ニーベルゲンの呪い
千載一遇のチャンスである。
ここでバルムンクを奪えば、今後、竜が殺されることはなくなり、《竜骨生物群集帯》も発生することはなくなる。それは、俺たちの仕事に、ゴールが確定することを意味している。
もうこれ以上、《竜骨生物群集帯》が増えなければ、後は、国内各地に放置されている竜骨を回収すれば、俺たちの仕事は終わるのだ。
地獄のような労働に、終止符が打たれる。
本当に長い戦いだった。
もう、赤帽子の軍勢は、目前まで迫って来ている。さっさとバルムンクを回収し、竜骨の回収に向かわなければならない。
それが、結果として、勇者パーティーの魔導士を救うことになるとは、何とも皮肉な話である。
ただ、もうちょっとだけ、放置していれば、勝手に死んでくれるような気がする。
やはり、どう考えても、この魔導士には、ここで退場してもらったほうが、こちらとしても都合が良い。魔導士がいなくなれば、厄介な精霊魔法を使う者がいなくなるため、勇者パーティーにとっては、かなりの戦力ダウンとなる。
そもそもコイツは、ルピナスを拉致して乱暴しようとした勇者の一味だ。そう簡単に許せるわけがない。魔力が吸い尽くされて死ぬなど生温い。もっと凄惨な死で償わせなければならない。
この殺意は、紛れもなく真意だ。
コイツを生かしておくべきではない。
今から、生き残った住民の中から、老人や病人、怪我人なんかを、荷台に乗せていかなければならない。その間だけでも、この魔導士を放置していてもいいんじゃないのか。そして、出発時に死んでいれば、万々歳。そのままバルムンクを奪って、赤帽子の餌にすればいい。もし生きていたら、バルムンクだけを奪って、そのまま赤帽子の餌にすればいい。
それだけで、片付く話だ。
だが、誰も、それを望んではいない。
彼女を見殺しにすることを、誰も望んでいない。
そう、ルピナスでさえも。
まったく、俺の同僚は、馬鹿みたいに、お人好しな奴らばかりだ。
異種族は、何だかんだ、お人好しな奴らが多い。
長命な種族が多いからか、それとも、信仰心の強さによるものなのか、理由はよく分からないが、異種族は、圧倒的に良い奴が多い。その反面、人間は、圧倒的に悪い奴が多い。
異世界に来て思ったのは、人間よりも異種族のほうが、遥かに接しやすいということだ。
だからこそ、この職場は働きやすい。
馬鹿にして、レッテルを貼って、陥れることしか考えていない日本の職場に比べたら、異世界の職場のほうが、よっぽど働きやすい。
そんな職場だからこそ、俺は、本気になることができた。
「あー、もう分かったよ」
俺が、魔導士に近づこうとすると、すかさずルピナスが、俺の背後に回り込み、両手で目隠しをした。
周囲が暗闇に包まれ、彼女の手のぬくもりと、柔らかな指先の感触だけが伝わった。
「これで、何も見えないでしょ」
「ああ、何も見えん」
何としても、魔導士の裸体を見せたくないらしい。見くびられたものだ。俺を何歳だと思っている。女の裸ぐらいで動揺するわけがないだろ。まあ、嘘だが。
「じゃあ、あたしの言うとおりに、手を伸ばして」
俺は、暗闇の中、ゆっくりと手を伸ばす。
「もうちょっと右、いや左かな、やっぱり右、ああ、違う、もっと左っ!」
「おい、コラ、ちゃんとナビしろっ!」
「分かってるわよ、そうそう、そのまま、まっすぐ、まっすぐよ」
俺は、暗闇の中、真っすぐと手を伸ばす。
「変なとこ触ったら、殴るわよ!」
「それは、お前のナビ次第だろ!」
その時、ちょんっ、と指先に何か触れた。
「……っ!」
すぐにそれが、バルムンクの柄だと分かった。
一瞬にして、ごっそりと魔力を持って行かれたからだ。
指先が触れただけで、これだけの魔力を吸い取られるのか。
俺は、背筋が寒くなった。
魔剣へと手を伸ばす恐怖が、じりじりと這い上がってくる。
バルムンクが、ここにある。
数多の竜を屠り、数多の《竜骨生物群集帯》を生み出し続けた元凶が、ここにある。
この剣さえなければ、もう《竜骨生物群集帯》が生まれることはない。
そう考えると、不思議と、恐怖は消え去っていった。
この忌まわしい連鎖を、ここで断ち切る。
俺は、全身の魔力を高ぶらせ、バルムンクの柄を握った。
瞬間、意識がぷつりと途切れた。
巨大なスクリーンが広がっていた。
うんざりするほど見慣れたスクリーンだ。
俺は、スクリーンと向かい合う形で、椅子に腰を掛けていた。
座り慣れた赤い椅子。
おかしい。
どうしてここにいる。
おかしい。
俺は眠っていないはずだ。
不気味なほどに静まり返った館内。
当然、誰もいない。
誰もいない。
はずだった。
どこからともなく、カツン、カツン、と靴音が聞こえてきた。
「へえ、随分と、変わった魔法を使うのね」
女性の声が聞こえた。
どこか鷹揚で、冷淡な声。
巨大なスクリーンの前に、細い人影が映った。
妙齢の女性だった。
まるで死者を弔うかのような漆黒のドレスが、幽鬼のようにゆらゆらと揺れている。
俺は目を張った。
女性は、婉然と笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらへと近づいて来る。
細く艶やかな長い銀髪が、歩くたびに、ふわりふわりと波を打っている。大きく切れ長の瞳は、墨を塗り潰したように黒く、一片の光もない。血の気のない白い肌は、不気味な光沢に包まれ、まるで、洞窟に棲む軟体動物のそれに近かった。華奢なその姿は、彫像のように優美で麗容なシルエットを生み出しており、どこか、触れたら崩れ落ちてしまいそうな脆さと儚さを感じさせた。
似ている。
恐ろしいほどに似ている。
ルピナスに。
だが、まったくの別人だ。
「映画館に客だ、と……」
そんなことは、未だかつて一度もない。
そもそも眠っていない状態で、映画館に引き込まれたことなどない。
「エイガカン? それが、この魔法の名前?」
漆黒の女性が、俺から少し離れた椅子に腰を掛けた。
「あ、アンタ、誰だ……」
俺が問うと、漆黒の女性は、深紅の唇を、ゆっくりと綻ばせ、囁くような声で言った。
「私の名前は、クリームヒルト」
口の端を笑みで吊り上げながら、続ける。
「ニーベルゲンの呪いよ」