなくなってしまった。
(……痛いのもらったなぁ……。けど、なんだ……? この奥底から溢れ出してくる"衝動"は)
フラフラと、ゆっくりと、ケンヤの身体は起き上がる。
四肢はズタボロ、傷口を塞ぐのに血液を消費したからか、顔色も悪い。
(なぜ、まだ起き上がれる? まるで……俺が俺じゃ無いみたいだ……)
その傷だらけの両手を眺めるケンヤ。
「……!! ぐ、ぐぉ……ぁあ……!」
その手から何かが生えてきている。羽のような、結晶体。
それはすぐに全身に伝わり、ケンヤの身体を覆い尽くした。
パリンーーーー!!
ヒビ割れ、結晶体は砕け散った。まるで蛹から羽化するように、中からそれは姿を現した。
「uraaaaaaaaaaa!!!!!!」
声にならない叫び声。それは悲鳴か、歓声か。
その産声は地面を震わせ、大気を揺らした。
「なんだあれは!?」
「赤い……怪物?」
触手のようなうねりを持った全身は、辛うじて人型を保っているが、それは人と形容するにはあまりにかけ離れた姿をしていた。
そんな怪物を遠巻きに見ていた人たちに、その怪物は腕を向けた。
(血と……銃弾。俺はその銃弾で命を受けた"ブラッド"だ)
腕は波打ち、銃身へ形を変えた。
途端、銃口を向けられた外野たちは再びパニックに陥り、散り散りに逃げていく。
「無視してんじゃねぇぞ!」
この声は窃盗犯のものだ。ブラッドは瞬時に理解し、その銃口を向け直した。
バンーーーーー!!
放たれた弾丸は窃盗犯の身体を貫いた。
そしてその内側から赤黒い槍のようなものが突き出て、窃盗犯の身体は木っ端微塵に吹き飛んだ。
血の雨が降り注ぎ、ブラッドは次の標的を探して銃口を泳がせた。
(全部……全部破壊し尽くしてやる……!)
衝動のままに銃弾が放たれていく。
車、街灯、信号、ビルや野次馬相手にもお構いなし。
血の雨が降り注ぐ惨状はものの数秒で完成してしまった。
「gararararara!!!!」
誰も手出しできない。できるわけがない。
だがそれでも近付いてくる人影に気付いたブラッドがすぐにそちらに銃口を向けた。
(……!? な、ナツミ……!?)
あり得ない。ケンヤはそう思った。この状況で飛び出してくることも、この姿のケンヤに臆せず近付いてくることも、あり得ない。
「……ほんとに、あんたは……」
(……! おい、止まれ、俺の身体! やめろ、撃たないでくれ!!)
だがブラッドは止まらない。破壊衝動のままに、向かってくる何者にも容赦なくその銃口を突きつける。
(やめろ、やめてくれ!! いやだ、やめろ、やめろぉおおおお!!!)
----ドンッ
重い銃声が響き、ナツミの上半身は赤黒い槍で出来たオブジェへ変わってしまった。まるで血の華のように咲く槍に身体の中から滅多刺しにされ、その血で立ち尽くすケンヤを濡らした。
「あ……ぁあ……」
その雨で溶かされていくかのように、ブラッドの仮面が、鎧が、銃身が、流れて消えていく。
ただの血泥を見に纏うだけの人になってしまったケンヤは膝から崩れ落ち、茫然とナツミだったものを見ていた。
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長い、長い回想だった。
ケンヤは伏せていた目を開け、再び目の前の光景を見た。
「…………」
もはやケンヤは何も言うことが出来なかった。
ブラッドが収まったのを見てか、サイレンの音と共に、何人もの武装警察が近付いてきている。
もうケンヤに対抗する力は残っていない。
(……こんな事なら。こんな事ならナツミと……)
その先は考えるのも嫌だった。だからケンヤは項垂れたまま、取り押さえにきた何人もの人たちになされるがままに連行されていった。
……世界で初めて誕生した魔女"ブラッド"の起こした惨劇は、それから後、この日を血塗られた誕生日と呼んで、語り継がれる事になる。
お読みいただきありがとうございました。
感想・コメントお待ちしております。
さて、洋上都市アトランティスを舞台にした物語、『ペトリコール・ランデブー』はシリーズ化して短編をポロポロと出していく予定でして、今回はその第一弾的な立ち位置になります。
数年前にプロローグというかシリーズのうちのひとつをとある企画のために出していましたが、あれをそろそろ本格的に始動させようという方針です。
まだまとまっていないので更新は不定期になってしまいますが、アトランティスで起こる様々な事件や問題について、皆様と見ていければ良いかなと思っております。
それでは次回をお楽しみに!